見出し画像

出雲口伝における物部伝承②徐福の来日2回目

 「出雲口伝」の中で「物部氏」に関連する内容を 簡単に紹介しています。

 ※なお、「出雲大国とヤマト政権」(富士林雅樹:著、大元出版)を参考にしています。詳しくは、この書籍を御覧ください。

<筑紫での徐福>

 出雲口伝では、徐福の二回目の来日の地は 北九州の佐賀平野でした。

 徐福は、筑紫では「饒速日(にぎはやひ)」と名乗った。
 故郷の地名「饒安(じょうあん)」から「饒」の地を使ったものと考えられる。つまり、徐福は「出雲」では「ホアカリ」と名乗り、「筑紫」では「ニギハヤヒ」と名乗った。つまり、「ホアカリ」「ニギハヤヒ」は同じ人物であった。


 ニギハヤヒ(徐福)
は、宗像家の三女「市杵嶋姫(いちきしま姫)」を后に迎えた。そして、生まれた子が、ヒコホホデミ(彦火火出見)穂屋姫(ほや姫)であった。


<2回目の到来:佐賀平野へ上陸>

 佐賀県には、徐福伝承が多く残っています。 それらを実際に巡ってみましたので、紹介します。

 佐賀平野で上陸した場所は「浮盃(ぶばい)」(佐賀県佐賀市)という場所です。

地図を見ると、「浮盃(ぶばい)」は海から離れているように見えるのですが、弥生時代は、このあたりが海岸線でした。



佐賀における海岸線の変遷 (株)プレナスHPより
https://kome-academy.com/kome_library/culture/culture02_saga.html

 徐福は、海に「盃」を浮かべて、どこに上陸するかを占いました。盃が波に運ばれたどり着いた所に、上陸することが決められました。

 その上陸地に、「浮盃(ぶばい)」という地名がついている。

街の交差点にあった看板


 金立神社(佐賀市諸富町大字寺井津)は、市街地にある小さな神社です。
そこに「徐福上陸の伝説の地」として記念碑が立っていました。

金立神社(佐賀市諸富町大字寺井津)


金立神社(佐賀市諸富町大字寺井津)



新北神社(にきた神社:佐賀市諸富町大字為重)は、立派な神社で、御朱印もいただけます。


 境内には徐福が上陸の記念に、中国から持ってきた種を植えたとされる生薬「ビャクシン」の木を見ることができます。



【金立神社(上宮)】
佐賀平野の北側に「金立山」があり、頂上には徐福を祀る神社がある。
 御祭神:
  ・保食神(うけもちのかみ)
  ・罔象売女命(みずほめのみこと)
  ・秦の徐福

 「湧出御宝石」と称される巨石や巨木などの自然物を神の依代(よりしろ)として崇敬した神社形態が整う以前の古い祭祀の名残りをとどめる信仰史上極めて価値の高い祭祀遺跡である。

【金立神社(下宮)】
金立山の麓には「金立神社(下宮)」がある。

 御祭神:
  ・保食神(うけもちのかみ)
  ・罔象売女命(みずほめのみこと)
  ・秦の徐福


「金立神社(下宮)」の境内には「甲羅弁財天」がある。
 徐福に不老不死の妙薬(フロフキ)を授けたのが、「蓬莱島」の天女であったという伝承があります。

「フロフキ」とは、金立山に自生している薬草で、和名では「カンアオイ」とも呼ばれる植物です。


<ちょっと考察です>

 徐福が求めた不老不死の妙薬は「蓬莱山」にあるとされるています。
この「蓬莱」(ほうらい)「甲羅」(こうら)は発音が似ていますね。この「ほうらい(蓬莱)」が訛って、「こうら(甲羅)」と呼ばれるようになったのでしょうか? 
 つまり「蓬莱の天女」⇒「甲羅の弁財天」となった?

 発展させて考えると、同じ筑後平野で「こうら」と呼ぶ代表的なものに、「高良大社(こうらたいしゃ)」(福岡県久留米市)があります。
 古くは「高牟礼山(たかむれやま)」と呼ばれていた「高良山」には「高牟礼の神」が住んでいた。
 そこへやってきた「高良の神」が一夜の宿を借りたところ、結界を張ってそのままお住まいになられるようになった。そして山上に戻ることができなくなった「高牟礼の神」は、山麓にある「高樹神社」に鎮座されている。

 この「高良の神」も「蓬莱山」の信仰から「こうらの神」と呼ばれるようになたのだろうか?と勝手な妄想を膨らませてみました。


【徐福長寿館】
金立公園薬用植物園も併設しています。

 金立山の麓にある「徐福の資料館」です。
 良心的な値段の資料館で、展示自体は、多くは無いですが、解説員の方が、丁寧に説明してくれます。
 徐福についてだけでなく、薬用植物にも丁寧に教えてくれました。


 (つづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?