幼子のような心 神の声を聞くことができる人


召命

神からの言葉を受けとる人というのは そうそういるものでありませんし、現代では、
〇〇の神からのお告げがあった等と言い出す人が 身内にいれば 病院に連れていかれるのがオチだと思います。

東大の法学部を出て宗教家になったのは 大川隆法総裁一人だと言われています。法律を勉強した人が  神の言葉を受け エル・カンターレ宣言をするというのは 常識的にはあり得ないことだと思います。

1981年の3月23日に、日蓮六老僧の一人である日興上人による自動書記による霊界通信が始まります。

この 霊界からの通信が始まり 日蓮聖人からイエスキリスト、釈尊からのメッセージが降りてくるのです。これは太陽の法の第6章 エル・カンターレへの道で著されています。

高級霊界からのメッセージを受けとることができた理由を 幸福への方法で次のように述べられています。


「この世のいろいろな思い、しがらみに染まらずに、純粋な理想のようなこのを持っている。あるいは、透明度の高いガラスのような心を持っている」ということなのだと思います。要するに、このガラスの透明度が低いと、仏神の声は聞こえないのです。普通の人でも、四歳ぐらいまでの小さい子供のときには、ほんとうに天使のような心を持って純粋に生きています。

しかし、だんだん物心がついてくると、反抗期に入ったり、友達といっしょに悪いことを考えたり、いじめをしたりされたりと、いろいろなことがあって、心がしだいに歪んでいくのです。
実社会に出てからは、それがもっと激しくなります。狡猾(悪賢い)な考え方をするようになったり、平気で人を騙せるようになったりします。あるいは、思いもよらぬ相手から陥れられてしまい、「世の中には、そうしたこともあるのだな」ということを知って、以後、警戒していくようになったりもします。

このように、この世的なやり方にいろいろ染まって、本来の純粋な心を忘れていくようになるのです。もちろん、この世のなかで身を処していくためには、処世術というか、いろいろなことを知らねばいけません。
それには経済もあるし、仕事上の専門知識もあります。そうしたことをまったく学びもしないで、幼子のような気持ちだけでいたならば、この世では通用しないでしょう。この世の常識や道理、専門技能のようなものは、当然、学ばなければならないのです。
ただ、そうしたものを学んでいくときに、それらが自分の心を覆う鎧のようになってはいけないののです。この世的な知識が、自分の心をまったく覆ってしまう鎧のような役割を果たして、仏神の御心が分からない自分になってはいけないということです。

仕事がらどうしても、この世的な知識をわきまえなくてはいけないこともあるでしょうが、「純粋な心を忘れまい。素直な心を忘れまい」という気持ちを、常に持っていることが大事なのです。

そして、いったん仕事を離れてたならば、とらわれのない、明るく透明度の高い心を、すぐに取り戻せるようにすることです。心というものは、きれいなガラスの容器に入ったダイヤモンドであるーーそうしたイメージを持っていなくてはいけません。真ん丸い水晶の玉のなかに入っていると言ってもよいでしょう。

水晶の玉のなかにダイヤモンドがあるならば、水晶の表面をきれいに磨いておかないと、なかにあるダイヤモンドの美しさが見えません。ダイヤモンドそのものは、外から見えようが見えまいが、いつもキラキラと光を放っているわけですが、外側の水晶なりガラスの器が曇ってしまうと、外からはダイヤモンドの光が見えなくなってしまうのです。
そのダイヤモンドをキラキラ輝かせるのは、天上界からさしてくる光、仏の光です。それは高級霊からの啓示であったり、インスピレーションであったりします。

そうした光がサーッとさし込み、ガラスや水晶の容器を通り越してはじめて、そのなかにあるダイヤモンドはキラキラと輝き、その値打ちを周りに見せてくれるのです。昔から、「人間は平等である」という言い方をよくしますが、ほんとうにそのとおりだと思います。

ただ、平等であるということにあぐらをかいて、「人間は平等なのだから、どんな生き方をしても、どんな考え方をしても、みんな同じ値打ちがあるのだ」と思ったならば、それはたいへん傲慢なことだと思うのです。

人間が平等だというのは、「だれの心のなかにも、仏からいただいた美しいダイヤモンドがあるのだ」ということを意味しているのです。ところが、ダイヤモンドを持っていても、ダイヤモンドに光がささなくなったならば、その輝きは見えなくなります。各人はすばらしいものを持っているのですが、それを曇らせているのも各人の心なのです。

そして、自分自身のダイヤモンドが黒ずんでしまい、まるで石炭か何かに見えるようになっている人は、他の人の心のなかにあるダイヤモンドさえも、同じように煤けて黒ずんだものに見えてくるようになります。そのため、世の中が真っ黒に見えてくるのです。

自分の心の中のダイヤモンドを美しく磨きあげたときに この世界の美しさや人の心の美しさも見えてくる……

うーん まだまだその境地は分かりません。ただ時に幸福の科学の研修に参加した直後や礼拝室で、静かに瞑想できたあとには感じることがあります。

この世のなかで生き抜く知恵の獲得と 神の声を受けることができる幼子のような心の両立というのは難しいものですが 今回要求されている魂修行というのはそういうものだったとも思えます。


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