森山至貴 x 四元康祐 往復書簡 「詩と音楽と社会的現実と」 第11回:日大アメフト、 野性のエロス、ジプシーの少女たち

from M to Y

ある若いアメフトの選手の話をします。彼のことはもしかしたら四元さんもごぞんじかもしれません。そうです、定期戦で相手方の関西学院大学の選手に怪我をさせた、日本大学の学生のことです。

アメフトに詳しいわけでもなく、また新聞やインターネットのニュースを通じて伝聞情報を多少追いかけた程度ですので、大きく端折った説明にはなってしまいますが、事情はこういうことです。つまり、権力を持った監督やコーチが若い選手を追い詰め、ルールの上では厳しく禁止されている「プレイ時間外の不意打ちのタックル」によって相手に怪我を負わせる行為をこの選手にさせたのです。

次から次へと経緯が明らかになり、監督やコーチが去就を人質に選手を支配していたこともわかりました。しかし、少しずつ撤退を余儀なくされているものの、日大(の監督やコーチ陣)側の説明は、基本的に「そんな指示をしたつもりはなかったが選手が勘違いをしてやった」という無茶なものに終始しています(この手紙を書いている現在、さすがに件の監督は辞任していますが)。この期に及んで何を言っているのか、とも思いますが、どうもこの背後にはその(元)監督が日大の常務理事であり人事部長であり、大学全体における権力者でもあるゆえの問題があるようです。つまり、常識的に考えれば監督やコーチの処分によって自浄作用を発揮すべき立場の者が、人事権を盾に「偉い人間」を守り、自分たちの大学の学生の首を被害者に差し出そうとしているのです。

何から何までひどい話です。大学教員としては、どうして自分のところの学生をトカゲの尻尾切りのように放り出すのか、本当に理解に苦しみますし、怒りを覚えます。大学は、学生をさまざまな暴力の被害から守られなればならないですが、同時に学生が加害者になってしまうことをも避けなければならないはずです。少なくとも私は、ジェンダー論やセクシュアリティ論の授業の中で、「あなたたちにセクハラやセクシュアルマイノリティ差別の被害者になってほしくはないが、同じように加害者にもなってほしくないのだ」と折に触れて言っていますし、それは私の本心です。ですから、理事を守って学生を切り捨てるなど大学は、私にとっては大学の名に値しません。日大の内外の心ある人々の連帯の上に、歪みのない事実認定と適切な対処がなされることを望んでいます。

大学教員としてはどうにも腹の虫がおさまらず、さっそく乱暴に脱線をしてしまいました。学生の話に戻ります。後手後手にまわる大学側の対応に先んじて、この学生は自らの名前と顔が公表される形で謝罪会見を開きました。彼は、自らが重大なルール違反をしてしまった経緯を明らかにしつつ、「悪いのは自分である」という立場を一貫して取り続けました。記者の意地悪な質問にも「指示されてやったのだから俺は悪くない」という回答を一切返しませんでした。そのことによって加害が免罪されるのかはわかりませんが、責任逃れをしないことによって、彼は自身の尊厳をぎりぎりのところで救うことができたのだと思います。

ここで私が想起するのは、四元さんが指摘した「みんな」の問題です。明らかに日大のアメフトにおける「みんな」は、個人の強度が巧妙な支配によって極限まで低められた集団としてあったはずです。そして、この「みんな」の中から、その外側の他者に危害を加える、という大きく、そして取り返しのつかない代償を払って、一人の学生が孤=個として立ち上がった。彼だけではありません。監督やコーチからの妨害の中、他の日大の選手たちも自分たちがどうあるべきかについて議論を重ね、新たな「みんな」を立ち上げようとしています。おそらくそのうねりは、加害学生や他の選手たちをも救おうとする(被害者側であるところの)関学のアメフト部のうねりとも合流していくでしょう。だから私は、それでもなお、強度ある個によって立ち上がる「みんな」は可能だと言いたい気持ちがあります。

他方で私は、加害学生の会見を高く評価する日本社会の雰囲気に危ういものを感じてもいます。すなわち、加害学生の会見を立派だと評価する人々の中に「指示されて仕方なくやったのだから当人は悪くない、にもかかわらず自分の意志に基づく行為として責任を引き受けているのが立派」と考えている人が存外多い気がして怖いのです。背後に「指示されたのだから人を傷つけてしてもしかたない」という免責が隠れているのだとすれば、彼をヒーローとみなすことで、人々は先取り的に自らが責任主体としての個であることから逃げている。「責任を下の者になすりつけるのはひどい」と非難することで「下の者たちからなる『みんな』のメンバーは責任主体ではない、その一員である私も」と表明している。私にはそのように思えてなりません。加害学生が苛烈な支配の中で追い込まれていたことによって幾分か彼の行為が免責されることはあるのかもしれません。しかし、彼について言及することで、先取り的に自らの免責を企むのだとしたら、私にはそれはとても卑怯な行為に映ります。せめて私自身はそうなりたくない、というのが正直なところです。

