日本人とテクストとツイッター

例えるなら私は書物だ。いまこうして生起しつつあるテクストだ。

 私が敬愛してやまない伊藤計劃先生の007のオマージュ作品で、「From the Nothing, with Love」という短編小説があるのだが、この作品はこういう冒頭から始まる。

 テクストなる言葉を皆さんはご存知だろうか。様々な文脈で使われる言葉なのだが、ここでは文脈に対する文章という意味での——つまり、コンテクストに対する細切れの文章としてのテクストという意味で——テクストという言葉を使っていこうと思う。

アートのコンテクスト

 まず、どうしてこんな話を書こうと思ったのかについて話しておきたい。共通項を作っておかないと、この先の文章を理解するのに妙な理解の仕方をされるか分からないので、まずは先入観を持ってこの後の文章を読んでもらうためにも、しばしお付き合いいただきたい。

 私の後輩で彫刻(立体表現というべきかもしれない)をやっている人物がいるのだが、この後輩というのが自己ブランディングに余念がなく、アートというものについて常日頃考えている、将来有望なアーティストだ。彼と日本の(特に現代アート)アートについて持論を語り合ったのだが、その中で、日本人のアート観が狭義的すぎるという話になった。

 つまり、日本人は「作品」と「作者」が別であることを良しとする。

 皆さんが現代アートについてどれほどご存知かは知る由も無いが、これらの作品群は基本的に「現代アートの歴史」というパトロンから剥離したアーティストたちの紡いできたコンテクストに対して、新しい解釈をぶつけ、その理論や有効性の有無を確かめ、それを評価し楽しむものだ。つまり、現代アートに対する造詣と、作者本人のパーソナルが極めて重要視される「コンテクスト」のエンターテインメントと言える。

 だが、日本人のアート観はこれを受け入れる器量を備えていない。日本人にとってアートといえば、感覚に語りかけるものであり、勉強や教養とは離れたものであり、色彩や構図の巧みさで、表現であるものなのだ。つまり、作者とは分離されたテクストとしてアートを認識している。

 勘違いしないで欲しいのだが、これは「日本人のここがダメ」みたいな白人連中のエスノセントリズムじみた話として批判することが目的では無い。これはあくまでも日本人の文化だからだ。

 例えば、いつの誰とは言わないが、日本のとある作曲家が逮捕された時、青い鳥のアイコンの某SNSで「犯罪者が作った音楽」とするか、「作者と作品は別」とするか、という議論が巻き起こった(かのように見えた)。かのように見えた、というのは「犯罪者が作った音楽」という認識はけしからん、というテクストばかりがタイムラインに流れてきて、実際にそんなことを言っている人を見かけなかったという意味なのであるが。

 この「作者と作品を切り離して」作品をテクストとして楽しむことがマナーである、とする文化は、決して悪いことでは無いはずだ。文化や作品の保護という観点から見れば、このエシックスとでもいうべき感性が有効に働くこともあるだろう。だから、どちらかと言えばこれは「アートという、そもそもがヨーロッパ圏で発生した文化が、日本の文化土壌では定着しづらい」というそれだけの話だ。

 芸術だの美術だのという言葉が発生したのが、明治時代であることは賢明な読者の皆様であるからご存知のことだろう。(厳密には中国の古い書物に、現在と違う意味で使われているらしいが)そもそも日本の歴史には美術などというものは存在していないのだ。いわゆる屏風絵であるとか、絵巻物であるとか、あるいは彫刻であるとか、そういったものは西洋で言うところのアートとは全く別の文脈で発展してきた。これらは建造物や為政者たちの政策の一部であったり、市井の人々にわかりやすく伝えるための方便であったりした。

