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2人の吉備津彦②吉備津神社(備中)岡山市北区

「孝霊天皇(7代)」の皇子である兄『大吉備津彦命』と弟『若建吉備津彦命』の伝承について調べています。


 『吉備の中山』
(岡山市北区)という神名備山に「吉備津神社」「吉備神社」というゆかりの神社があります。

 ここでは、西麓にある「吉備津神社」について紹介します。

【吉備津神社(備中)】



<本殿の御祭神>9柱

【主祭神】
大吉備津彦命(おおきびつひこ) 第7代孝霊天皇の第3皇子。
 別名:彦五十狭芹彦命(ひこいせさりひ、五十狭芹彦命)。

 崇神天皇10年、四道将軍の1人として山陽道に派遣され、弟の若日子建吉備津彦命と吉備を平定した。その子孫が吉備の国造となり、古代豪族の吉備臣(のち吉備朝臣)になったとされる。

【相殿神】
千々速比売命(ちちはやひめ) - 大吉備津彦命の姉。
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ) - 大吉備津彦命の姉。
日子刺肩別命(ひこさすかたわけ) - 大吉備津彦命の兄。
倭迹迹日稚屋媛命(やまとととひわかやひめ) - 大吉備津彦命の妹。
彦寤間命(ひこさめま) - 大吉備津彦命の弟。
若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこ) - 大吉備津彦命の弟。

御友別命(みともわけ) - 大吉備津彦命の子孫。
仲彦命(なかつひこ) - 大吉備津彦命の子孫。

<創建>

 社伝によれば、祭神の大吉備津彦命『吉備中山』の麓の茅葺宮に住み、281歳で亡くなって山頂に葬られた。そして、仁徳天皇の御代に、5代目の子孫の「加夜臣奈留美命」が茅葺宮に社殿を造営し、命を祀ったのが創建とする。吉備国に行幸した仁徳天皇が、大吉備津彦命の業績を称えて5つの社殿と72の末社の創建を指示したともある。

 つまり、大吉備津彦命が住んでいた「茅葺宮」の跡地に、この「吉備津神社」を創建したと伝承されています。


<社殿・末社など>

古くは5つの社殿と72の末社があったとされる。

【5つの社殿 = 吉備津五所大明神】

次の5つの社殿「吉備津五所大明神」と総称した。
 ①本社正宮・②本宮社・③新宮社・④内宮社・⑤岩山宮

②本宮社  祭神:孝霊天皇(第7代。大吉備津彦命の父)
③新宮社 祭神:吉備武彦命(若日子建吉備津日子命の子)。
  (現在は本宮社に合祀) 以前は南方の東山に鎮座。
④内宮社  祭神:百田弓矢比売命(大吉備津彦命の妃)。
  (現在は本宮社に合祀) 以前は吉備の中山の南部山上に鎮座。
⑤岩山宮  祭神:建日方別命(吉備国の地主神)。

【末社】

三社宮 - 次の3社を総称。
 春日宮・大神宮・八幡宮

滝祭神社
えびす社
祖霊社
一童社
宇賀神社 - 神池の島に鎮座。


【回廊】

この神社には400m程度と非常に長く、印象的な回廊があります。
戦国時代真っ盛りの天正年間(1573年 - 1591年)の造営とされる。

 長い屋根付きのスロープといった感じでした。

【御釜殿】鬼伝説

金曜日を除く毎日、特殊神事の「鳴釜神事」が行われています。

 この神事の起源はご祭神の温羅退治のお話に由来します。捕られた「温羅」(鬼)の首をはねて曝しましたが、不思議なことに温羅は大声をあげ唸り響いて止むことがありませんでした。そこで家来に命じて犬に喰わせて髑髏にしても唸り声は止まず、ついにはこの御竈殿の釜の下に埋めてしまいましたが、それでも唸り声は止むことなく近郊の村々に鳴り響きました。 
 夢枕に温羅の霊が現れて、『吾が妻、阿曽郷の祝の娘阿曽媛をしてミコトの竈殿の御饌を炊がめよ。もし世の中に事あれば竃の前に参り給はば幸有れば裕に鳴り禍有れば荒らかに鳴ろう。ミコトは世を捨てて後は霊神と現れ給え。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん』とお告げになりました。
そのお告げの通りにすると、唸り声も治まり平和が訪れました。これが鳴釜神事の起源となる。  ー吉備津神社のHPよりー

【矢置岩】鬼伝説

大吉備津彦命が温羅(うら)との戦いのときに射た矢を置いたとされる岩。
※「矢立神事」:矢置岩に供えた弓矢を、東西南北に向かって一斉に放ち、四方の悪魔を祓い、健康と招福を祈ります。


<この記事のまとめ>

 2人の吉備津彦の『吉備地方』での拠点は、この『吉備の中山』という神体山の周辺でした。その山の麓に『大吉備津彦命』が住んでおり「茅葺宮」と称しました。その跡地に、この「吉備津神社」が創建されました。

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