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解体する「わたし」

「未知の次元」(カルロス・カスタネダ著)からの引用です。私の昔のブログ記事(2012年)にあったのを見つけましたが、言い得て妙ですね。

映画や漫画などを見ていると「人は”エゴの解体”を欲しているんだな」と感じる時があります。殺し殺される、残虐シーン、または自我崩壊(精神崩壊)に向かうプロセスなどの描写などです。そのスリルを楽しむのでしょう。
怖いのと快感なのと両方の感覚が味わえます。その時、分泌される脳内ホルモンに病みつきになるのだと思います。そして「もっと、もっと」と求めてしまいます。それが行き過ぎると、狂気や死という終着点に辿り着きます。
理性的にそれに取り組むと、ゾーンに入ったり、悟りや覚醒という境地に辿り着きます。

下記の文章を読んで、この分解してなくなってまだ残り得る感覚を何度もイメージングでもして覚えておくと、この先、役に立つことあるかもです。
(読みやすいように私が改行を加えています)


一瞬自分がこまのように回転しているか空中を浮遊しているような感覚をはっきりと知覚した。ついで、わたしは宙を飛んだかと思うと、ものすごいスピードで地面へ落下していった。落下しながら、服が破れて脱げてしまい、肉体もこそげ落ちてしまって、最後には頭だけが残ったように感じた。そして、わたしが非常にはっきりと感覚したのは、身体がばらばらにされていくうちに、余分な体重が減ってゆき、それで落下の勢いがおとろえ、スピードも弱まっている、といったことだった。落下にはもはや目まいがともなわず、わたしは木の葉のようにひらひらと舞いはじめた。すると頭の重みがとりのぞかれて、残った「わたし」は一平方センチほどの小石のようなかたまりだけとなった。そこにわたしのすべての感覚が凝縮したが、やがてそのかたまりが破裂したらしく、わたしはこなごなになった。自分が無数の断片を一度に認識していることを、わたしは知った。あるいは、どこかの何かが知った。わたしが意識そのものだった。

するとその意識の一部が、刺激を受けはじめた。それがしだいに高まり、大きくなっていった。そしてそれが局所に集中し、わたしは境界とか意識といった感覚をじょじょに取り戻していった。そのとき、突然、自分がよく知り、慣れ親しんでいる「わたし」が、想像しうるかぎりの「美しい」光景の組み合わせの中で最もすばらしい眺めの中に飛び出していった。それはあたかも、この世界と、人びとと、ものごとの何千という絵画を眺めているかのようだった。

その光景はやがてぼやけだした。わたしの感覚では、だんだんとスピードを増して、目の前を過ぎていくので、しまいにはひとつひとつの光景をとり出して調べられなくなった。最後には、この世の仕組みが切れ目なく無限につづく鎖となって目の前を流れていくのを目撃しているかのようだった。

(中略)

わたしはまた放り上げられ、くるくると回転し、ものすごいスピードで落下するのを感じた。そして、わたしは爆発し、ばらばらになった。わたしの中の何かがとびだした。それは、わたしがこれまでずっととじこめてきた何かを解き放った。
そのとき、わたしの秘密の貯蔵庫の口があいて、中身がとめどもなく流れ出てきたことがわかった。

わたしが「自分」と呼んでいるいとしい個体は、もはや存在しなかった。あるのは無で、しかもその無は満たされていた。それは光でも闇でもなく、熱さでも寒さでもなく、快適でも不快でもなかった。わたしは動いているのでも、ただよっているのでも、静止しているのでもなかった。いつも慣れ親しんでいるような単一の個体、自己でもなかった。わたしは、すべてが「自分」である無数の自己からなっており、たがいに特別に信頼しあって、必然的にただひとつの認識、わたしの人間としての認識を形成するために参加するであろうそれぞれの個体が寄り集まったひとつの集落であった。

それによってわたしが「知り」うるはずのものは何もなかったがゆえに、それはわたしがいっさいの疑念なしに「知った」ということではなく、わたしの全認識は、わたしの日常世界における「わたしが」とか「わたしに」とかが、たがいに頑固に結束をしている個々の独立した感情の集落、複合体だということをただ「知った」のである。わたしの無数の認識の頑固な結束、これらの個がそれぞれにたいしてもっている信頼が、わたしの生命力であった。

あの統一された感覚を表現するひとつの方法は、こういう認識のかたまりが解体されたということ、つまりその各個体がそれ自身を認識し、どの個体も他よりも優勢ではないということであろう。

こうして、何かが認識のかたまりを刺激すると、そららはいっしょになって、ある場所にあらわれ、それでひとつのかたまり、つまりわたしの知っている「わたしに」に集結されなければならなかったのである。

そこで、「わたし」あるいは「わたし自身」として、わたしは、世俗的な活動の一貫した場面や、他の諸世界に属する場面、純粋な想像にちがいないと思った場面や、「純粋思考」に関する場面、すなわち、わたしは知的体系、思想を言語とつなぎ合わせるという見解をもっていたが、こういう場面を目撃したのだった。
ある場面では、わたしは満足のいくまで自分自身に話しかけたのである。このように一貫した個々の見解のあとで、「わたし」が解体し、もう二度と存在しなくなるのである。

一貫したこうした見解へのこういう演習のひとつで、わたしはドン・ファンと崖の上にいたことがあった。わたしは、そのときすぐに自分が自分の熟知している全体の「わたし」であるということをさとったものである。わたしは自分の肉体を実在と感じた。私は単にこの世界を見るというよりは、この世界に存在していたのである。

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