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「水を光に変えた男」福沢桃介に学ぶ不屈の闘志と人間力 その3

この1月、私が上梓したのが『水を光に変えた男 動く経営者、福沢桃介』(日本経済新聞出版)という単行本である。明治大正期に活躍し、木曽川流域に7つの水力発電所を開設、電力王と呼ばれた実業家、福沢桃介(1868~1938)の生涯を描いたビジネス小説だ。
現代のビジネスマンが桃介の生き方から何を学ぶべきか、3回にわたる連載の最終回をお届けしたい。

人間というミクロ、世界というマクロ、両方に通ず:処世術と大局観

取次を虜にせよ、勉強をみせかけよ

 福沢桃介は経営者としては健筆で、生涯に9冊もの書籍をものしている。なかでもユニークなのが、若者向けに人生訓を説いた『桃介式』だ。1911(明治44)年に実業之世界社から上梓され、彼の処女作にあたる。

人生訓といっても、桃介の書くものだから、霞を食らうような抽象的なものではない。会社に入ったらどう振る舞い、どう出世を勝ち取っていくか、といったことが、直截な言葉で綴られる。

いわく、初対面の人に会う際の心がけとして、「訪問時刻を心得よ」「偉い人に会う場合、取り次ぎを虜にせよ」「長居すべからず」「先方に多くしゃべらせよ」「偉い人に初対面で会った場合、見送りを断れ」といった内容。
会社員生活を送るにあたっては、「勤め先の気風に同化せよ」「上役の性質を知り、長上を敬せ」「勉強を見せかけよ」「月給で暮らすようにせよ」といった具合。

グレーテストマンであると同時にハッピエストマンたれ

本書の最後で桃介は、常日頃、気に留めておくべき人生の大原則となる五箇条について述べている。これがいかにも彼らしい。

一つは「自分を世界で一番偉いと思え」。
偉いとは勝っているということだ。世間は馬鹿ばかり、己れが一番偉いのだと思っていれば、世間に対して腹が立つことがなく、すべての問題をたやすく解決することができる。

二つは「自分を世界で一番幸福者だと思え」。
そう思っていると、どんな不幸に遭遇しても不幸とは思わない。たとえ逮捕され牢屋に入ったとしても、天が当人をもっと立派な人物にしようと戒めたに過ぎないから、失望するなんてもってのほかだ。「この二点、すなわち自分はグレーテストマンであると同時にハッピエストマンであるということを思ったならば、悲しむことも、落胆することもない。そしてますます自分を向上させることができる」。

三つに「習慣の奴隷になるなかれ」。
良い習慣でも悪い習慣でも、その奴隷になってしまうと、万一、それが実行できないときには大きなストレスを感じてしまう。酒でもたばこでも飲むがいいが、飲んでは止め、止めては飲む。これを繰り返す。時には習慣を打破し、毅然と立つこと。それが必須だと説くのである。

四つは「修養を怠るなかれ」。天賦の才に頼るだけでは駄目で、自分が就いている仕事について勉強することを忘れてはならない。

最後、五つとして「己れの尽くすべき本分を忘るるなかれ」。自分(桃介)が社長をしている会社の社員は、桃介という個人に忠義を尽くす必要はない。その会社に忠義を尽くすべきだ。かように、あらゆる場面で、己れの本分を忘れてはいけない。「この五箇条を守っていれば、人間の大成功とまではいかないが、人としての道をまっとうすることはできると信じている」
「自分を世界で一番偉いと思え」という第一箇条は偽悪的で、いかにも桃介式だが、全体としては至極まっとうな人生訓ではないだろうか。

大小ある客の鞄、迎える側はどちらを持つべきか

実際の桃介はどんな人物であったか。
長く彼の部下をつとめた宮寺敏雄はこんなエピソードを紹介する(『財界の奇才 福澤桃介の生涯』)。

桃介が名古屋電燈の社長だった時のこと。桃介より10歳ほど年上の門野幾之進という同じ慶應義塾出身の先輩実業家が名古屋までやってきた。桃介は先輩に対する礼に篤く、駅まで迎えに出た。お伴として宮寺も同行した。
汽車がホームに着き、大小二つの鞄を下げた門野が降りてきた。宮寺は気を利かして、大きな鞄のほうを指差し、持ちましょうと言って受け取り、両手で抱え、歩き出した。 
 
これに対し、後で桃介が宮寺をこう叱ったという。
 「大きな鞄は赤帽に持たせ、お前は小さなほうを持つべきだった。大きな鞄は盗っ人に持ち逃げされることはないが、小さな鞄はされることがある。しかも貴重品は小さな鞄に入れるのが常識だ。そもそも、人間には分というものがある。客の大きなほうの鞄を持つのは茶坊主のすること。お前のように、将来、会社の大幹部たらんとするものがやることではない。そのくらいのけじめのつかぬものは馬鹿だ。処世の急所はそこにあるのだ」
 桃介は細事を揺るがせにしない人間通であった。

見知らぬ他人を手紙で説教

こんなエピソードもある。 
あるとき、東京の渋谷にあった桃介の自宅に「東京市 福沢桃介殿」とあて名書きされた封書が配達された。大阪の未知の人からの書状で、「仕事がないので東京に出て何とかしたい。ついては財界に顔が広い貴方に、就職先を斡旋していただけないか」という何とも虫のいい内容だった。
その場で破り捨ててもいいものだが、桃介は秘書に次のような内容を口述筆記させ、返事を出したという。

