パブロ・ピカソは最初から抽象画家ではない

パブロ・ピカソがこの作品を描いたのは15歳の時だった。

19歳の誕生日、彼はスペインの家族を離れ、当時ヨーロッパの芸術の中心地であったパリに移り住んだ。フランス語の知識も乏しく、経済的な制約もあったが、彼は小さなアトリエを苦闘する芸術家たちと共有した。

ピカソは当初成功を収めたが、親友のカルロス・カサジェマスが悲劇的な死を遂げた。この出来事がピカソに深い影響を与え、青や青緑の色調を主としたメランコリックな絵画を制作するようになり、画商の支援も得られなくなった。

経済的困難に直面したピカソはバルセロナに戻ったが、父親は彼の失敗を批判し、画家としての可能性を否定した。1年後、ピカソは勇気を振り絞ってパリに戻り、画家としてのキャリアに再挑戦する。

この時、彼は目覚ましい成功を収めた。1904年11月、ガートルード・スタインという裕福なアメリカ人相続人がピカソの作品を見つけ、彼の絵画10点を800フランで購入した。彼女はまた、後に有名な「ガートルード・スタインの肖像」となった彼女の肖像画を描くようピカソに依頼した。