見出し画像

プロ野球背番号の話3番

「一発貫太くん」

突然ですが王貞治が756号ホームランを打って本数世界一になった昭和52(1977)年に表題の野球アニメが放映されていました。8人兄弟+人間の言葉をしゃべる飼い犬が草野球チームを作り、監督は母親、元プロ野球選手だった父親は故人──という野球ドラマ兼ホームコメディでした。ボクはリアタイ視聴者(年がバレるな)だったのですが、子供心に設定の理不尽と不自然さを感じていたのです。
8人兄弟の名前を上から順に並べると、「一郎」「二郎」「貫太」「四郎」「五子」「六子」「七郎」「幼吉」。ちなみに監督である母親は「九美子」、飼い犬は「(野球)十兵衛」です。なんかオカシイですよね?
百歩譲って、末っ子の「幼吉」はわからないでもありません。まぁ大人になってからも「吉」と名乗らされるのは虐待も同然なので、ある意味DQネームの一種と言えますが。「八(日)」は「よう(か)」とも読めるので、こじつけとしてというか「キャラのアイコン」として当時としてはアリだったのでしょう。
問題は三男(で主人公)の「貫太」です。自分が親だったら上に「一郎」「二郎」と付けたら三男には「三郎」と付けます。そうしないと、本人は「自分は特別な存在である」と勘違いするし、他の兄弟には「あいつだけ特別扱い」と不信感を与えます。さらに罪深いのは、「貫太」以降の兄弟には再び「四郎」「五子」「六子」「七郎」と数字の名前を続けていることです。
で、なぜ「プロ野球背番号」の話でこの話題を冒頭に持ってきたかと言うと、この貫太の背番号が「3」であり守備位置がサードだからです。ちなみにそのあおりを受けて、妹の五子が背番号「5」でショート、六子が背番号「6」でファーストを守っています。
おそらく世代的に制作サイド(といってもタツノコプロではなく配給の読売広告社あたり)の意向で「主人公は背番号3でサード(最終的に4番)」という設定になったのではないかと思います。
子供のころから野球好きでアニメだけでなく実写(「がんばれ!ベアーズ」や「レッドビッキーズ」シリーズなど)も見続けてきたので、このアニメも毎週楽しんでいましたが、上記の違和感はとうとう最終回までぬぐえませんでした。

永久欠番3番

現在NPBで背番号3を永久欠番にしているのは巨人と広島の2球団です。巨人は長嶋茂雄、広島は衣笠祥雄で、奇しくも二人とも現役時代はサードを主に守っていました。
衣笠は連続試合出場日本記録、世界第二位(カル・リプケン・ジュニアにより更新)を持ち、王貞治に続いて二人目の国民栄誉賞を受賞したレジェンドです。なお、「鉄人」という愛称は連続試合出場記録から来たものではなく、入団時に着けていた背番号28(横山光輝「鉄人28号」)から来たもので、愛称に記録が追い付いてしまったという珍しいケースです。なお、連続試合出場記録ばかりが取りざたされることが多い衣笠ですが、通算安打5位タイ、通算本塁打7位タイであり、盗塁王のタイトルを取ったこともあります。また、小惑星の名前にもなっているとのこと。
とはいうものの、「4番サード背番号3」の代名詞と言えば、衣笠ではなく長嶋と答える人が10人中9人でしょう。昭和世代に限定すれば10人中10人ではないでしょうか。首位打者6回はセリーグ記録ですが、7回の張本勲、イチローに及ばず、通算安打は9位、通算本塁打は15位と両方とも衣笠以下です。同時期に王貞治がいたという事情もあって、三冠王には一度もなったことがありません。にもかかわらず、この絶大な人気はいったい何なのでしょう。リアルタイムでプレイを見ていないからわからないと言われてしまえばそれまでですが、正直未だに納得いかないし、今後も納得することはないでしょう。そもそも、ボクは「南海ホークスファン」なので、この人については「鶴岡が許しても、杉浦が許しても、オレは許さん」ということで話を終わらせていただきます。
本当だったら言及するのも嫌だったのですが、これだけのビッグネームなのでそういうわけにはいきませんでした。その中で「ああ、そういえば自分が『一発貫太くん』に対して抱いていた違和感は、これが原因だったのか」とン十年越しに納得がいったのは、収穫だったかもしれません。