 これらが一般小市民のものになったと断言できるのは江戸時代になってからで、文化文政と言われる化政文化の時代にあって、ようやく人々は個人の楽しみのために「美術」を手に入れる。それが浮世絵と呼ばれるようなものであったりしたわけだ。そうでなければ、日本にあったのは高価なツボだとか掛け軸だとか、アートというよりはクラフト(工芸)と呼ばれるようなものだ。これらは言うまでもなく、前後の文脈ではなく単体の作品としての美しさを楽しむ(そもそも、楽しむものですら無いかもしれない)「テクスト」の美と言えるものたちだ。

日本人のコンテクスト

 そう言う意味で、日本人の文化に存在するコンテクストの意識は、極めて希薄だ。だがこれは、それでも社会が成立してきた(むしろ効率的であったとすら言えるだろう)裏返しでもあるかもしれない。

 日本人がコンテクストを意識したのはいつ頃からなのだろうか。文脈という概念がいつから存在するのかは生憎と知見がないのだが、まさかそういう意識がまったくなかったということはないだろう。例えば歴史というものはコンテクストの最たるものだし、これはかねてから日本に存在する。そういう意味で言えば、現在の行動単位のテキスト化という点にこそ特異性が存在するのかもしれない。

 つまり、ある一つの行動について評価を下す時、その評価がどこまでも現在軸的であるということだ。例えばどこそこの誰々という政治家が失言をしたとして、その失言の全文をわざわざ検索して読む日本人は数える程しかいないし、さらにその発言が発生するきっかけとなった社会問題だとか、それに対する解決のアプローチだとか、立体的にコンテクストを解釈しようとする人となればもう殆どいないだろう。

 最近で言えば2000万円騒動が記憶に新しいが、実際に発表された文章を読んでみて、報道や加熱する論調とのあまりの乖離に愕然とした。ほとんどの人々は事件や問題をテクストだと捉えている。つまり、過去や未来と接続した隆起としてではなく、完全に白黒ついた「問題」として現在発生している問題を捉えるのだ。

 これを話していて思い浮かべるのが、私が高校時代の話だ。その時の生徒会長と私は仲が良かったのだが、彼は全校生徒の前での発言で、様々な為政者や科学者の言葉を引用した。これはひとえに彼の博識が為せる技だったのだが、彼に対して先生や学友たちが言ったのは「自分の言葉で話せよ」というようなことだった。無論、彼が先達の言葉を引用したのは、それらの大小様々な思想のコンテクストの中に己の思想を接続しているがゆえだったろうが、先生や学友たちにしてみれば、テクストではない思想というのが奇妙に感じたのかもしれない。

 日本人が政治や思想の話を好まない、というのも同じように解釈できる。つまり、政治や思想は莫大なコンテクストだからだ。歴史という縦の接続と、外交や施策といった横の接続が大いに結びつき、これをテクストとして切り離すと途端に面白さは消滅する。

 この無意識にテクストを好む文化はおそらく日本に独特のもので、世界的に主流となっているSNSがFacebookなのに対し、日本ではTwitterが圧倒的なシェアを誇っている。一人の人間に付随するコンテクストのSNSであるFacebookに対して、Twitterはどこかの見知らぬ他人のテクストが、文脈なく垂れ流され続けるSNSだ。

 もっとも、世界のテクスト化という側面が日本だけの特徴かと考えるとそんなこともない気もする。特段に日本にその傾向が(おそらく文化的背景があるのだろうという点を加味して)強くあり、世界的にみても情報化社会によるキュレーションが、有機情報をテクスト化しているという現象は各地にあるだろう。これを新しいコンテクストの生成と好意的に捉えることはたやすいが、その過程で「旧来保持していたコンテクスト」が粉々に粉砕されてしまう点は無視できない事実だ。

敵のいない戦争

 TwitterというSNSがテクストのSNSである、という点に関して否定の言葉はあまりないと思うが、そういう意味で、このツールが歪に作用する現象を何度も目撃してきた。それを私は「敵のいない戦争」と名付けた。順を追って説明したい。

