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四旬節-第3主日「シェガレ神父の説教」

A四旬節3主日 
ヨハネ4,5-15・19-26・39−42
サマリアの女
渋川カトリック教会 2023-3-12

 今朝の箇所は感動的です。朝から歩いて旅に疲れたイエスはサマリアの町に着いたが、渇きを覚えて、町の井戸の縁石に座ります。丁度その時一人の女性がバケツを持って井戸によってくるところでした。当時、水汲みは女性の仕事で、重労働だったが、井戸は会話や情報交換の楽しいコミュニケーションの場だったので喜んで行っていました。しかし今日やってきたのは女性一人だけです。後でわかるように彼女は相次いで5人の夫があって、今は一人の男と同棲関係です。そのため彼女の評判が悪く、罪深い女として非難の的になっています。しかも、サマリア出身なので、周りのユダヤ人からすると異端者で、誰も声をかけていないです。それなのに彼女の複雑な状況を知っていたイエスは、彼女に声をかけて、水を飲ませて下さいと願います。イエスは彼女を咎めるどころか、自分の弱さを曝け出しています。初めて誰かに必要とされていることを感じた女は、心を開き、イエスとの対話に応じながら自分の過去を振り返ります。多くの男と付き合って心の渇きを癒そうとしていたが、癒されるどころか、捨てられて、心の傷しか残りませんでした。それでも愛を求めて誰かと一緒にいたいが、今、自分の心の全てを見抜いて、非難しないこの人は前の男と違います。一体誰でしょうか。もしかしたらメシャではないだろうか。女の疑問に対してイエスは「メシャはあなたと話をしているこのわたしだ。わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と言います。旧約聖書の中は生ける水は創造の初めから宇宙万物を潤おし、自然を豊かにし、人類の再生の水だったが、イエスの与える水はそれだけでなく、永遠の水であり、これは人のうちに泉となると教えます。イエスの答えを聞いた女は「それなら私が渇くことのないようなその水を下さい」とイエスに頼みます。
イエスの言葉を理解しようとする女は、自信を持って質問をし続けて、終わりにもう一つ、人間なら誰でも知りたいことを口にします。「神は一体どこにおられ、どこで礼拝できるか。」この質問に対してイエスは、神がこの山、この宗教,この教会、特定の組織や集団や場所におられるのではなく、どこにでも、おられると教えます。これを聞いた女は、女性であるとか、サマリア人であるかとか関係なく、誰でも神に愛されていることを悟り、嬉しくなり、村人の所に戻っていき、この人こそ救い主であると伝えはじめ、この物語が終わります。
 今日の長い箇所の真ん中に「もしあなたが神の賜物を知っているなら」というイエスの神秘めいた言葉はろくに私に響いています。神の賜物はなんでしょうか。これは宇宙万物を潤わす生きる水であり、イエスが示した愛であり、洗礼によって与えられた生ける水の泉です。私たちはこの神の賜物に気づいているでしょうか。四旬節の間にゆっくりと自分を見つめ直しながら、自分の心に隠れた泉に気付いたら幸いです。聖書の箴言(5,15)に私は好きな言葉が出ている。「あなた自身の井戸から水を汲み、あなた自身の泉から湧く水を飲め」です。この泉を見出し、そこから湧いてくる生ける水を汲み、新たな希望を持ち、復活祭に向かって行きたいと思います!

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