伊藤計劃と、フーコーと、外注。

 私は、伊藤計劃先生を敬愛している。いわゆるフリークというものかも知れない。虐殺器官も、Harmonyも、indifference engineも、全部好きだ。自分の人生に一番大きな影響を与えた作品は? と聞かれたら、まず間違いなく<Harmony/>と答えるだろう。

 Harmonyを読んだ方は、あの世界観をどう思っただろうか。リアル? それとも、新しい? けれど、あの妙に艶かしくて血の通った世界観は、決して伊藤計劃という才能から、ポンと飛び出てきたアイディアではないことは確かだ。「生府(ヴァイガメント)」と呼ばれる統治システムを読むと、きっとあなたはミシェル・フーコーを思い出したに違いない。いや、知らないかも知れない。逆に、フーコーは知っているけど伊藤計劃は知らないかも知れない。この記事は、伊藤計劃を知らない人に向けて書かれていないから、そういう人はぜひブラウザバックして、Amazonで氏の小説を二冊ばかり買ってみるとよろしい。話はそれから始めよう。

 さて。基本的にSF作家という生き物は哲学や思想、あるいはイデオロギーなんていうものについて詳しい場合が多い。なぜなら、世界を進行させるのは飛び抜けた科学技術などではなく、いつだって人間の思想だからだ。もしも、すぐそこにある未来を描こうと考えたら、世界に蔓延するあらゆる主義主張に鈍感ではいられない。伊藤計劃先生だってそうだったに違いない。むしろ、彼は思想とイデオロギーの作家だったとさえ言える。それは、彼が愛した作品とも共通している。彼の作品は、いつだって思想を継ぎ接ぎした、よくできたコラージュのような姿形をしているからだ。

 だからきっと、Harmonyを読んだ時にミシェル・フーコーの姿がよぎるのが、あなたや私の考えすぎだなんてことはあり得ない。

 ミシェル・フーコーをあなたが知らない可能性を考慮して、少しばかり説明をしようと思う。あまり時間はとらせない。知っている人は読み流したり、あるいは飛ばしてくれても結構だ。

 とはいえ、フーコーの名前を一回も聞いたことがないなんてことはないだろう。知性と権力について思索を巡らせ続けた、ポスト構築主義の代表格だ。もっとも、彼の小難しい思想について講釈を垂れるつもりは全くない。重要なのは、そんな彼が晩年に繰り返した「生の権力」という概念だ。従来の権力構造が民の生を掌握し、脅迫する「殺す権力」だったのに対し、今から世界を支配するのは、民の生活を保証し、守り、公衆衛生と倫理によって掌握する「生の権力」である、というものだ。そしてその権力は「福祉国家」なる形をもって表出する。

 これはまさに、計劃の描いた「生府」そのものだ。そして、この福祉国家は、個人のあらゆるプライバシーと生活と安全と、人生そのものを公衆衛生と言う名の倫理で管理する。もちろん、たとえどんな倫理観が世界を支配していたとして、たった一人の個人が自分の面倒を見切るなんてのは土台無理な話で、どうやってそれを実現するか、といえば、それはもちろん「外注」ということになる。生の外注。それこそ、ミァハが自分と友人の命を奪ってまでも抵抗したものだ。

 とはいえ、その「外注」に対するフーコーと伊藤計劃(この場合は、ミァハと言う方が正しいだろうが)の立ち位置は、驚くほど異なっている。フーコーはこうした権力に対して、個人の倫理を育むことによって対応するべきである、という考えを示しているのに対して、先生が下したのは「人類社会が、福祉社会に適した構造に変化する」という結論だ。

 先生が描く「外注社会」に対して、あなたがどんな感想を抱くかは自由だが、少なくとも書いた本人は本気であの社会を望んでいたことだろう。「考えたけど、今はこれが限界」というのがHarmonyを書いた時の先生の言葉だ。それくらい、あの社会は効率的だ。

 この記事を描く直前、「外注 人生」や「アウトソーシング 人生」で検索をかけた。出てくるのは「外注」は最も効率的な人生を作る、みたいな記事ばかり。きっと彼らはHarmonyを読んだことがないに違いない。読んだ私たちは、その魅力的な言葉が、いかに危うい平均台の上に立っているのかを知っている。けれども、それくらいに人生の外注は便利なのだ。効率的なのだ。そして、水がもっとも効率的なルートを辿って流れていくように、光や電流が、もっとも抵抗の少ない場所を通っていくように、社会も、もっとも効率的な場所に向かって流れていく。紆余曲折があるにせよ、だ。

 効率的であることは必ずしも善ではないが、しかし便利であることは確かだ。そして、世の中の多くの人間はそれを「善である」と捉える。外注。外注。外注。Harmonyを読んだ人々には今更語るべくもないかも知れないが、人生の外注とは具体的に何だろう。

 たとえば、食事がそうだ。弓を持ち、矢を番え、獲物を狩らねば肉は食べられないものだ。草花を刈り、種をもがねば野菜や果物は食べられぬものだ。狩りあるいは穫りの外注。あるいは「殺害」の外注。我々は殺さなくても命をいただけるようになった。

 たとえば、移動がそうだ。足を動かし、荷物を引きずり、何日も歩かなければ山は超えられないものだ。運動、あるいは旅行の外注。我々は自動車や電車、飛行機で山を超えられるようになった。

 たとえば、見ることがそうだ。目を介し、実際に会い、その場にいなくては美しい景色は見えぬものだ。鑑賞、あるいは視覚の外注。我々は、どこかの誰かが感じた「美しい」を、まるでスナックのように消費できるようになった。

 外注とは何だろう。自分の人生にとって大事な何かを、他の誰かにやってもらう。ただそれだけの、極めて効率的な行為が僕らの人生にまとわりついている。何か勘違いした連中だって出てきてもおかしくないし、その勘違いをことさらに論う連中が出てくるのもおかしくない。

 でも、外注は効率的だ。もし、我々が未だに野山を駆け、鹿を追う生活をしていたとしたらどうだろう。我々はこれほど増えなかった。きっと、文明だって築けない。非効率は発展を阻害する。どれだけ受け入れがたくても、そもそも、我々の人生は外注という大発明を土台にして発展してきたのだ。

 フーコーが言うような、この「生の権力」に抗うことの愚かさを伊藤計劃は説いた。そして、その代案こそが「Harmony」なるスイッチだ。このスイッチを押した時、デカルトの時代から連綿と受け継がれた「意識」と「体」というパラダイムは粉砕され、人はただの「人」になる。だが、どうだろう。今この世界に「Harmony」プロトコルは存在しない。人は意識を失えない。この社会で、我々が外注し続けた先に何があるのだろう。

 私は、「個人主義」がやってくると考えている。やがて人は、だれしもが一人で生きていけるようになる。あらゆることを外注した先に行き着くのは、個人が「何でもできる」社会だ。その片鱗はすでに見え始めていて、「一人で生きていける」と確信を持って断言できる人はどんどん増えていくことだろう。だって、人の温かさや、愛情だって外注できるのだから。

 けれど、それは不思議と悲しいことではないように思える。幸せな無思考が人類を救うと言う点で、伊藤計劃の出した結論は揺るがない。

 

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