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出雲口伝における物部伝承⑥九州勢の東征1回目-1/3

「出雲口伝」の中で「物部氏」に関連する内容を簡単に紹介しています。

※この記事は、「親魏和王の都」(勝 友彦:著、大元出版)を参考にしています。詳しくは、この書籍を御覧ください。


 九州の筑後川流域を中心に徐福の後裔は住んでいた。
※出雲口伝ではこの勢力を物部政権や物部勢力と表現しています。

<物部勢力の第一次東征:出発>

 その当時(2世紀末頃)、【九州勢力】の指導者は、ナギサタケ王の御子のイツセ(五瀬)であった。彼は弟の三毛野稲飯と協議し、国の中心は、近畿地方が良いと考え、遷都計画を立てて、好機を狙っていた。
 すると播磨吉備・出雲が戦乱状態になったという知らせを受けた。

 そこでイツセ(五瀬)ヤマト地方へ進軍することを決め、作戦を練った。

 【九州勢力】である「物部一族の軍勢」の大軍船が瀬戸内海を通れば、吉備軍「フトニ王(孝霊天皇:7代)の軍勢」の攻撃を受ける危険性があった。
 そのため九州の南から四国の太平洋側を経由して、近畿に向かった。


<ゆかりの地名>

 高知県には、「物部川」という名の川があり、「物部」とつく地名がいくつかある。これは、「第一回目の物部東征の際の 名残り」と出雲口伝関連の書籍では書かれています。 

高知県にある物部がつく地名


<紀ノ川 上陸戦>

 船団は淡路島の南岸沿いに 紀ノ川河口に向かった。紀ノ川を遡り、南からヤマトへ入る方針であった。
 上陸すると、名草村の戸畔(女家長)が率いる軍勢が現れて毒矢を射かけた。その矢は統率者・イツセの肘と脛にあたった。そして、その矢の毒が体に回って、イツセは戦死した。

和歌山市の地図

【竈山神社】(かまやまじんじゃ)

 御祭神:彦五瀬命
 ※本殿の背後には彦五瀬命の墓と伝える竈山墓(宮内庁治定墓)がある。



 イツセに代わった指導者が弟の三毛野稲飯なのか?が、分からなかったため、「記紀」の作者は次の指導者として「ウマシマジ」の名前を創作して使った。

 ちなみに、この「ウマシマジ」とは、後の3世紀に「武内宿禰とその弟のウマシウチ宿禰」が九州から東征した事案が、似ていることからヒントを得たものである。


 そして「旧事本紀」によると、名草戸畔(名草姫)は、紀伊国造家の出身で、後に「建斗米」に輿入れしたという。


 この「建斗米」の名は、「尾張氏の家系図」などにでてきます。


(つづく)

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