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尊厳をもっていきるとは、

尊厳死と安楽死を書いてある方がいらゃっしいました



それを考えてみたことはないとは言えない

尊厳をもっていきる
目標持って、満足して、楽しく、なんて考えて生きていけたら良いなって、思ってました。

大きな病になったとき、
直面して、いま、楽しいと思えることは何と、深く考えたりします。


本当に仲の良かった友
ある日、手術をして、哀しいと言ってた。不安で哀しくて、わたしの気持ちなんか、
誰にも分からない。

例えあなたにも分からない!

わたしは、本当に哀しかった。
別れが来るかもしれないことも哀しかったけれど、それよりも

その日が来るまで、
哀しいと泣いて暮らしていくことの方がもっと、哀しいと思ったのです。


わたしだって、
いつ事故に遭うかも分からない
いつ、どんなことが起きるなんて分からない。

その子は、A子さんと言います。
A子さんは、
この先が、死しかないことを伝えられた気持ちなんて、伝えられた者にしか分からない

と言ってました。

そう思って生きていくことが、わたしには耐えられなく辛かったです。


たくさんの話をしました。
この世には、目的があるはず。
このことは、信仰にも繋がるかも知れないですが、
生きている間、楽しく、人に喜ばれることをしたら、楽しくない?


わたしとは、息子の同級生のママ友です。息子も、娘もいるA子さんには、哀しみが不安が山ほどあるのは良く分かります。


夫のために生きるのか
子供のために生きるのか

これからどうして生きていくのかを考えたとき、


わたしは、わたしたちは
8年という時間、楽しんだ。
ゴルフは、私は知らなかったけれど、A子さんは子供の頃から、やってたらしく
いわゆるお金持ちのお嬢様?
やりたいけど、誘える人いないと、夜な夜な、打ちっぱなし、練習場に通い、レッスンも受け、コースにも行った。

