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トルコ・ハルフェティ連詩を終えて:三宅勇介 x 四元康祐 往復書簡第四回

三宅さん、

イスタンブールのDAMで行われたハルフェティ連詩の発表会、当日別の詩祭とぶつかったとかで参加者は少なかったけれど、密度は高く、深く掘り下げた意見が交わされたましたね。連詩から受ける日本とトルコの詩人の資質の違いについて感想を述べてくれたのは、サリ・バラート(Salih Balat)という詩人です。人柄は優しそうなのだけれど、静かなる威厳というか、詩人としての風格を感じさせる人ですよね。

      (Salih Balat)

彼、僕らの詩風について「インテリジェンス」って言葉を使ったんでしたっけ?その部分は記憶から抜けているんだけれど、日本の詩人は具体的な事物や状況を作品のなかにどんどん登場させる、そうして憶するところがない、という発言は覚えています。対して、トルコの詩人は感情的で抽象的な書き方をしていると言ったような気もするけれど、もしかしたらそれは僕自身の感想が混じっているのかも。

ともあれ、サリの言ったことにはみんな深く納得していましたよね。確かに僕は多元宇宙への旅だとか、60歳の誕生日プレゼントとしてのスカイダインビングだとか、若き認知言語学者だとか、超短編小説風の設定をしばしば使ったし、三宅さんもトルコへ来る飛行機に乗り合わせた「前の席のアメリカ娘」とか、「怪我から復帰したばかりのガラタサライの長友選手」だとか、現実の断片を積極的に登場させていました。

(イスタンブール DAM での発表会のあとで。中央でゴクチェが抱っこしているのは彼の一人娘。彼女もいい詩を書くんです)

サリが「インテリジェンス」と呼んだのは、「知的」という意味合いよりも、三宅さんがおっしゃるように「奇想」とか「機智」というニュアンスでしょうね。別の言い方をすれば「頭で書くタイプ」?でも日本の詩の伝統的な風土においては、定型でも自由詩でも、それって褒め言葉じゃないですよね。むしろ貶める言い方でしょう。心の底から、存在ぐるみで書けないから、仕方なく小手先で書く二流の詩人、というイメージ。

実は僕、思潮社の現代詩文庫「四元康祐詩集」の裏表紙で、大岡さんからまさにそのお言葉を頂戴しているんです。

『世界中年会議』の〝思いつき〟の面白さは抜群。彼の作品やエッセーは、どれをとっても人類の未来への不安を隠し持った、微苦笑や皮肉の聞いたユーモアを持ち、〈現代の怪談〉めいたスリルに富む。

正直、初めてこれを読んだ時は複雑な気持ちだったなあ。その前後に「大詩人への道を歩んできた」とか「個別の詩の背景に常に『大文字の詩』への熱い想いがあって、一見クールな外見をしっかり支えている」というありがたいお言葉もあるんだけれど、もしかしたらそれも皮肉なんじゃないかって思えてきて。

今改めて三宅さんが引用してくださった大岡さんの「贈答と機智と奇想」の一節を読んでみると、なるほどそういう深い洞察が込められていたのか、と膝を打つ思い。十数年かかってようやく知る師の心、なんとも情けない弟子であります。同時に、自分がどうして連詩や対詩などの共同制作に魅せられて止まないのか、少し分かった気もします。

それに比べると、トルコ詩人は自らの感情に忠実で、かつ普遍的な書き方をしていましたね。特にゴクチェとペリンにその傾向が顕著でしたが、別の言い方をすれば、僕らの方が嘱目の俳句風で、彼らは古今的な短歌風であったのかも。ユーモアの要素にしても、僕らが自然と俳諧的な諧謔を取り込んでいたのに対して、彼らはどこまでも耽美と抒情に寄り添うという風でした。この辺り、歌人の三宅さんがどう思われるのか、興味深いところです。

連詩を実作する観点から見ると、三宅さんは割合スパッと切ってゆくタイプですね。僕もどちらかと言うとそっち派ですけれど、三宅さんの切れ味の鋭さには驚きました。前の詩と一点だけで繋がりながら、パーンと大胆な場面転換を打ち出して来る。やっぱり奇想・機智の付け方ですね。一方、トルコ勢は皆素朴で自然な付け方でした。僕にはそれがややもするとベタ付けに思えて、彼らが書いてきた詩の最初の一、二行を削る誘惑に駆られたものです。何度かは彼らの了解を得て実行したりしました。そうやって詩と詩の間に短い切れ目を入れてやると、却って詩が動き始める。連詩が川のように流れ出すように思えるんです。その流れのなかで、短歌的な接続と、俳句的な切断が鬩ぎ合っている感じ。

高校生の頃読んだ大岡信さんと谷川俊太郎さんの対談集『批評の生理』で、お二人は互いの詩的感性を、それぞれ波動型と粒子型になぞらえていらっしゃいましたが、今回に限らず、連詩をするたびに僕はそのことを思い出します。波動は短歌的なうねり・接続に通じ、粒子は俳句的な切断をもたらす。谷川さんは、「カットマン」を自称するだけあって、恐ろしいほどの切れ味ですからね。もちろんそれでいてちゃんと「付け」ているんです。量子力学によれば光は粒子であると同時に波動でもあるそうですが、連詩の達人も繋ぎながら切り、切りながら繋ぐと言う二面性を備えているようです。

(谷川さんも参加した3ヶ国語連詩のテキスト、及びそこでの付け方についての谷川さんの自作解説はこちらから↓)

あと、サリはこの「付け」をめぐる議論の中で、こんなことも言いいませんでしたっけ。

「付け」の方法論や接続と切断の使い分けということは、連詩の中だけの問題ではなく、我々が一人で詩を書く上でも、段落から段落、さらには一行から次の行へと移る時に、意識すべき事柄のように思える、と。

これにも僕は全く同感なんです。実際、連詩の最中に宗匠として、この付き方はちょっと飛び過ぎていて読者にはついて行けないから、もう少し接点を増やしたら?とか、逆にここはベタに付き過ぎているから、この行を落としちゃって、なんて言っている時の感覚は、自分の詩を推敲している時にとても近くて、そのことが新鮮でした。普段一人だけで見ている夢を、他者と共有しているような感じでした。だからこのサリの発言を聴いて、僕はやっぱりこの人すごい詩人なんだなあと思ったし、連詩ということをこういう本質的なレベルで理解してくれたのなら、はるばると来た甲斐があった、もう本望だと思ったものです。

三宅さん、あれから詩とか短歌、書かれました?僕は結構書いていますが、まだどれも連詩の続きで書いている気がします。先行する詩に付ける代わりに、現実そのものだったり、最初に頭に浮かんだ発想に対して付けてゆくわけですが、一人二役というか、対話しながら書いている感じ?それが結構新鮮で、今回の収穫の一つでした。

取り急ぎ、四元康祐

2018年7月1日

これまでの書簡のやり取りは、こちらから↓


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