教祖化とパワースポット

教祖ー宗教を起こした人

という使われ方を超えて

ありとあらゆるジャンルで

当たり障りのない
単純な言葉で
善行や良心
漠然とした方法論

などを説く存在として、教祖化している人を見つけることができる。

ビジネスやお金が絡んだ分野ほど「上がった人」も多くみられる。

彼らを何十人も観察していると、共通した特徴に気づく。

・具体的な手段や方法を明かさない
・教祖っぽい語り口や声になっていく
・8割がきれい事
・弟子の困難に対して個別具体的な助言や支援をしない
・なぜか人が集まる
・なぜか感謝される
・なぜか熱心な弟子の何人かが大きく成功する
・掘り起こすとたくさんの「ずるい事」「反道徳的な事」「不義理な事「解く内容と違う事」「矛盾した事」が、弟子よりもとても多く見つかる
・上記のことからも「逃げ切って上がって」いる

人が集まり、実際に成功する弟子も多いことから、

一般論やくだらない説教や
その辺をおじさんが言っていたら見向きもされない内容でも

「やはり教祖の言う事は正しい」となり、
ますます人が集まるサイクルが成り立つ。


この謎を解くためのアプローチを試みよう。

端的に言うと、教祖とはパワースポット だということだ。

具体的で論理的な利益(教祖の教えや人脈など)は些細なもので、

その何かにとっての現時点の最適解 
特に運や潜在意識や心身の状態や社会的モラル の最適解

を教祖に求めているのである。

ただし、おのおののジャンルの教祖は「その何か」にとって最適に近いというだけだ。

つまり、普遍的な真実でもなければ、時代を変えても通じるもの、というわけでもない。

その界隈で成功するための最適解である。


次に、教祖に共通する「きれいごと」について

だいたいの仕事というか食い扶持を稼ぐための仕事もどき というのは、

ほぼ必ずといっていいほど、必要悪だったり、社会悪を同時に生む。

未熟で視野が狭い人間ほど、成功に伴って廃棄物、迷惑、外部不経済をまき散らす。

単純なシミュレーションで証明できるほど分かりきった定理として、
迷惑に対して鈍感で無責任であるほど、成功へのコストは下がる

成熟した社会では、本当に大きなコストとは「モラル」だからだ。


もうお分かりのとおり、

教祖の、自分の体験に明らかに反する「きれいごと」というのは、

お前のやっている行動は必要だから正当化される。だから悪くない」を言い換えたものだ

これを聞いて単純に洗脳、自己洗脳できる人間が、罪悪感を吹き飛ばすことで効果を得るわけだ。

仲間がそれを増幅しあう。


このような仕組みで教祖は機能しており、

その何かにとっての現時点の最適解 
特に潜在意識や心身の状態や社会的モラル の最適解

を作り出すことに寄与しているというわけだ。


そしてそれらが総合的に「運」と呼ばれる領域にも作用し、パワースポットと同様の効果をもたらす。


この話を知ってそういった現象にどう接するか

おそらく両極に分かれるだろう。

この世でうまく生きたいなら
「どちらも理解しておいたほうが良い」とだけ言っておこう。




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