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プロ野球背番号の話5番


地味?

大昔、週刊少年ジャンプで「アストロ球団」という野球漫画が連載されていました。後年実写ドラマ化されて、「なぜ今更?」と思った人も多いかと思いますが、その情報すら知らなかった人のほうが圧倒的に多いと思います(個人的には怒髪天が「アストロ球団応援歌」に曲をつけてくれたことに感動しましたがw)。まぁ、「アストロ球団」を「野球」漫画と認定してしまうといろいろアレなのですが、「キャプテン翼」を「サッカー」漫画というか「テニスの王子様」を「テニス」漫画と認定するようなもので以下略。
とにかく、そのアストロ球団に三荻野球五というキャラクターがいました。「主人公チームの五番サード」「長嶋茂雄の秘蔵っ子」「渋めのイケメン」という属性を持ちながら、他のあまりにも個性の強すぎる面々に囲まれ、試合中の大怪我で途中退場するという見せ場しか与えられず、イケメンの描き分けがあまり得意でない漫画家の煽りを最大限に喰らい、読者からは「地味」という一言で片づけられてしまったのは悲劇でした。
さて、ではなぜ三荻野球五は地味になってしまったのかという問いに、私は個人的に「背番号5」だったという説を加えていきたいと考えています。もちろん背番号5を着けてこの上なく派手だった選手もいますが、どちらかというと渋めの選手の背中で輝くのが背番号5なんじゃないかと思ったわけです。というわけで、背番号5です。

