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出雲口伝における物部伝承③天村雲の誕生

「出雲口伝」の中で「物部氏」に関連する内容を掻い摘んで紹介しています。

 ※なお、「出雲大国とヤマト政権」(富士林雅樹:著、大元出版)を参考にしています。詳しくは、この書籍を御覧ください。

<天村雲の誕生>

 丹波の「香語山(かごやま)」は筑紫の「穂屋姫」を后に迎えることとした。言い換えると、徐福の異母兄妹が結婚したことになる。
 そして生まれた長男が「村雲」であった。

 村雲は「丹波」にいたときは「海部家」と呼ばれていた。
そして「ヤマト地方」に移住したときに、鴨都波神社の北西の「笛吹」の地に住んだ。その辺りは、「高尾張村」と呼ばれていたので、「尾張家」とも呼ばれるようになった。

 当時の大和盆地にある「香具山(橿原市)」は沼の中で、その様子は、海にあるとされる蓬莱島に似ていた。そこで、「村雲」は「父である香語山命」を祀る社を建てた。その結果、この山は、「アマの香具山」とよばれるようになった。

 そして、「天村雲」は大和盆地で勢力を伸ばしていった。
この「村雲」は後にヤマトの初代大王となる人物で「記紀」に記載された神武天皇(初代)のモデルとなった。

 このことは、以前記載した「出雲口伝「大元出版」」の記事でも少し触れています。


 「天村雲」が、大和盆地で結ばれた娘は、出雲族の事代主の娘である「五十鈴姫」であった。
 このことは、以前記載した「溝咋神社」の記事でも少し触れています。

 五十鈴姫の母方は 淀川流域に勢力を伸ばす一族でした。
 出雲の事代主に嫁いでいたが、事代主が「徐福」一族に殺された後、母とともに、実家の畿内に戻っていました。
 そして、五十鈴姫は、兄である「天日方奇日方」とともに、大和地方に進出していたようです。
  このことは、以前記載した「大神神社と神坐日向神社」の記事でも少し触れています。

「天村雲の一族」は、 「事代主の一族」と強く結びつき、大和盆地を治めていました。

(つづく)


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