また、これだけ絶大な人気を誇りながら、王貞治の「背番号1ファースト」同様「背番号3サード」のフォロワーも意外と少ないことに気付きました。
パッと思いつくだけだと、「大成しなかった悲運の大物」荒川堯(ヤクルト)、「近鉄V2時代のサード」羽田耕一と「現役唯一」高橋周平(中日)くらい。おまけで長嶋一茂(ヤクルト)ですか。
興味深いのは一時的に背番号を3に変更しながら、すぐに5番(守備番号)にしてしまったサードが二人(近鉄時代の中村紀洋、ソフトバンク時代の松田宣浩)いるということですね。

「チームの中心選手」

実は背番号3には「チームの中心選手」しか共通言語がありません。後述のように「守備番号であるファースト」が比較的多いのは事実ですが、球団として「背番号3は〇○にしよう」という傾向があるわけではなさそうです(これは他の背番号にも言えるかもしれませんが……)。
ただ阪神のように「代打の神様」(長崎啓二→八木裕→関本賢太郎)につけさせるケースや、一時期のヤクルト、横浜、楽天のように「外国人専用」になるケースもあります。
「ファースト、サード以外の内野手」の流れとしては、立浪和義(中日)、高木豊(横浜大洋)、西浦直亨(ヤクルト)、安達了一(オリックス)、中島裕之(西武)、浅村栄斗(西武→楽天)、白井一幸→田中賢介(日本ハム)、佐野嘉幸→定岡智秋(南海)があります。現役の選手もちらほらいますね。ただし、球団として一つの流れになっているというのはレアケースと言っていいです。

「外野手」の流れとしては、まず「青バット」こと大下弘(セネタース・東急→西鉄)を元祖としましょう。首位打者3回、本塁打王3回を記録した名選手ですが、昔ながらの「飲む打つ買うの三拍子」揃った豪快なタイプで、金銭トラブルも多かったようです。背番号は一貫して3を着け続け、代名詞となりました。しかし、トラブルで移籍した東急(のちの東映→日拓→日本ハム)はもちろん、西鉄でもその流れは引き継がれませんでした。西鉄では大下引退後10年弱欠番となりますが、その後近鉄から移籍してきた土井正博が定着するまで「移籍専用番号」のような形になります。
それ以降は、中利夫、平野謙(中日)、福地寿樹(ヤクルト)、梶谷隆幸(DeNA)、長池徳二→石嶺和彦(阪急・オリックス)、佐々木誠(ダイエー)などで、それぞれ「チームの中心だからつけた」感しかありません。
ただロッテは結果的に外野手でつないでいるイメージです(弘田澄男→西村徳文→サブロー→角中勝也)。

一塁手の系譜

これまでの背番号同様、守備番号でもある背番号3を着けたファーストの有名選手は数多いです。
古くは「初代安打製造機」こと毎日ミサイル打線の中心だった榎本喜八。あまりにも打撃理論を突き詰めてしまった結果、その求道者っぷりが奇行と受け取られ引退後指導者になることができなかったため長嶋とはある意味正反対の印象ですが、史上最年少の通算千本安打、二千本安打達成の記録を持ち、数多くの同業者から高く評価されている偉大なるバットマンです。昭和47(1972)年に引退しているためもちろんリアルタイムで見たことはありませんが、「酒も煙草も麻雀もやらない」「誘われたキャバレーは途中退店」「契約更改に来た球団事務所で7時間の瞑想」といった逸話を聞くだけでも非常に興味深い選手です。
残念なのは、その系譜が受け継がれることなく、上述のように外野手の流れにシフトしてしまったことですね。