三塁手の系譜

サードの守備番号は5です。これまでの一桁背番号を語る流れの中で、この守備番号との関連はかなり重要と思います。というわけで、さっそく主にサードを守った背番号5の選手を見ていきましょう。
といっても、実は背番号5の名選手は二遊間に多く、サードのレギュラーと言うとあまり多くありません。その中で、まず80年代のセパ両リーグから代表を一人ずつ紹介しましょう。
まずは「ボンバー」こと古屋英夫(日本ハム)です。当初守備に難があってコンバートなども検討されたものの、レギュラーの故障などの幸運もあって長くホットコーナーに定着し、守備も上達して80年代のほとんどをレギュラーとして過ごしました。
セリーグからは角富士夫(ヤクルト)です。昭和53(1978)年のV1時は先輩の船田和英の控えでしたが、船田の衰えと共にレギュラーを奪取。古屋同様ちょうど80年代になったと同時にホットコーナーに定着し、ボブ・ホーナーや長嶋一茂などのライバルがいたため、出場試合自体は古屋より少なかったものの、古屋よりも長く現役を続けました。
角の跡を継いだ土橋勝往は主にセカンドを守っていましたが、アーロン・ガイエルを挟んで、背番号5を引き継いだのが現在も現役の川端慎吾です。入団当初はちょうどそれまでレギュラー遊撃手だった名手・宮本慎也がサードにコンバートされたばかりでレギュラー不在のショートを複数で奪い合っていましたが、宮本不在時にサードを守るようになるとそのまま定着、平成27(2015)年の優勝時にはサードのレギュラーとして首位打者にも輝きました。しかしとにかくケガに弱く、それ以降はレギュラーを村上宗隆に奪われ、現在は「代打の神様」として数少ない場面できっちり仕事をしています。なお、打席時の登場曲「悲しみなんて笑い飛ばせ」(FUNKY MONKEY BΛBY'S)は神曲。
角と同じ時代に活躍したのが中日の大島康徳です。それまで背番号40でサード、ファースト、センターなどを守っていましたが、背番号5に変更した昭和52(1977)年よりサードのレギュラーに定着。2年後には4番サードで全試合出場を達成しました。その年は三割三十本も達成しています。しかし守備はあまり上手ではなかったようで、昭和57(1982)年にはレフトにコンバートされました。晩年日本ハムに移籍後は主にファーストを守り、引退後は解説者を経て日本ハムの監督も務めました。
背番号5での活躍期間が短かったものの、名サードと呼んでいいのが「ノリさん」こと中村紀洋(近鉄)です。高卒で入団した時の背番号は66でしたが、それまでレギュラーだった金村義明が負傷するとレギュラーを奪取、のちに巨人に移籍した石井浩郎が着けていた背番号3を引き継ぎます。しかし義兄(妻の兄)である村上嵩幸が西武に移籍すると、それまで村上が着けていた背番号5に変更しました。「3→5の背番号変更に意味はあるのか?」という向きもあるでしょうが、やはり「義兄の背番号」であるとともに、「サードの守備番号」というのは大きいでしょう。しかし残念ながら近鉄球団の合併→消滅により、中村の背番号5はわずか4年間限りでした。
体形に似合わず(失礼)軽快な三塁守備でゴールデングラブ賞を7回受賞している中村ですが、それよりも1回多いNPB記録保持者が奇しくも中村と同じく背番号3を5に変更した松田宣浩(ソフトバンク)です。といっても、松田の場合はもともと5番を着けていたところ、2年間だけ3番に変更し、結局5番に戻したという経緯ですが。チーム事情で他の内野も守れますが、基本的には中村同様サード守備に強いこだわりを持つ選手です。「リーダーシップ」と「ムードメーカー」のイメージが強い松田ですが、現役時代に強烈なキャプテンシーを発揮した選手は意外と指導者として成功していないので、残り少ないであろう現役生活の後が結構心配ではあります。
話の流れ上いつもの逆の展開ですが、松田の前に背番号5だった吉本亮、その前の藤本博史(現監督)もサードの選手でした。吉本は九州出身で甲子園を沸かせた期待の選手でしたが、伸び悩み大成しなかったのが残念でした。藤本博は豪快そうなイメージに似合わない中距離バッターで、非常に勝負強い選手でした。そのせいか、当時の応援歌は現在汎用チャンステーマになってます。ちなみに、南海末期~ダイエー初期には「4人のヒロシ(1小川史、4森脇浩司、5藤本博史、6湯上谷宏)」がいましたが、実際にファンからはそれぞれ「オガワ」「モリワキ」「ヒロシ」「ガメ」と呼ばれていたようです。これは同じ藤本姓の藤本修二がいたからですが、これを指して「ヒロシの中のヒロシ」と言われていたとかいなかったとか。ちなみに全員内野手(かつ全員一桁背番号)だったため、「内野が全員ヒロシ」という状況もあった……のかな(未確認)。なお、サードが本職だった藤本博もチーム事情でセカンドを守ることがあったようですが、特にファーストを守っていたブライアン・トラックスラーとの一~二塁間はダイエー時代の下柳剛曰く「最悪」だったそうです(苦笑)。
藤本博の前は移籍選手がつないでいましたが、その前の富田勝、さらにその前の穴吹義雄(元監督)も三塁手でした。もっとも穴吹は入団三年目で外野手にコンバートされましたが。
最後に、川端以外の現役「サードで背番号5」を全部パリーグから3人。
ロッテの安田尚憲は同期の清宮が注目される中ドラフトで3球団が競合したほどの大型内野手として入団、三年目からレギュラーに定着し、四番の座を虎視眈々と狙っています。同じく同期の村上宗隆との差をどこまで埋められるか。
日本ハムの野村佑希は今年から背番号5を引き継いだ気鋭の若手。古屋以降、これと言って方向性のなかった背番号5ですが、平成22(2010)年に小谷野栄一、その後ブランドン・レアードと続けて三塁手が着用したため、すわ流れが復活したかと思ったところ、レアードが移籍すると外野手の大田泰示が着けて元の木阿弥に。野村は守備に不安が多いため指名打者での起用が増えていますが、「ボンバーの夢よもう一度」と行けるかどうか。
楽天の茂木栄五郎は学生時代からずっとサードを守っていたところ、即戦力として楽天に入団すると、チーム事情でショートにコンバート。ところがケガで離脱している間に小深田大翔にポジションを奪われ、改めてサードにコンバートという経緯。しかし今季は4月以降一軍の試合に出場しておらず、国内FA権を取得したこともあってオフの去就が心配に。なお、この人の場合「守備番号」というよりも「名前(栄郎)」で背番号を選んだ感があるよね(笑)。