とはいえ、私の中に加害学生の彼のことを「立派」だと思う気持ちもやはりあります。しかしこれはきわめて「日本的」な感情なのでしょうか。例えばドイツにいる四元さんには、「他人を怪我させた責任を自分で取る、と表明しただけで立派とはおかしい、当たり前のことだろう」と映るのでしょうか。ぜひ知りたいです。

「野生のエロス」という言葉は、私には複雑な感覚を呼び起こします。この一文を書いた現在、この言葉に対する最終的な私の位置取りがうまく決まっているわけではないので、書きながら考えてみようと思います。まずは、私自身の複雑な感情を腑分けしてみます。

「野生のエロス」という言葉を聞いたときに、一番最初に到来する感覚は警戒感です。私の研究者としての直感が、「気をつけろ」とささやきます。性に関する研究にとっての基本用語に本質主義と構築主義というものがあります。前者は、性を身体の生物学的性質などの不変的な要素に還元して理解する立場です。と書くとややこしく思えますが、具体的には「浮気は男の本能」「女は男を支えたいと思う生き物」みたいな考え方のことを指します。他方構築主義は、性に関する実践や規範が歴史的・文化的・制度的な文脈の中で作りあげられたものであると理解する立場です。「専業主婦は女の本能ゆえのあり方でも日本の伝統ゆえのあり方でもなく、日本社会の産業化に伴って要請された、たかだか100年程度の歴史しか持たないものである」みたいな考え方のことです。そして当然、性に関する学問は本質主義の誤謬をただし、構築主義的な説明の正しさを確認してきました。

さて、エロスは言うまでもなく性に関するものですし、野生は本能とかなり近しい単語です。とすれば、野生のエロスという表現は、性に関する研究者としては(独特の定義をするのでない限り)大きな間違い、と言いたくなるものです。いささか挑発的な表現をすれば、「野生、という言葉を冠することで、たかだかエロスを神格化・審美化しているのでは?」ということにすらなります。私が警戒感という言葉を用いたのはそういう理由からです。

他方で、また別の感覚もあるのです。そもそも、「野生」の反対語はここではなんでしょうか。文化、文明、規範、こんなあたりの言葉になるでしょうか。しかしここで私は、野生の反対語を「言語」としたい欲求に駆られます。つまり、エロスの言語化不可能な側面を指して野生という語が使われているのであれば、それはちょっとわかる、という気もするのです。現に性に関する議論においても、「言葉にできない」という素朴なロマンティシズムをすべて剥いだそのさきに、なお言語が到達できない性の側面があるのではないか、という議論はあります(そこで焦点になるのは多くの場合「身体」です)。

ここは丁寧に歩を進めないと足をとられる箇所だと思うので記憶を頼りに書きますが、言語による世界の「写し取れなさ」というのは、それ自体哲学的な問題であったはずです。すなわち、世界の豊かなありようは記号の組み合わせに過ぎない言語に置き換え可能なはずはないという素朴な直感があり、しかし、私たちは言語のネットワークが用意した枠組によって外界を理解しているのであり、であるならば世界の豊かさは言語のうちに内包されている分の豊かさと重なるはずである、というこれまた十分合理的な議論がある。

ここで重要なのは、性と死は、そこに賭けられるロマンティシズムも込みで、言語による写し取りの臨界に位置しそうな現象だと私たちが思いやすいのではないか、という点です。注目してほしいのは、「私たちが思いやすい」という表現です。私の乱暴な仮説では、性や死が何か本質的に特権的で絶対的な価値を持つというよりは、言語によって何かしらを表現しようとする、それもどこまでを表現できるかを試しつつ表現する際、人々が想像が及びやすく手に取りやすいテーマが性と死なのではないか、と思えるのです。したがって、私の感覚からすれば、「男女の恋と仏教的な無常観を、それぞれエロスの野性と死の超越性という観点から読み直す」という行為は、むしろ恋や無常観と言った個別のテーマを、言語による表現の臨界という論点に向かって抽象化して読む、という営為に思えます。

おそらく、私の足取りは四元さんのやりたいことと真逆を向いているのだと思います。しかし、四元さんの中にもこの志向性はあるような気がするのです。例えば無人称でなく全人称、という言葉遣い。「無人称」は世界全体が語らない存在者になることを指しますが、「全人称」は世界がすべて語る権能をもった存在者になることを指しますよね。とすれば、それは、「どこまでを語れるのか」「どこまでが語れるのか」という問いを、四元さん自身が引き受けているようにも思えるのですが。とは言え、四元さんの言葉をもじっていえば、「全人称」は「絶対無分節」というよりは「絶対分節」に近しい気もしてきます。