榎本喜八とは正反対で、「記録よりも記憶に残る」どちらかというと長嶋タイプの選手が、清原和博(西武)です。すったもんだあって西武に入団すると、ちょうど空き番だった背番号3を着け、入団初年度からファーストのレギュラーになります。以降、在籍11年間大きなケガもなくレギュラーを守り続けたものの、記録的な意味ではいわゆる打撃三冠とは縁がなく、最終的に「被死球日本記録」のみでした。その代わり、オールスターMVP7回で歴代一位など目立つ場面ではやたら活躍する選手でした。
引退後不祥事を起こしたのは残念でしたが、復帰後の発言「NOシャブNOライフ!」は、彼の現役時代の華やかな活躍以上に後世に残る名言と言っていいでしょう。
ちなみに清原移籍後にフォロワーとしての背番号3はいなかったのですが、ようやく24年ぶりにライオンズに「4番ファースト背番号3」が甦りました。ここまではよかったのですが、何も不祥事まで真似をしなくてもよかったのにね。しかも引退後ならまだしも現役中に………。

次に挙げたいのが石井浩郎(近鉄、ロッテ→横浜)。入団から5年連続20本塁打を記録し、4番打者として近鉄打線の中心にいました。ところがケガによる減俸→年俸調停が球団の不興を買い巨人にトレード。その後、各球団を転々としながら、永久欠番だった巨人を除いて背番号3を着け続けました。現在は政治家に転身し、衆議院議員(自民党)として奉職中です。その石井とトレードで巨人から移籍してきた吉岡雄二(近鉄→楽天)も石井が抜けた穴にすっぽりと入り、巨人で獲れなかったレギュラーを獲ることができました。「帝京高校で甲子園優勝投手」という印象が強い吉岡ですが、本人は最初からプロでは打者としてやっていくつもりだったようです。
平成16(2004)年の近鉄合併消滅に伴う分配トレードで楽天に移籍、楽天最初の「背番号3」となりましたが、レギュラーだったのは初年度だけだったのは残念でした。吉岡移籍後は、浅村が移籍するまでの10年間、背番号3は「外国人専用番号」となります。

そういえば、最晩年日本ハムにFA移籍した落合博満も背番号3でファーストを守っていました。これは背番号6を田中幸雄が着けていたためで、特にこだわりはなく空き番から選んだようです。
残念ながら往年の力はなく印象も薄いままでしたが、現在ブレイク中の新人加藤豪将が背番号3を背負ってファーストを守っています。

この連載においては、「背番号の流れに極めて無頓着」としておなじみの阪神タイガースですが、現在の背番号3・大山悠輔は久しぶりと言っていい「背番号3のレギュラー」です。入団当初はサードとファーストで併用され落ち着かない印象でしたが、今年から岡田監督になり「4番ファースト」で固定されています。本人的にもやりやすいでしょうが、背番号愛好家的にも「良番のレギュラー」は嬉しい限りですね。

最後に、「平成唯一の三冠王」松中信彦(ダイエー・ソフトバンク)を紹介しましょう。入団時は背番号26でしたが、平成11(1999)年の初優勝時にレギュラーに定着すると、翌年から空き番だった背番号3に変更します。ダイエー最後の年の平成16(2004)年に平成唯一の三冠王になりますが、翌年のソフトバンクに身売り以降は膝の負担を軽減するためにファーストからレフト(or指名打者)にコンバートされました。
王監督が平成20(2008)年いっぱいで退任すると、翌平成21(2009)年はまだレギュラーを維持していましたが、それ以降はケガの影響もあって年間通じての試合出場は出来ず、平成18(2006)年に結んだ「7年契約」もあってチーム内の不協和音の原因となってしまったのは残念でした。
平成27(2015)年いっぱいで現役を引退後はNPBでの指導者を目指すものの、現時点では声がかからず、主に野球解説者を務めています。「ホークスの偉大な左打者」というと、ほかに門田博光がその代表として浮かびますが、彼もNPBでの指導者を目指しながら敵わず、今年亡くなりました。松中も同じような不遇をかこつことのないよう願う次第です。

背番号3の投手

なんとなくレアケースとして今後シリーズ化していく予定の「一桁背番号の投手」。
いわゆる「江川事件」の際に一時的に入団した形とし、結局ユニフォームに袖を通すことのなかった江川卓(阪神)の背番号が3だったのは有名な話です。ところが、背番号2の項でも触れましたが、阪神の一桁投手はレアケースではなく、戦後まもない昭和23(1948)年から昭和31(1956)年までは5人の投手でつないでおり、江川の前任者も投手(上田卓三)でした。
そしてこれは意外と知られていない(と思う)情報ですが、「カミソリシュート」でお馴染みの平松政次(大洋)の入団時の背番号も3でした。
それ以外の球団では、「背番号3の投手」の目立った記録は確認できませんでした(戦前は除く)。

