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無所得無所悟の坐禅を続けていく

ようやく結跏趺座ができるようになった

 坐禅を始めて5カ月になる。家から徒歩数分の場所に禅道場があり、そこに毎週1回通い、それ以外の日は自宅の部屋で、毎夜30分ほど坐っている。
 これまでは足の骨組みが固く、結跏趺座(けっかふざ)、つまり、右足を左ももの上に、左足を右ももの上に乗せることができず、左足を右ももの上(あるいはその逆)に乗せる半跏趺座(はんかふざ)で対応していたが、足首が柔らかくなったか、今年に入って、結跏趺座が、プロから見たら不完全だと思うが、できるようになった。その代わり、足をほどいた時の痛みがとんでもない。
 理想とする姿は、尾てい骨と両膝で創造上の正三角形をつくり、その三角形を基盤とし、座布団の上で、まるで自分が大樹になったつもりで背骨を伸ばす。両手のひらは、右手を下、左手を上にして重ね、両手の親指を軽く触れ合う感じにして合わせ、前から見て、両手の指で楕円形をつくる(この形を法界定印【ほっかいじょういん】と呼ぶ)。
   目はつぶらない。ぼうっと前を見つめる半眼の状態である。

壁を背にする臨済禅、壁に向かう曹洞禅

 坐禅を行う仏教宗派は、日本では大きく言って臨済宗と曹洞宗であり、私の通っている道場は臨済宗の流れを汲んでいる。両派の坐禅の違いで一番大きいのは、臨済宗の座り方が道場の真ん中を見る形で坐るのに対し、曹洞宗のそれは壁に向かうものとなる。黄檗宗でも坐禅を行うらしいが、坐り方は臨済方式のようだ。

何も考えないための数息観

 坐禅は昔から興味があった。字面や耳で聞いたことで理解する宗教とは違って、ひとつの「身体的行」であるところに興味があった。西田幾多郎の西田哲学も坐禅抜きには生まれれなかっただろうと言われているし、かの夏目漱石も坐禅をしていたことは有名である。坐禅に親しんだ最近の有名人ということであれば、真っ先に名前が上がるのが、アップルの創始者、スティーブ・ジョブズだろう。
 私の場合、何を考えて、30分も坐っているかというと、何も考えるな、とされているので、そうしている。でも凡人は雑念が次から次へと雲のように湧き出してくるので、脳が空っぽの状態を保つのはたいへん難しい。そこで出てくるのが数息観(すそくかん)である。自分の息をひとつずつ数えるのだ。数う息と吐く息で一つ。それを百まで繰り返し、それが終わったら、また一から繰り返す。雑念が入った場合もまた一からやり直す。これもなかなか難しい。呼吸は自然に腹式になっている。

坐禅とジョギングは似ている?

 坐禅をしていると、後頭部がひんやりとし、そのひんやりが液状化となって、後頭部から下、身体の後ろ反面をすーっと流れていくことが、時たま起こる。これは何なんだろう。私は腹式呼吸の繰り返しにより、人間の身体を活性化する脳内神経物質、セロトニンが形成されているのではないか、と勝手に解釈しているが、よく考えてみると、それば脳内物質だから身体に下がることはないはずである。何かのよい刺激が脳から身体に降りているのは確かなのだが。実は私の場合、同様のことがジョギングをしている最中に起こることがあるのだ。 
 坐禅の後には気分がすっきりする。この感じもジョギングと似ている。視力も上がっていることが実感できる。坐禅をするのは就寝前と決めているので、睡眠にもよい影響を与えているはずだ。

『現代坐禅講義ー只管打坐への道」

 まだ初心者の域を出ない私が年末から年始にかけ読んで感動した坐禅本がある。藤田一照『現代坐禅講義ー只管打坐への道」(角川ソフィア文庫、2019)である。著者の藤田は曹洞宗の僧侶で、米国マサチューセッツ州で17年半にわたって、米国人に対し坐禅を指導してきたというユニークな経歴を持つ。英語で禅を教えてきたためか、彼の日本語文章は明晰で分かりやすい。
 本の内容は、座禅に関する全6講を藤田が受け持ち、それぞれ講の間を、異なる分野の5名ー臨済宗僧侶、調息整体指導者、気功師、ヨーガ指導者、身体感覚研究者ーと藤田との対談、という形をとる。藤田が捉えている坐禅が射程に入れる分野がどれだけ広いか、この人選によってわかるはずだ。
 その第一講で藤田が繰り返すのが、何かに役立てようという気持ちで坐禅に取り組んではいけないと。初学者のやる気を思わず挫くような言葉だ。今の自分に安じることができないから坐禅を行うというように、自分をうまくコントロールする道具として坐禅をとらえることの無意味さも強調する。
 無所得無所悟(むしょとくむしょご)が坐禅の本質、得るところなし、悟るところなし、だそうなのである。

砦や牢獄から脱し、本来の自分に出会う

 それは決して悪いことでない。坐禅の価値を貶めるものでもない。第五講では、こう説かれる。

 〈吾我(われわれ)はいつも自と他を区別し、自分を無常の流れから切り離して不変の実体に仕立て上げ、周りに砦(とりで)を築き自分を防衛しようと懸命になっています。しかし、そのことの代償として砦はいつしか牢獄となり、周りにあふれるほど豊かに存在している美しいものや脅威に満ちたものから自分が遮断されたような状態に陥っています。そのせいで自分の人生もまた窒息し、生命力の枯渇した貧しいものになってします。坐禅はそのような砦、牢獄づくりをやめ、諸行無常の流れと切れ目なくぶっ続いている本来の自己の姿に出会うことです。そして、そこで生き生きと息づいている自己の生命を充実させて発言することなのです〉

 私もそんな境地になれるものか、もうしばらく坐ることを続けていくつもりである。
 



 
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