現役大学生ラッパーが留年するまでの話・卒業2/4 

 大学で迎えた五回目の春、俺はまだ学部生。SNSを開けば卒業した同級生たちはキラキラした新生活を謳歌していた。いまさら同級生との格差などは些細なことであるが、当時の俺の心を蝕んだのは新入生の存在である。かつての自分がそうであったように、胸に希望を、目には光を、ぎこちないながらも精一杯生きている彼らの存在は、紆余曲折で心が屈折した俺にはあまりに眩しい。

 そもそも二回生の後期で不登校になった頃から、SNSで「#春から○○大」という投稿が増える時期は毎日発狂しそうになっていたのを、留年という状況になってから騒ぎ立てるのはいかにもアホの所業ではないか?主語と自尊心だけ肥え太った馬鹿に論理的思考は酷である、だから当時の俺は思考や知性は人間を腐らせる毒だと半ば人生をあきらめた精神状態で毎日大学に通っていた。暇があれば喫煙所でMSCやBRON‐Kを聞いて精神をなだめすかしていた。

 思い返すと俺の人生、もといコンプレックスは「居場所」の一言に集約されていたように思われた。個性、背景、経歴、これらはそっくりコンプレックスと言い換えてもいいだろう。2年生編③(https://note.com/joyous_tulip900/n/n2bcc0d4d1c48)でも少し述べたが、ずっと俺の中には自分は何者なのか、どこにいたら良いのかという問題意識が恐らくは人より少し強く根を張っていた。幼い頃に漠然と、「保育園=楽しい場所」、「家=安心できる場所」というふうに幸せや安心は全て居場所というものが基本にあり、そこから余裕だったり個性というものが芽生えてゆくのだと俺は考えていた気がする。そういう時は舐達麻やjin doggを聞いて喫煙所の隅で大人しくしていた。

 じゃあ喫煙所の隅っこで縮こまって、物音や未来に怯えながらたばこを吸っている俺のアイデンティティはなんなんだよ?大学の教室の後方の席で寝たふりして昼休みを過ごしている俺の意味ってなんなんだよ?お前前向きに生きていくって「現役大学生ラッパーが留年するまでの話」の終盤で言ったじゃん。もしかして当時の俺の考えていた「前向きに生きていく」って「なにも期待しない」って言葉の上に貼られたラベルだったの?21時のスーパーのお刺身なの?

 退嬰的な思考で生きる当時の俺は要するに精神的にかなり「きていた」。前向きに生きていくと決めたは良いものの、事実として「現役大学生ラッパーが留年するまでの話」でも書いたように頭がぐちゃぐちゃだった頃に積み上げた思考と学業における負の遺産がかなり足を引っ張っていた。もう合理性だとか、信念だとか、その手の言葉に辟易した俺にとって現状を改善するために努力するという行為が、それまでの自分のマイナスの部分との整合性がとれず、大きな矛盾を生み出していた。なにが「他人に何かを与えられる人になる」だよ、お前自身が空虚な人間のくせに現状を棚に上げて好きかって言うのもいい加減にしろよ。

 自分の言葉を曲げて、かつてのように虚無に浸かった生き方を選びたい一方で、希望を胸に現状を歩み続けたい意思も確かにあった。経緯はとにかくとして、自業自得が生み出した今の自分を脱したいが、「俺のような人間が今更なぁ、、、」と天秤はそちらに傾いて動く気配は無い。楽になれるのならいくらでも自分に嘘をついていたい、いやそもそもこれは嘘に該当するのだろうか?一度全てを投げ出した以上は、むしろこちらが俺にとっての本意なのではないか?まず俺の人生に大義や意義があったのだろうか。

 さらにこのように頭の中では厭世観が彽徊する日々に追い打ちをかけたのがイベントの存在である。ゴールデンウィークの周年のイベントを控えていたが、失敗したらどうしようという恐怖が常に内蔵を鷲掴みにしているような感覚で、毎日吐きそうになりながら過ごしていた。自分の意に反して知名度と規模が拡大する鶴の一聲に俺は押しつぶされそうで、携帯の通知が鳴る度に「炎上しているのでは」「なんか怒られるのかな」とビクビクしていた。前述のように悲観的な自己評価の自分を慕ってくれる後輩たちに囲まれて活動するのは大いに楽しかったが、逆に「こんな俺に、、、?」と不安が増していく。

 結果から言うと鶴の一聲の周年は盛況で終わり、「俺にしては上出来」という感想が込み上げてきたが、自分の中ではラッパーとしての在り方が揺らいでいた。正直に言えば2023年に入ってからビートメイクを始め、作詞活動をほぼしなくなっていた。もっと遡ればイベントを始めてからというものの、どちらかと言えばオーガナイザーとして見られるようになり、「こんな自分がラッパーって自称するのなんかおこがましくない?」という気持ちがあった。なし崩し的にギリギリラッパーとしてのキャリアが長いので便宜上ラッパーを自称していたが、これで良いのか感がずっと心に渦巻いており、表現というものへの不信感が芽生えた。

 俺自身が無力なのか、俺の表現に背骨がないのか、諦めに支配されている言動が見え透いているのか、あるいはその全てか。大学を留年している以上すべきことは分かりきっているのに、自分の中での表現というもの何回目かの限界に俺はぶつかったのだ。出来ないのではなくやらない余裕がある状況に至って、逆になにをすべきなのかという問題の根は深かった。じゃっく君さぁ、悩んで立ち止まるくらいなら動いて傷つきなよ、今までの経験でもう分かっているじゃん。きっと世の中の人達は「いつも日清のシーフードヌードルだけど、今日はカレーヌードル買ってみよ」くらいの気持ちで決断を下して、それに伴う結果や感情の変化に対して、「まぁそんなこともあるよね」程度の温度で次の日も生きているんだよ。 

 おまえ「些細な決断で人生は大きく変わる」って言ったじゃん。ならばそんなに気負いせずに生きてみようよ。お前いつもそうだったじゃん、夏祭りで好きな女の子に話しかけるかどうかで悩んで結局何も出来なかった時も、高校の時本当は色んな部活やら勉強に挑戦したかったけど日和って大人しく生きていた時も、大学に入ってすぐの頃に「自分にはどうせ似合わない」ってストリート系の服装から目を逸らした時も。自分を苦しめる原因は既に分かっているじゃん。

 「自分はダメな人間」だと思っているのことと「実際に行動に移すべきかどうか」は全くの別問題なんだよ?深夜にちいかわを読みながら変な笑いを噛み殺している場合じゃないよ?Netflixで推しの子の第1話をリピート再生しながら酒を飲んで号泣している場合じゃないよ?そろそろ動き出そうよ?ねぇ、じゃっく君。君が情けない人間だからって今更呆れる人達なんて少なくとも君の周りにはいないよ?そりゃあ確かに自分をさらけだした結果、心に土足で入り込んでくる輩が怖いのは分かるけどさ、大切な場面で決定的に動き出せなかった事が自分の心を苦しめているって判明している以上はそろそろ動き出そうよ。

 永遠に終わらない自責と虚無の階段の踊り場でグズグズしていても君の未来は多分良い方向には動かないよ、





 うるせぇ!飲もう!

 お、お前は、、、?ハイボール!?

 ぐだぐだ言うな!飲もう!

 はい!!

 ヒトヒトの実 モデル愚者


 という具合に5回生になったばかりの俺は思考を回す度に、自分を今まで苦しめてきた原因を直視するハメとなり浴びるように酒を飲んでいた。

 
 え?まだこんな文章読んでるの?

現役大学生ラッパーが留年するまでの話・卒業2/4

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