背番号3の外国人選手

背番号1と2に比べると外国人の着用率はそれなりに上がっているものの、全体としてはレアケースです。ただ球団として外国人選手がゼロなのは、外国人解禁と同時に永久欠番になってしまった巨人だけ。同じく永久欠番の広島は、衣笠の着用前にマクガイアが2年着けています。
意外なのは南海~ダイエー~ソフトバンクで、昨年ガルビスが着用するまで外国人の着用者はゼロでした。ガルビスは今年から背番号を0に変更していることから、「余計なことを……」と思わずにはいられませんが(支配下選手が多いので背番号が足りないとも言えますが)。
阪神はクレスが1年のみ、中日はデービスが1年、ギャレット弟が2年。阪急~オリックスはヒックス1年、ドネルス3年(CD含む)、ホセ・フェルナンデス1年。西武はジェリー・ホワイト1年、トニー・フェルナンデス1年、マクレーン2年。ロッテはジョンソンが1年のみ。日本ハムは球団創成期にテリー・レイ1年、ジェスター1年、その後だいぶ下って王柏融が昨年までで3年、以上がレアケースの球団です。
レアケースじゃないのが、毎度おなじみのヤクルトと今回初登場の大洋~横浜~DeNA(横浜大洋時代はゼロ)、そして「吉岡と浅村以外は全員外国人」の楽天です。
まずヤクルトですが、アトムズ時代の外国人ルー・ジャクソンが最初です。入団時は背番号15でしたが、3年目から背番号3に変更。しかし4年目のシーズン中に過度の飲酒による膵臓壊死で病没します。シーズン途中入団した外国人ボブ・チャンスが後を継ぎ、その年は大活躍するも翌年限りで解雇。翌年入団した上述の荒川堯が大成せず、その後は空き番から外国人専用に移行します。具体的にはデーブ・ヒルトン2年、サム・パラーゾ1年、ラリー・ハーロー1年、阪急から移籍したボビー・マルカーノが3年、マーク・ブロハードが2年着け、翌年入団の長嶋一茂に引き継がれます。長嶋は奇しくも荒川と同じ5年で退団→巨人に移籍し、荒川同様外国人専用の流れを作ります。以降、阪神から移籍のオマリー2年、ライル・ムートン1年、アレックス・ラミレス6年。その後は、上述の福地→西浦で定着し、外国人専用としては一段落と言ったところです。
次に大洋ですが、昭和41(1966)年に中日から移籍したケン・アスプロモンテが着けますが1年で解雇されます。その後、しばらく空いて横浜時代の平成15(2003)年にスティーブ・コックスが着け、同じく1年で解雇されました。その後、ちょうど「ガニ股打法」でブレイクした種田仁が着けますが西武に移籍すると、翌年からジェイジェイ(ジェイソン・ファーマニアック)、ダン・ジョンソンが1年ずつ、日本ハムから移籍のターメル・スレッジ、巨人から移籍のラミレスがそれぞれ2年ずつ着用しました。ラミレス引退後は梶谷智幸が着け安定するも巨人にFA移籍、楽天から復帰した藤田一也が1年だけ着け、以前着けていた背番号23を着けていたタイラー・オースティンと背番号を交換して現在に至ります。結論として、「ラミレスはやはり3番が似合う」
さて楽天ですが、特筆事項はありません。変遷だけ書きます。最初のトッド・リンデンだけ2年、その後はランディ・ルイーズ、西武から移籍のホセ・フェルナンデス、ケーシー・マギー、ニック・エバンス、ギャビー・サンチェス、ジョニー・ゴームズ全員1年限りで入れ替わりました。これだけ外れているんだから、もう「外国人の忌み番」にしてもいいと思います。

次回、外国人選手ファン垂涎の「背番号4」をお楽しみに。



この記事が参加している募集

背番号のストーリー

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?