背番号5のショート

持論として「ジャイアンツの背番号5はショートと清原と外国人選手ですべて語れる」というのがあります。もちろん極論ではありますが。
V9以前は、引退後、近鉄の監督を経てベースボールマガジン社の事業部長になった岩本堯や名バイプレイヤーだった柳田利夫といった外野手が着けていましたが、印象が強くなるのは「V9時代の正ショート」黒江透修からでしょう。ここから巨人の「背番号5はショート、6はセカンド」路線がしばらく続きます。外国人については別項で触れますので、ここではショートの流れを追います。
黒江引退後、外国人選手を経て昭和52(1977)年オフに高卒ドラフト5位の新人にいきなり背番号5が与えられます。鈴木康友です。しかし、黒江の跡を継いで正ショートになった河埜和正の壁を破ることはできず、一年で河埜に奪われます。第一次長嶋~第一次藤田政権まで長くショートのレギュラーを務めた河埜でしたが、昭和60(1985)年の阪神戦でイージーなショートフライを落球し、それ以降成績が急降下。岡崎郁にレギュラーを奪われます。その岡崎が、河埜引退の一年後に満を持して背番号5を引き継ぎます。ここまでは理想的な「ポジションと背番号のリレー」だったのですが、岡崎のサードコンバートによりわずか数年で終焉を迎えます。岡崎引退後、FA移籍してきた清原和博に渡り、それ以降ほぼ外国人専用番号を経て現在は生え抜きではない中島宏之の背にあります。最初の球団・西武ではショートを守っていた中島ですが、現在の巨人ではほぼファーストしか守っていないため、この流れからは外れます。
背番号5のショートと言えば、やはり横浜大洋→横浜の石井琢朗を忘れてはいけません。投手で入団しましたが打者に転向して開眼、最初はサードを守っていたものの後にショートにコンバートされ、平成10(1998)年の日本一に貢献します。女性関係で相当浮名を流したという「あくまでも噂」がありますが、通算安打2432に加えゴールデングラブをサードで3回、ショートで1回(これは同時期に名手・宮本慎也がいたため)受賞した守備の名手でもあり、通算盗塁も358記録するなど走攻守揃った名選手でした。引退後は指導者としても才能を発揮しています。ただ数年後に石井の背番号を引き継いだ同じショートが守備位置の倉本寿彦は「倉本前ヒット」の異名をとる「守備の手」であり、ラミレス政権では非常に重用されたものの、監督が三浦大輔に代わると出場機会を失い、あえなく戦力外となったのは残念でした。現在は昨年のドラフト一位、松尾汐恩が捕手では珍しく背番号5を着けています。
阪急→オリックスの弓岡敬二郎も背番号5を着けた名ショートでした。ルーキーイヤーのキャンプ中に、当時不動のショートストップだった大橋穣が大怪我をしたことでレギュラーの座が転がり込み、そのまま定着しました。結果、大橋はレギュラーに復帰できず、翌年引退することになります。そこから80年代の大半を堅守で支えますが、チームがオリックスになると出場機会が激減、そのまま若くして引退し指導者の道を歩むことになります。名手・大橋と入れ替わりでレギュラーになったとはいえ、背番号の引継ぎは行われず、大橋の背番号6は引退後新人外野手の熊野輝光に与えられ、流れが途切れたのが残念でした。弓岡の背番号5は巨人同様移籍選手か外国人選手専用番号になりましたが、オリックス時代に背番号9を着けていた平野恵一が出戻った際に移籍先の阪神で着けていた背番号5をそのまま着け、それを引き継いで内野のユーティリティプレイヤー西野真弘が着けるという新しい流れが出来ています。

