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考え(続け)る人(たち)

早いもので、ジョナサンズ「厄病神とジレンマ」の本番初日まで、残すところ2週間と少しになりました。もちろん稽古は着々と進んでいますし、前回・前々回をインタビュー記事に費やしたおかげで、さぞ書くべきことも貯まっているのでは? と皆様お思いでしょうが、実はそうでもないのです。
じゃあ、これといって書くことがないような稽古をしているのかというと、そんなことは全然ありません。むしろ逆です。毎回新しい発見があり、新しい視点が加わって、先週と今週とでは稽古の進め方レベルで「最善の一手」が上書き更新されるなんてこともザラにあります。それ自体が一つの生き物のようにうねりながら急成長を続ける稽古を前に、記録係としては一体どの瞬間を切り取るべきなのか迷いに迷っている……というのが、現在の偽らざる本音なのです。

稽古場では頻繁にディスカッションが行われています。同じシーンを反復しながら、どこが良かった/悪かったといったダメ出し以外にも、ときには登場人物の取る行動の根本を疑うところから始めることもあります。決して効率のいい手段とはいえませんが、そこはそれ、さいとうが集めてきた選りすぐりの「あきらめない人たち」ですから(前回記事参照)、妥協は一切ありません。なにより、全員で話し合いを重ねて生み出されたものは、全員が当たり前に共有できるものになっているのです。さいとうが時々口にする「役者が信じていないものをお客さんに信じてもらえるはずがない」という言葉が、それを裏付けています。

全員が対等な稽古

この稽古場に「よくわからないけどやってみよう」はありません。役者からも「この強さでこの返答はできない」「この行動とこの言動は矛盾してる気がする」など、遠慮なく意見が飛び出します。それに対して説明の言葉を探す、さいとう。この時点で、役者と演出家は完全に対等な関係にあります。

自分の気持ちがどうであれ、役者は用意されたセリフを絶対言えなくてはいけない。でもそれは「役者の絶対」です。それを前提に「人物の絶対」まで持っていけないと、お客さんには届かない……ストーリーを構成する要素のそれぞれについて、役者と演出の双方が納得いく自然な落とし所が見つかるまで、たっぷり時間をかけて議論を重ねていきます。稽古時間の半分以上をディスカッションに割くこともあれば、話し合った結果いらないと判断したシーンを容赦なく削ってしまうこともあります。

とはいえ、カットされたシーンが完全にこの世から消えてしまうわけではありません。それは劇中で語られないだけで、「いつか起こったこと」として登場人物のバックボーンに組み込まれ、より人物設定の深さを増していくのです。

と、こんな稽古をひたすら積み上げることによって、演出から一方通行の押しつけにならない(なりようがない)強靱なグループワークのもとで作品がつくられていきます。誇張表現などではなく、あと2週間でどう化けるのか、どこまで行ってしまうのか見当もつきません。どうやらこれが「ジョナサンズらしい稽古風景」といえそうです。

最後にもう一つ。

記録係として稽古を見ていると、自分が最も見せたい部分、伝えたいことの核心について言葉を重ねるとき、さいとうは声がやや上擦るという法則を発見しました。結構わかりやすく出るので、稽古場にいる他の人たちもきっと気づいていると思います。それはストーリーや人物に感情移入しているのともまた違う、さいとう自身の気持ちが強く乗っかった切実なサインだと思って見ています。

さいとう篤史の幸福論が目一杯に詰まった作品、「厄病神とジレンマ」にご期待ください。

現場からは以上です。


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ジョナサンズ

「厄病神とジレンマ」

作・演出|さいとう篤史

2016年6月1日[水] - 5日[日]

SPACE 梟門 にて

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