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出雲口伝における物部伝承①徐福の来日1回目

 【3世紀中頃】「銅鏡の文化」が北九州から大和にシフトしていき、そのころ纏向遺跡(奈良)にて古墳が作られ始め、古墳に銅鏡が埋葬されるようになります。この頃が『実質的な日本の建国』と考えており、この仮説をベースにいろいろと調べてきました。

 この後は「物部氏」について調べていく予定ですが、ここで避けて通れないのが「物部氏」に関する多くの伝承がある「出雲口伝」です。

「出雲口伝」関連の書籍については過去の記事で少し触れたのですが、「出雲口伝」における「物部氏」に関連する内容を掻い摘んで紹介します。


<徐福について>

「出雲口伝」のキーマンとなるのは「中国大陸」からやってきた「徐福」です。「徐福」は中国の「秦の始皇帝」の御代に登場する人物です。

紀元前221年
 秦王「嬴政(えいせい)」が中華統一を果たし、始皇帝となる。

 その後、始皇帝に謁見した徐福(徐巿とも)は、「東海に蓬萊山などの仙人が住む山があり、そこに不老不死の霊薬がある」と進言し、始皇帝の名を受けて、旅立ちました。(※[司馬遷]氏が編纂した『史記』による)

紀元前219年:徐福出航1回目
紀元前210年:徐福出航2回目

⇒どこにたどり着いたかは定説がなく、各地に伝承が残っています。

※ここからは「出雲大国とヤマト政権」(富士林雅樹:著、大元出版)を参考にしています。詳しくは、この書籍を御覧ください。


 「出雲口伝」によると
 「1回目にたどり着いたのが、島根」、
 「2回目にたどり着いたのが、佐賀」、
 とされます。

<1回目の到来:島根へ上陸>

  徐福の一回目の来日の地は、石見国の五十猛(いそたけ)(島根県太田市)でした。

徐福は、倭国風の名前として、「ホアカリ(火明)」を名乗った。

その頃、出雲では、8代目の大名持(おおなもち:出雲での王の呼び名)の時代であった。8代目の大名持は、「神門臣家」のヤチホコ(八千矛)で、出雲神話では「オオクニヌシ(大国主)」と呼ばれた王であった。
 一方、少名彦(すくなひこ:出雲での副王の呼び名)は、「富家」のやえなみつみ(八重波津身)、別名「ことしろぬし(事代主)」が選ばれた。

「ホアカリ(火明)」(徐福)は、出雲の八千矛の信頼を得て、その娘「高照姫」(道姫)を奥方に迎えることができた。

  やがて、「高照姫」は男の子を産んだ。その子は、イソタケ(五十猛)と名付けられた。


 しかしながら、平和な日々は長く続かなかった。「ホアカリ(火明)」の勢力は、出雲国を乗っ取ろうと考えて、行動に移した。
 「ホアカリ(火明)」の勢力は、「八千矛」「事代主」の暗殺を実行した。

 
  ところが出雲国の怒りが凄まじく、「ホアカリ(火明)」は妻子を置いて、逃げ去ることとなった。「ホアカリ(火明)」(徐福)は、のちに「記紀」ではスサノオの命と名を変えて書かれた。


「ホアカリ(火明)」が去った後、イソタケ(五十猛)は海岸近くの「五十猛神社」(島根県大田市五十猛町)の地に住んでいた。イソタケ(五十猛)は世話をしてくれた「大屋姫」を連れて、船で丹波国へ移住した。イソタケ(五十猛)は移住先である「丹波国」では指導者となり「カゴヤマ(香語山)」と名を改めた。

「カゴヤマ(香語山)」は、籠神社(京都府宮津市)の後方の小高い山にある「元宮」の地に住んだ。 この山の名前が「香語山」である。「五十猛」はこの山の名前にちなんで、「カゴヤマ」と名前を変えたのであろう。


(つづく)




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