背番号5のセカンド

本当はセカンドとショートを「二遊間」としてまとめてくくる予定でしたが、思った以上に分量が増え、分割することに相成りました。
ショートと違い、球団として「背番号5のセカンド」という流れを持っているわけではありませんが、各チームにそれぞれ印象深い選手がいる背番号であります。
まずは上掲「三塁手の系譜」で一瞬触れた、ヤクルトの土橋勝往。メガネがトレードマークで、そのルックスにたがわぬ実直かつ堅実な二塁守備が持ち味でしたが、キャリア後半でレーシック手術を受けメガネは外しています。打率は高くないものの、渋いバッティングで通好みのファンに人気がありました。
次に横浜大洋から基満男。前回背番号4でも登場しましたが、移籍先の大洋では背番号5を着けました。こちらはリアルタイムで見ていただけに印象深いです。土橋よりも前の世代の選手ですが、同じく通好みの選手でした。
中日からは「仁村弟」こと仁村徹。実際に仁村兄(仁村薫)と同じ時期に在籍したため、「仁村兄」「仁村弟」と表記されました。13年の現役既刊で規定打席に到達したのはたった1年(1987年)だけですが、セカンドを中心に内外問わずどこでも守れ、また代打の切り札的役割も務めました。仁村弟のロッテ移籍後に背番号を受け継いだ渡邉博幸も内外野どこでも守れるユーティリティプレイヤーでした。その後、FA移籍の和田一浩を経てこれまた内野守備のスペシャリスト阿部寿樹が着用。レギュラーに定着した二年間は主にセカンドを守りましたが、昨年オフ楽天にトレードされました。今年からはやはりセカンドを守り、奇しくも大学の後輩でもある村松開人に引き継がれています。
ロッテからは堀幸一。川崎最終年に背番号を45から5に変更し、それから約20年、そのキャリアのほとんどを二塁手として過ごしました。右打ちが非常に上手い右打者として有名ですが、守備もセカンド以外にショートや外野も守れ、全打順で本塁打を達成するなどチーム状況によってどんな役割もできる選手として長くチームを支えました。
チームとして唯一流れ的なものがありそうなのが、西武でしょうか。現役時代よりも近鉄、オリックスの監督としてのほうが今では有名であろう仰木彬はいわゆる西鉄黄金時代に背番号5をつけてセカンドを守っていました。当時の内野はセカンドに背番号5の仰木、サードに背番号6の中西太、ショートに背番号7の豊田泰光と連番になっていました。仰木から約20年を経て、再びライオンズの黄金時代のセカンドに背番号5が君臨します。辻発彦です。ルーキーイヤーのオフに不動のレギュラーだった山崎裕之が引退すると、二年目にレギュラーを奪取。当初はパワー不足で9番を打つことが多かったが、徐々に頭角を現し不動のリードオフマンになりました。もちろん定評のある二塁守備では7年連続ゴールデングラブを受賞しています。チームの引退勧告を拒否し移籍した辻の後は、奈良原浩が背番号9から変更して引き継ぐも2年で日本ハムに移籍、奈良原の交換相手である中島聡と和田一浩の背番号交換を経て、セカンドが本職である石井義人が受け継ぎました。しかし石井は背番号変更後にファーストにコンバートされてしまいました。その後、数年移籍選手などで落ち着かなかったものの、現在は再び正セカンドである外崎修汰が長く着けています。やはりライオンズのセカンドには背番号5が一番似合う。

