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孝霊天皇の鳥取遠征⑦『妻木晩田遺跡』は関係あるのか?

 孝霊天皇(7代)の伝承が多く残る「伯耆国」ですが、「高杉神社」のある「孝霊山」の麓には、この地域最大級の弥生遺跡となる「妻木晩田遺跡」があります。

 弥生時代後期から古墳時代の頃には人が住んでいた形跡があり、孝霊天皇の活動時期と重なる遺跡です。
 では孝霊天皇とどういう関係になるのでしょうか?この妻木晩田遺跡を攻略するために大和地域から孝霊天皇はやって来たのでしょうか?

妻木晩田遺跡から眺める『弓ヶ浜半島』

 私自身が、『妻木晩田遺跡』におとずれて、気づいたことは、標高100m程度の高台に位置していることです。
 つまり日本海側では珍しく「高地性集落」でした。「水田稲作」をするには、平地に降りていく必要があります。


環濠跡

巨大な遺跡の 見晴らしの良い場所に 小さな環濠に囲まれた場所がありました。しかし、ここは環濠がある時期には「住居や倉庫がなかった」ことが分かっており、何のための環濠なのか、まだ分かっていないようです。
 「住居や高床式倉庫、古墳」などもあるのですが、「環濠」が埋まった後の時期に作られたとのことでした。


1世紀後半

四隅突出型墳丘墓が洞ノ原地区にできる。
「洞ノ原地区」にある輪状の形が環濠です。中には何もありません。


洞ノ原地区には「1m四方」の小さな四隅突出型墳丘墓がたくさんありました。

ここの四隅突出型墳丘墓は、びっくりするくらい小さな墳丘墓でした。
私の墳丘墓の概念が覆されました。1m四方程度ということで、子供の墓とされているようです。それがたくさんまとまってありました。
 1m四方でも発掘時にはしっかり四隅に石が敷かれていたそうです。



2世紀後半(150~200年頃)
洞ノ原地区にあった「環濠」が無くなっています。


3世紀前半(200~250年頃)
 集落の人口が減っていますが、首長の墓が作られています。


妻木晩田遺跡は右上。 周辺にも住居跡の見つかった弥生遺跡が多くあります。


<妻木晩田遺跡の最大の特徴>

この遺跡の特徴として、周囲の弥生遺跡よりも 「鉄器」がたくさん出土しています。

300点以上の鉄器が出土しています。
このあたりでは特に多いです。


九州から伝わった鉄鍛冶をしていたようです。
「たたら製鉄」で『鉄を精錬所をするのはまだ後の時代です。この頃は、朝鮮半島などからもたらされた「鉄素材」を叩いて加工『鍛造』をしていました。

鉄は、朝鮮半島から。朝鮮半島には、製鉄の技術があったようです。朝鮮半島から直接、もしくは 北九州経由で運ばれました。


<この記事のまとめ>

 妻木晩田遺跡の特徴は、日本海における「鉄の加工拠点」の1つだったという事です。

 大和盆地は「鉄の後進地域」でもあり、『孝霊天皇は「鉄」を求めて遠征してきた』可能性がありますね。

※今回は、弥生の館むきばんだの展示パネルを一部 活用させていただきました。
実際に訪れることをお勧めしたい巨大な遺跡でした。

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