見出し画像

大正時代 地方新聞のコラム記事

私の義理の祖先は、青森県鰺ヶ沢町(大阪から北海道の港を結ぶ北前船の寄港地)より弘前市に移り、「なにはせんべい」の製造販売元でした。廃藩置県で藩からの援助もなくなり後、廃業してしまいました。ただし、今でも金看板と藩札、金属製の店版は継承しています。金看板には「伊東久左衛門製造」との文字があり、かつてせんべい屋を営んでいたのです。以下の記事は古い地方新聞に掲載された、菓子舗伊東家に関する記事の転載です。あえて褒められたことではない内容も書かれていますが、この名菓が廃れていくことを憂い同情を授けてくれるように締めくくられています。

この新聞社は現在なく、発行日は大正二年十一月十八日でした。新聞は旧仮名遣いでルビがあります。当時店を継いだ伊東専守は昭和7年には、若党町に住み無職と記した届出書類があり、その後家督を譲っています。新聞に記事が載った前後は、弘前市元大工町でまだ営業していたようです。以下はその記事からの転載で、商品名「なにはせんべい」以外は現代仮名遣いに直してあります。漢字は、パソコン上で変換できる漢字については新聞掲載のまま極力載せました。一部環境依存文字があります。句読点一部変更しています。

大正二年十一月十八日 弘前日報

(コラム)一町一人 (筆者)青頭巾

伊東久左衛門(元大工町)

菓子舗の大坂屋は、弘前に移ってきてから二百幾十年になるということを誰もが知っている、が、それと殆ど同時代に大阪より津軽に移って来た菓子舗の伊東久左衛門のあるということは知る人は少ない。況んや此由緒ある末裔の元大工町にいるということをや。弘前新聞の成田社長宅の向かいに少(ささ)やかな菓子店はある、「鰺ヶ沢名産鯨餅」と書いた新しい木札が懸けて居るが、それは即ちここに言わんと欲する伊東氏の家である。伊東氏の祖先が大阪屋とほぼ同じ時代に大阪より津軽に移ってきた家である。

大阪屋は弘前に、伊東は鰺ヶ澤に住宅を定められて、何れも藩の御用菓子店である。昔はこの両家より他は一切太白(たいはく)砂糖の使用を厳禁されたものである。大阪屋は「冬家」や「松風」を以て名を藩内に知られたと同じく、伊東は「なにはせんべい」を以て名を謳われた。大阪屋の本姓は福井で大阪より来たというので大阪屋を屋號としたが、伊東は昔から屋號がないので、なにはせんべいの製造元であるから、之もなには即ち大阪より来たものであろう位にしか思われないが、大阪屋を弘前に、伊東を鰺ヶ澤に置いたのは、鰺ヶ澤は昔時靑森開港前は藩内(弘前藩)唯一の港であったからである。

伊東は鰺ヶ澤の衰頽と共に家業も次第に衰えたが、癈藩(廃藩置県)前は藩の保護で相當に營業を継續したものである。維新後の變遷と共に、多くの保護營業は槳木(将棋)倒し同様に相次いで倒れたが、それと同様、數百年の𦾔家(旧家)もあわれ其縁故ある土地を見捨てて弘前に移ってきた、が、商賣は思わしくない。今日にあって此の名菓も好事者の口にするばかりで、一般の人には知られていない。寂しき店に昔を語る金看板の光って居るのは、破れ伽藍に金沸の安置されていると同じく(人の寄らない朽ち果てたお堂に納められた、場違いに光る金仏のごとく)如何にもなさけない思いがする。現主人の専守氏は一風變った男である。悪く言えば變人である。商賣に變人は法度である。氏の營業の思わしくないのは、一は時勢の變遷であるが、一は氏の商賣人らしからぬ性格も其因を為せるものと思われる。名所𦾔蹟の保存論は近來大いに矢釜しくなった。至極結構なことである、がこれと同じく名物の保存も必要ではなかろうか。名物には兎角甘(うま)い物はないというので、近來色々な甘い名物の製造に頭をなやますものはあるが、もと々土地の名物という物は甘不味(あじふみ)に關係したものではない。調べてみると、味に没交渉な縁のあるものであるから、甘ければ尚けっこうであるが、不味とて押して甘くせずとも宜かろうと思う。然るに「なにはせんべい」は前に言うたような縁故のあるもので、その製造法などは中々親切なもので、味わいの高尚なものである。鰺ヶ澤人は此の名家を保存することが出来ずに、金看板は弘前に移った。甘當(あまとう)は須べからく此せんべいを味わいて名物の絶(た)わんとするに同情を垂れ玉え。
ー以上 当時の弘前日報三面よりー

自分のWinxのページより転載しました。