「あなたのような人は、どんな職についても成功しないだろう。福沢桃介はたまたま東京市だけでも届くのだろうが、未知の人、それも物を頼みたい人に対し、住所も調べず書状を出すようなずぼらな考え方では何をしても駄目だ。いくら大阪に住んでいようが、福沢桃介の住所くらい、ちょっと調べたらわかるはずだ。それを、面倒くさいからと調べもせず、東京市とだけ書いて書状を投函するような人物には、私だけではない、誰だって信用を置かないだろう」

桃介ほどの有名人、超多忙人が失礼な書状に、その非を懇切丁寧に説き、きちんと返事を出す。桃介は非常に親切な男でもあった。

半世紀前に公害問題の発生を予期していた

こうした細かな人情の機微に通じていた一方、桃介は経営者として並外れた大局観をも持ち合わせていた。
桃介が木曽川流域の水力開発に血眼になり、そこでつくり出した電力を使い、名古屋を東洋のマンチェスターにすることを夢見ていたが、叶わず、つくり出した電気を遠く関西まで送電することにした。これは第一回に書いたとおりだ。

その大阪への送電を大阪側に説得するために桃介が筆を執った文書が残っている。
「工場の煙突から吐き出す煤煙は大阪市民を毒殺しつつある。次々頁の表を見よ(略)。
この数字によれば、大阪は明治39年以前には常に死亡超過を見、その後も出生超過率が他市と比べ、はるかに劣等であることがわかる。
上下水道その他衛生設備は東京、名古屋に比べて遜色なく、しかも気候の激変も少ないにもかかわらず、このような悲惨な数字を示すのは、大阪市及び付近における工場の煙突から吐き出す煤煙が大きな原因としか考えられない。東京は東京電燈の猪苗代・鬼怒川・桂川の電力が潤沢に供給され、次第に石炭は駆逐されつつあり、名古屋はわずかな煙突を残すのみで、全部、名古屋電燈の水力電気によっている。煙突の最も少ない名古屋の出生超過率が最も優秀である事実は煤煙が人類を毒殺しつつあるよい証拠である。(中略)
煤煙毒殺から大阪人を救い、かつ事業の衰亡から助けるには、大阪市に安価で豊富な水力電気を供給させることが一番の急務である。(後略) 大正五年五月 福沢桃介」(藤本尚子『天馬行空大同に立つー福澤桃介論策集解題―』)

大正五年といえば1916年であり、その前々年に始まった第一次世界大戦の影響で、日本は好景気に沸いていた。工場労働者が増え、その保護を目的とした工場法が日本で施行された年でもある。そんな時代に、火力発電所を含め、工場の煙突から出る煤煙が人間の健康にもたらす悪影響を数値を通して実証的に指摘し、自らの事業への賛同を求める。日本で工場の煤煙による公害という問題が発生するのは戦後の1960年代以降のことだ。桃介は先見力の達人でもあった。

マルコーニ、クレマンソー、エジソンらからのメッセージ

桃介は豊かな国際感覚も持ち合わせていた。
桃介が木曽川流域に設けた発電所は7つを数える。桃介の発案で、そのいずれにも、ヘッドタンクの礎石に、東西の偉人の言葉と各自のレリーフが刻まれていた(戦争のため供出されたか、各レリーフは現存しない)。しかも桃介自らペンを執り、丁重な手紙を各自に送り、メッセージと写真の寄贈を依頼した。

最初の発電所となる賤母発電所には、西園寺公望に依頼し、中国の古典『淮南子』にある水の功徳を表わした言葉、「利穿金石功済天下」が刻まれている。読書発電所には山形有朋に頼み、「大利万物能成百事」という言葉が選ばれた。
その他の4つの発電所にはイタリアの無線通信発明家グリエルモ・マルコーニ、フランスの政治家ジョルジュ・クレマンソー、イギリスの政治家ロイド・ジョージ、アメリカの発明王トーマス・エジソンの言葉とレリーフが刻まれた。
マルコーニからは「大同電力の桃山水力発電所にこの写真を呈す」という言葉が書かれた自身の近影が送られてきた。クレマンソーは「余は日本のみごとなる精力に対し、真実なる嘆美者なり」、ジョージは「自然の力を、人類奉仕のために装備するは、社会の福祉増強の途なり」、エジソンは「発展してやまざる日本の事業と技術に対し、最高の尊敬と称賛を捧ぐ」という言葉を、それぞれ贈ってきた。

最後、東洋一の規模を誇った大井ダム附属の大井発電所には桃介自ら選んだ言葉がある。普明世間照(ふみょうせけんをてらす)。闇を駆逐し、十万世界をあまねく照らし出し、人々を幸福にする光明をここからつくり出すんだ。桃介のそんな思いが込められているのではないか。

電力界に出でよ、現代の桃介

2020年10月、菅義偉前首相が所信表明演説において、2050年までの日本のカーボンニュートラル(温室効果ガス排出の実質ゼロ)化を宣言して以降、大規模洋上風力発電を筆頭に、日本でも再生可能エネルギー関連のベンチャーや企業連合体が陸続と活動し始めた。

今から100年以上前、同じような局面で、石炭に代えて水力という再生可能エネルギーの普及に命をかけたのが桃介だった。今回の舞台は日本国内のみならず、海外をも含む。彼のようなリーダーが日本の電力界に再び現われることを期待したい。

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