背番号5の外野手

さて背番号5の外野手ですが、上述のようにやはり背番号5は比較的内野手が着けることが多いため、流れとして捉えるのは比較的難しいです。そんな中、阪神だけは背番号5を外野手に積極的に着けさせる傾向があります。
それまでずっと投手か内野手に着けさせていた阪神が、昭和54(1979)年のドラフト3位の北村照文に背番号5を与えました。打力こそイマイチなものの俊足、堅守、強肩のセンターで、ポジション争いは激しかったものの、レギュラーとして、代走、守備固めとして十年弱阪神の一軍ベンチに欠かせない戦力でした。昭和63(1988)年シーズン途中、西武の金森永時と外野手同士のトレードが行われ、金森はそのまま背番号5を着けました。もちろん北村とはタイプの違う選手でしたが、勝負強い打撃と「死球狙い」でチームに貢献しています。金森が移籍すると、背番号63で大ブレイクした新庄剛志が引き継ぎます。変更当初はまだ内野手でしたが、すぐにたぐいまれなる守備範囲と強肩を活かすため外野(センター)にコンバート。阪神暗黒時代の話題作りに大いに貢献しました。新庄メジャー移籍後はしばらく落ち着きませんでしたが、平成30(2018)年ドラフト一位の外野手・近本光司が不動のセンターとして背番号5の伝統を引き継いでいます。
捕手として西武に入団した和田一浩は、捕手らしい背番号の一つである22を着けていました。しかし当時伊東勤が不動の正捕手だったため出番がありません。ただ打力に光るものがあったため、ファーストや外野の練習もしていたところ、オリックスより移籍してきた中嶋聡より背番号交換の打診があり、背番号5に変更になりました。結果的に捕手を断念、外野手に専念することになった和田はその後首位打者を取るなど大ブレイク、FA移籍先の中日でも背番号5を着け、最終的に通算2050安打を打ち名球会入りしています。
広島の町田公二郎(康嗣郎)はドラフト一位で入団したものの、レギュラーが固定されていた外野に割って入れず、「代打の切り札」ポジションで長く現役を続けました。背番号6を着けた浅井樹と共に「右の町田、左の浅井」と連番で恐れられました。
日本ハムの井出竜也は入団してからちょうど10年、背番号5を着けました。逆指名で入団し、期待を込めて一桁である背番号5を与えられると二年目からセンターのレギュラーに定着。東京最終年の平成15(2003)年まで在籍し、北海道に行くことなくそのまま東京ドームに残留しました。個人的に縦じまの「東京最終ユニフォーム」のセンターと言えば井出です(ちなみに81年優勝時の青ユニは島田誠、レインボーユニは鈴木慶裕)。

