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『コミュニケーションの世代感ギャップについて考えた』11月5日夕刻の日記

こんばんは。今日も目が潰れそうになりつつあっという間の1日。なんだか穴が開きそうです。

さて。わたくしの部署には週に何日かだけ、派遣社員の方がいらっしゃいます。おいくつか、お伺いしたことは勿論ございませんが、恐らくアラヒィフくらいだろうなぁとお察しいたします。

その方が、今日ランチの時私たちに疑問を呈していらっしゃいました。

「先日、喫茶店に伴侶と行ったところ、携帯電話で一人お話をしている方がいて。年齢は30歳くらいでしょうか。喫茶店で携帯で話をしている方はどう思いますか?」と。

さらに「私たち夫婦はそれが許せなくて、言ってしまったんです。ここは喫茶店ですから、携帯電話で話すのはマナー違反です。と」

「そうしたら、相手の方は、あなた方が対面でお話しされているのと、私が携帯電話でコミュニケーションを取っているのと、同じではないですか?と返されたんです。その考えにギャップを感じてしまって…」

なるほど。と思いました。喫茶店、というイメージが共通していなかったかもしれませんが、私は電源があるカフェでオンラインミーティングをこそこそすることもあるので、難しいところですね。と答えました。

しかしながら、その携帯電話でお話をされていた方のお心もわからんでもないんです。これは、一度マナーは置いておいて、非常に社会学的に興味深いことだと思いました。

例えば、オンラインで話している双方向の他に、同じ場所、同じ空間にメンバーがいて、3方向で話しているのはどうでしょう。それも、話さないでください、と言えるのかなぁと。

喫茶店、という場所にも注目してみましょう。喫茶店はどういう場所か?周囲の概念が全て共通しているとは、限りません。つまりここに、多様性が見て取れるわけです。異国の方が立ち寄って、話をするかもしれません。そこで解せない日本の方は言います。ここは喫茶店です。携帯電話で話をしてはいけません。

海外ではそんな決まりはないかもしれないし、それなら日本のカフェでは会話してはいけないの?と思う人もいるかもしれません。

私の尊敬している人から教えてもらった、いい言葉があります。

ルールを疑え。日常を疑え。変えることは必ずある。景色としてみているだけだ。

誰がそのルールやマナーを作ったのだろう。それをすることで、誰が困るのか。という投げかけですね。日本人は特に、見えない同調圧力に心理を翻弄されがちです。私が大嫌いな言葉で"いじめ"があるのですが、その見えない圧力は排除を生む気もします。

場所によってマナーは勿論あるかもしれないけれど、非寛容さがいろんなところに散りばめられていて、それにイライラしたり、する人も多様性。断絶を生まない、作らないために、私たちは最適解を作るべきなのでしょうか。

相手に寛容さを求めるのは、贅沢なのかなぁ。結局はそこに行き着くのです。そして、私は性格的にそういう雑音が気にならない性格でありスルー力がかなり高い、という個人のポテンシャルもあるのだろうと思いました。

おもしろい。



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