 まず先ほど「政治や思想の話を日本人は好まない」と書いたが、これはテクストの文化が先に立っているというよりも、「不要な争いを避けるムラびと心理」が先にあり、その結果として日本文化のテクスト化に寄与していると見るべきだろう。(つまり、テクスト文化が先行しているのではなく、様々な要因の複雑で有機的な絡み合いが、日本人のテクスト文化という結果で現れているという意味である。無論、このテクスト文化が帰納的に文化に還元されることも認識しなくてはならない)同様に、TwitterというSNSで発生していることも同じ要因があるように思う。

 何かと言うと、誰かの発言に対して反対意見や同調を示す時、直接その発言に対してツリーで発言をぶつけるのではなく、完全に分離させたツイートとして発信する行為が発生しているということについてだ。

 これはもちろん、直接討論することによって「自分の不足」「相手の攻撃」「相手の発言に同調する人間の攻撃」といったリスクを回避する自然な行動ではあるはずだが、これが一つの社会問題や思想に対する主張だった場合、本来コンテクストとして存在するはずの「反対意見」「批判」が、完全にテクストとして独立する。完全に独立すると、その発言に対する反対意見はまた、別のテクストとして生起することになる。これが繰り返されることによって、「敵」の顔も主張も見えないまま、ただただそこにあるテクストに同意し、共感し、虚空に向かって怒号を撒き散らす地獄絵図が完成する。(「敵」という表現を使ったが、これはあくまでも方便である。ディスカッションにおいて、主張の違う相手はあくまでもより良い結論を共に目指す仲間であるべきである)

 お互いに攻撃の届かない距離でこれをしているならまだマシな方で、中にはそもそも「こういうことを言う奴がいるが、これはけしからん。理由はこうだ」みたいなツイートに共感が集まり、バズり、しかし蓋を開けてみるとけしからんことを言っている奴は実はどこにも居なかった、なんてことも少なくない。

 私は、敵だとか攻撃だとか言う表現を使っているが、もちろんディスカッションにおいてこの認識は間違っている。だが、Twitter上で起こっているこれらは、完全にただの争いだ。なぜなら相手の顔が見えず、ただ主義主張が食い違う、(それがコンテクストから分離されているがゆえに)愚かに見えるただの「敵」しか見えていないからだ。これが、海の向こうの国と戦争している時の国民感情と何が違うと言うのだ。ただただ戦争であり、決してディスカッションではない。

 もしも己の主義象徴を、井の中のタイムラインで叫ぶのが世界を良くしていると信じきっているとするならば、それは「思想のインフルエンサー」とでも呼ぶべき声の大きな人間から発せられた、ある種のプロパガンダを無邪気に受け入れて養殖する行為でしかないと認識するべきだ。世界を良くするのは、あなたに賛同する人間を増やすことではなく、あなたが、確かに存在しているあなたと対立する意見の人々と語り合い、話し合い、問題のパラダイムを次の段階に推移させる行為だ。少なくとも、問題のコンテクストから、一部のテクストを共感の素材として放流する行為は、共感を呼ぶだけにとどまって決して生産的なものではない。コンテクストから切り離された問題の核心はずれること請け合いだし、人間の認識能力は「自分で考えた」「自分で気づいた」ことを過剰に信じる愚かさを持っている。しかるに、人間は後から問題のコンテクストを提示されたとしても、自らがテクストから想起した結論こそが正しいと考えてしまいがちなのだ。

 あなたの目の前にある問題をテクストとして捉えてしまうのは、日本人としての悲しいサガだ。だが、だからこそ、目の前の問題のコンテクストを認識する作業を怠ってはならない。これは自衛だ。人がテクストを切り売りし続ける限り、我々はその文脈を常に見逃すべきではない。

 テクストが生起する時、そこには必ずコンテクストがある。

 あなたの人生と、これからのディスカッションが有意義であることを、切に願うものである。

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意味の図画と言葉の工作、このふたつで僕は文章をつくる

図画とはクリエイティブであり、工作とはエンジニアリングである。実用に資する公的に正しい文章は、伝達と行動を企図した徹底的な他者志向から生まれる。
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