背番号5の外国人選手

42、44、49ほどじゃありませんし、一桁では4が突出しておりますが、背番号5も外国人選手が非常に多い番号として知られています。都合により駆け足で。
まず思いつくのがロッテのレロン・リー。11年間の在籍で生涯打率(4000打数以上)で三割二分はいまだに日本記録で、通算安打1579本もタフィー・ローズに抜かれるまで21年間外国人選手記録を保持し続けました。また在籍期間、規定打席未到達の年も含めて打率が三割を切ったのは最終年一年のみです。弟のレオン・リーと落合博満を挟むクリーンアップは他チームの恐怖の的でした(背番号も5、6、7の連番だった)。ちなみに背番号以外の兄弟の見分け方は「左打ちが兄のリー、右打ちが弟のレオン」です。さらに余談ですが、そのリーを解雇してまで獲得したビル・マドロックは「打率二割六分三厘、本塁打19本」で一年限りでした。
昭和42(1967)年にサンケイに入団したデーブ・ロバーツは背番号4から一年で5に変更します。すると大ブレイク。低迷するチームにあって、同僚のルー・ジャクソンとともにチームを引っ張りました。当時巨人のV9期間中で王貞治全盛期だったためタイトルこそ取れなかったものの、本塁打数で王に肉薄。六年半の在籍期間はのちにアレックス・ラミレスが抜くまで最長、本塁打181本も同じくラミレスに抜かれるまで最多でした。人格にも優れ、「日本人以上の日本人」との異名をとったと言います。皮肉なのは、そのロバーツを解雇してまで獲ったジョー・ペピトーンが球団史上どころかNPB史上最悪とも言える「クズ外国人」だったことですな……。そのクズ外国人の後釜として太平洋クラブから移籍してきたロジャー・レポーズは日本球界への慣れもあってか、それなりの成績を収め三年半在籍します。ロジャー退団後ちょうど30年が経過した平成19(2007)年、久しぶりに背番号5を外国人選手が着けました。それがアーロン・ガイエルです。ラミレスの後を打つ4番を長く勤めましたが、比較的振り回すことが多い外国人に似合わず四死球が多く、打率の割に出塁率が高い選手でした。人格者でもあり、5年という長期の在籍でした。
第一次広島黄金時代、背番号5と6が外国人専用番号でした。スイッチヒッターとしてV1に貢献したシェーンことリッチー・シェインブラム、その4年後の日本一に貢献した「ギャレット兄」ことエイドリアン・ギャレット、雨天時のスライディングパフォーマンスだけが有名だったマイク・デュプリー、ベース踏み忘れでホームランを取り消されたアート・ガードナーと続きました。その後は主に日本人が着けるようになりましたが、西武から為政してきたタイラー・リー・バンバークレオが一年だけ在籍した時に着けたのも背番号5でした。
巨人初の非日系外国人選手がデーブ・ジョンソンです。第一次長嶋政権時の目玉として、そして「選手・長嶋茂雄」の穴を埋める戦力として鳴り物入りで入団しましたが、慣れない日本のストライクゾーンに加え、もっと慣れない三塁守備に苦戦し、ファンからは「ジョン損」と揶揄され、球団史上初の最下位の戦犯として、長嶋監督の責任を追及できないメディアのスケープゴートにされました。二年目は高田繁のサードコンバートによる本職の二塁守備により負担が大幅に軽減、成績も大幅にアップしましたが、球団の不誠実な対応により交渉決裂。二年で巨人を去ることになりました。ペピトーンのような「ガチクズ」はともかく、「なんかあったらとりあえず外国人を叩いておけばいいや」というスポーツメディアの悪癖はここが発端のような気がします。ちなみにジョンソンの代わりに入団したジャック・リンドは初年度のジョンソン以下の成績で、兼任コーチになった土井正三にポジションを奪われる始末で一年で解雇されました。その後しばらく上述の流れになり日本人が長く着けましたが、清原FA移籍後は再び外国人専用番号になり、ヤクルトから移籍してきてDeNAに行ったラミレス、同じくDeNAに行ったホセ・ロペス、中日から来たアレックス・ゲレーロなどが着けました。
最後に「パリーグ渡り鳥」ことフェルナンド・セギノール。オリックスからNPBキャリアをスタートし、一年で解雇されヤンキースで5試合に出場するも、日本ハムが白羽の矢を立て契約。豪打のスイッチヒッターとして4年在籍しました。在籍期間中に年俸が高額になり、交渉決裂して退団。すると翌年途中に楽天が獲得し、一年半在籍しました。キャリア杯の日本ハム-楽天を通じて背負っていたのが背番号5です。なお、日本ハム時代の「背番号5の外国人」の流れはブランドン・レアードに引き継がれました。

背番号5の投手

一応、恒例なので項目を設けてみたものの、特筆事項はありません。
戦前および戦後草創期に数人いましたが、目立つところだと後に横浜大洋、日本ハムで監督を務める近藤貞雄が着けていたことくらいでしょうか。
個人的には昭和62(1987)年シーズン途中に巨人に入団したジョン・パセラが当時あまりにも「謎の外国人」過ぎて印象深かったですね。何しろ選手名鑑には間に合わず、一軍登録もされないものだからテレビにも新聞にも登場せず…で、しかもその年限りで解雇されたもんだから、ますます謎が深まるばかり。「背番号5の投手」があまりにも珍しかったこともあり、逆に興味を惹かれました、はい。

公私多忙だったため、更新が遅くなりました。申し訳ありません。連続更新の記録達成のために、無理やり片づけましたがいかがでしたでしょうか。結果、「清原和博」という項目が割愛されることになりましたが、個人的には別にどうでもいいです。もし何らかの反響があれば、あるいは書きたい気分になったら「番外編」としてやるかもしれません。
次回、なにかが確定する「背番号6」をお楽しみに。

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