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マルコ福音書9:2∼10「シェガレ神父の説教」

B 四旬節2主日 
マルコ9,2-10 主の変容 
渋川教会 2024
先週、荒野におけるイエスの誘惑の物語を聞いたが、今日は山で起こった出来事について話が出ています。聖書の中は荒野と山の特徴は対照的に異なっています。何もない荒れ野は誘惑の場であるに対して、山は神の啓示の場となっています。日本でも神が山に宿っていると思われて、山に囲まれた渋川の町は神々に守られて、人々が安心して住めます。山を登っていくと、俗界の束縛から開放感が得られ、美しい雄大な自然に触れるに従って心が落ち着けます。そして仲間の励まし合いによって連帯感が感じられ、出会う人に挨拶をしたくなり、頂上に着いた時に味わう達成感が大きい。きっと今日の福音の箇所に出ているイエスと3人の弟子たちは山の美しさに魅せられて、互いの関係が一層深まってきたでしょう。今までイエスとともに歩いていたり、一緒に食べたり、一緒の家に泊まったりしていても、イエスに対する誤解が消えなかったと聖書が記しています。一体このイエスはだれなのか、弟子たちの心に様々な疑問が残っていました。しかし一緒に山を登っていくうちにイエスに対する弟子たちの見方が徐々に変わっていきます。やがて頂上に辿り着き、モーセとエリアの間に立つイエスの 服は真っ白に輝き、雲から「これは私の愛する子」という声が聞こえた時、弟子たちはこの人は来るべき救い主だという確信が得られました。
 ペトロは居心地がよくて何を言ったらいいかわからなくて、今の至福の瞬間が永遠に続くのを願い、三つの小屋でも建て、このまま一緒にいられたらと、興奮するが、他の二人の弟子は恐れていたと書いてあります。
 しばらくすると元の状態に戻ったイエスは弟子たちに山を降るように命じ、平野に辿り着きます。平野は山と荒れ野と違って、町に住む大勢の人が日常生活を行い、彼らに福音を伝えなければならない場所です。目が覚めた弟子たちは山の体験を心に留めて置きながら、イエスとともに群衆の中に入り、福音宣教をはじめます。
 今日の話は主の変容と呼ばれるが、弟子たちが聖霊に導かれてイエスの真の姿を信仰の目で見始めたと言ってもいいかもしれません。私たちも弟子たちと同じように、今まで感じていなかった神の栄光が見えてくる体験に霊によって恵まれます。ある黙想会に参加して初めて心が輝き出たり、ある出会いのおかげで喜びが湧き出たり、ある夜に空の中に輝く星が目に見えて神様の栄光が感じられ、祈りたくなる時は誰にでもあると思います。そのような時に、心にある闇は輝きに変わり、感謝の気持ちで一杯なります。大抵このような霊的とも言える体験は長く続かず、平常の生活に戻らなければならないが、一瞬だけでも輝いた体験の思い出が消えず、一生において信仰の支えとなります。
 生きている私たちは山を登ったり、降りたりして、様々な峠を越えていくうちに、少しずつ心にある自分の闇は光に変わっていきます。変わっていくというよりは私たちが聖霊によって変えられると言った方が良いかもしれません。聖霊の働きによってイエスの顔が輝かされたと同じように、私たちの心も輝く時があります。この尊い輝きは全ての人の中にある神の似姿であると聖書が言っています。どんなに堕落した人でも心の中に光輝く部分があります。この輝きが、復活されたキリストの光です。一生を通して私たちはイエスとともに十字架を背負いながら、イエスとともに変えられ、神の栄光に照らされ、復活の光に近づいていけます。復活祭に向かって歩みながらこうした希望を大切にしていきたいと思います。

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