楽しくて、愉しくて笑いっぱなしで、本当に愉快だった。
コース行きたいねっと言われても、自営してたわたし、自由なようで自由でなくて、

出来るだけ行った!
もっと行ってあげたかったと後悔してる。


その頃、シャンソンを習い始めてたので、誘った。
お嬢様はピアノも弾け、音感もあり、発声も音感も素晴らしかった。

おさらい会と言って発表の時があり、それはそれは緊張し、衣装も、メイクもド派手で文句なし、

勿論暗譜して、生演奏でのおさらい会は愉しくて、苦しくて、刺激的なものでした

おさらい会のために練習をずっとしていて、癒されていたかも知れない。


その頃には、ドクターストップで骨が折れるかも知れないので、ゴルフ禁止令が出ていた。

A子さん、人には言いたくない、病気のことも、言いたくない、と言っていた。
同情されたくない、哀れみも受けたくない、まっぴらだと言ってた。

これは、本人の意思で、頑なに頑固でした。子供達は知らなかったので、泣いてたけど、
それは、家族間の話です。

ボランティア活動もしてました。人が喜んでもらえることするのは愉しい。感謝してもらえることは幸せだとも言ってた。


良く旅行にも行った。
まだ若くて、50歳くらいだったので、ふたりで運転交代して、何処までも行った。

鳴門に行き、宇宙を感じたり、
和歌山の熊野神社に行き、ご祈祷を受け、あの身体に響く、魂に響く太鼓には驚かされた。
八咫烏の話も聞いた。

川湯温泉での愉快なことも、忘れない。肩にタオルを掛け、胸に垂らし、温泉にも入れるようにもなってた。

そう、乳癌です。
スーパー銭湯にも行きましたね。愉快でした。

それは、尊厳と言うことを訴えてました。言いたくない、でも、隠れてばかりでは愉しくないと

言ってました。

菩薩と如来
何かを悟り、達観しているようでした。

そんなある時、わたしはインフルエンザにかかり、高熱を出していた。

A子さんは、酷く苦しくなり、救急車で病院へ行った。少し前から、調子は良くなかったから、買い物もしてあげていた。

家族のご飯も作っていた。お料理大好きで、上手でした。
家で家族と過ごしてました。

それから1週間ほどで、別れが来ました。最後に、私も病院には行けました。愉しかったね。
そんな話も出来たのですが
旅立ちました。


葬儀も過ぎ、わたし、哀しかった。寂しかった。でも、不思議なことに、

夢ではないです、たぶん。
毎夜、枕元にA子さんが来て、話をするんです。毎夜です。

もう痛くないし、
どこにでも行けるよ、

ええっと言うような話をしてました。だから寂しいけど寂しいと実感は出来なかった。
いつもと変わらない時間があったから、寂しくなかった。


ある日から来なくなった。
ご主人に聞いたら、
A子は今ここに居ると言ってました。忌み明けは終えたとのこと。


分かりません。
そんなことありました。

また、義妹の時にも不思議なことありました。
闘病生活してました。その頃は30年も前なので告知はせず、自由な感じではなく、本人にも子供にも伝えず、心の準備もできておらず、
子供のためにもっと話したいことあったと思うし、楽しみたかったとは思うけど、それは赦されない時代でした。

付き添っていたわたしは
まさかと思うようなことを知りました。血圧が上が50になると義妹は、

手を持っていてっ!言うのです。

血圧も安定の範囲内に戻ってくると、話し始めるのです。
義母も一緒でした。

いまね、おばあちゃんとおじさんがここに来たのと

おばあちゃんは義母の母親、
おじさんは、戦地で亡くなった義母のお兄さん、遺影があるので知ってたらしい。

へえ…!
そうなのって言う感じでした。

また、血圧が下がり、

手を持っててっ!とまた、言うのです。


また、安定の範囲内になったら
はなしはじめ

いまね、あそこから、わたし、自分の身体を見ていたのと、
天井を指さして、ベットの上から見てたのと言うのです。

すう~って
からだから、抜けていったというのです。だから、持っててと叫んだんでしょう。


3度目には、戻ってきませんでした。逝く者は、残る人に何かを伝えてくれたのですね。

分かりません
あの世があるのか、来世があるのか分かりません。不思議な話です。


また、母の時も
痛み止めを打ちながら、朦朧とする日もありましたが、
あのね、
おかあさんが、川の向こうから、まだ早いからおかえりと言ったそうです。

そのあくる日、従姉妹とか、懐かしい同級生とか、たくさんの人が会いに来たのです。
元気に話せて、愉しそうでした。

その後、
しんどい?と聞くと
しんどいと。
おじいさんはいないの?
今日は帰ったら行かんと言ったでしょと言いだした。


急いで呼び戻しました。
母は、もう行っても良いと聞くのです。治るわけでもなく、痛みも取れるわけでもなく、わたしも限界なほどでした。

わたし、もう良いよと。

母、じぁーね、バイバイと

父も間に合いました。


機械の音は、ピーとなり、先生、看護婦も来てました。


不思議なことでした。

いま、夫はどう考えてるのだろうか?

わたしに、食べろと言われ
わたしに、足動かせと言われ
紙パンツはかされて 
ディケアに行かされ

また、訪問医だけでなく
訪問マッサージも受けさせようとしている。

彼に
どんな意思があり
どう思ってるのだろうか

意思確認で始めに
延命治療はイヤだとは言っていたけれど、いまはどう思ってるのだろうか?

ランチに行こうと言っても
行かない!
整骨院に治療に行こうと言っても
行かない!

今後はどうして欲しいのだろう?
尊厳ある生き方がいま、出来てるのだろうか?


モヤモヤしています。

昨夜も、夜中にトイレに行ったり、ベットの端で挟まり苦しんだり、シーツまでもぐっしょり、汗かいたと言うけれど、

ま~るく円を描いている。

モヤモヤしているのは、
わたしだけではないのでしょうね。


歩いてトイレに行きだがったり
オシッコが出ているうちは
栄養エネルギーを飲めたり
プリン食べたり、
果物食べたりできてるうちは

まだまだ、お元気にお過ごしで、暴れるんでしょう。

まだ悟りの出来てないお人
まだまだ行けませんね。


そう言えば
義父は、全盲で頑固者で困り者でしたが、鍼灸医でしたので傲慢でした。
そんな義父も、亡くなる半年ほど前から、観音様のように和やかでした。


夫は、まだまだですね。


長々失礼しました。




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