考えをつらつらと書いているうちに私もよくわからなくなってきましたが、「野生のエロス」は、ある種の言語論として展開されるべきなのではないか、という直感は、私には確かなものとしてあります。「性」のイメージに乗っかっていくことは罠だ、という感覚とも言えるかもしれません。

四元さんは「野生のエロス」概念による和泉式部読解を、やはりある種のテーマ論として立ち上げようとしているのでしょうか? そして「全人称」は「絶対無分節」とどう関わってくるのでしょうか。

唐突な質問になってしまったので、音楽家として「野生のエロス」についてどう思うか、答えてみますね。私は性の持つロマンティシズムにかなり距離をとった作風の作曲家だと思います。たとえば、男声合唱と女声合唱で、音像の違いはあれど「性差」がうまれないように、自分の作品群を設計しています。そしてまた、「音楽には言語に表現できないことが表現できる」というロマンティシズムにも強く懐疑的です(四元さんとはじめてお会いしたときに会話したことだと、往復書簡の最初の方でも書きましたね)。「野生のエロス」なんてないというのが、私の音楽家としてのスタンスのようにも思えてきます。

と書きましたが、実際にはちょっと違う気もしてきました。人々が「ここに野生のエロスがある」と思うようなところにそんなものはない、とひたすら抑圧しつつも、私には、私や人々がまったく予想だにしない箇所から突如としてエロスを噴き出させてやりたい、と思う気持ちもあります。それは性的なものとは言えないかもしれませんが、強烈な快楽であることは間違いありません。ある意味、これこそ最もわかりやすいロマンティシズムなのかもしれませんが。

一つ積み残した課題があります。個なき「みんな」の問題は日本文化論として語りうると思うのですが、これを主語が要らないといった日本語の特徴と重ねていく分析がどこまで妥当でどこからがなんとなくの符合の域を出ないものなのか。日本文化論=日本語文化論だとすると、「翻訳」といった要素の居場所がなくなってしまいそうです。過去の書簡を読み返しつつ、とっちらかった頭の中を整理してみたいと思います。

2018年6月18日
大阪北部地震の日に、東京にて


from Y to M

今日は『カルメンとローラ』という映画について書こうと思います。先週金曜日から始まったミュンヘン映画祭で観てきたばかりのスペイン映画です。

舞台はマドリッド郊外、ジプシーたちの居住区。主人公はそこに住む二人の少女。カルメンは一七歳で、他の多くのジプシー少女同様高校には進まず、市場で骨董品を売るお父さんの手伝いをしながら、将来は美容師にでもなろうかと何となく思っている。ローラは十六歳、クラスでたった一人のジプシーとして高校に通い、教師になるという希望を明確に持っている。それゆえ親戚の間では「変わった子」として知られている。映画は、カルメンの婚約が決まり、きれいなドレスで着飾ってお祝いの場へ出てゆくところから始まります。

ちなみに「ジプシー」という呼称、近年は差別語であるとして「ロマ」に言い換える傾向にあるようですが、映画の中では「ヒターノ(スペインジプシー)」、映画祭の紹介文や上映に駆けつけた監督も「ジプシー」を使っていたので、ここではそれに倣います。ちなみに「ロマ」は「ジプシー」と呼ばれる人々のうち、最も代表的な一民族の名称であって、厳密には「ロマ」以外にも様々な「ジプシー」が存在するということです。

二人は市場で出会います。たまたまカルメンの婚約者(こちらも17・8歳の少年です)がローラのいとこだったので、家族ぐるみの付き合いが始まります。カルメンにとってローラはただの「友達」ですが、ローラはすでに自分の中の同性愛的な傾向を意識していて、その最初の現実の対象がカルメンだった、というわけです。

映画は、ローラの恋愛感情がカルメンを誘いかけ、揺さぶり、一度は跳ね返されたものの最後にはどうしようもなく燃え移って、烈しく愛し合うようになる過程を丹念に描いてゆきます。それは互いに対する愛を確認すると同時に、自分自身の本当の姿を見つけ、直視し、ありのままに受け入れる過程でもあります。

伝統的で閉鎖的なジプシーの社会では、同性愛は今なお厳しく非難され、治すべき病気だと考えられています。二人の関係を知られることは、共同体から排斥され、追放されることを意味します。下手したら父親に殺されかねない。けれども共同体を出てゆくことは難しい。外の世界にはジプシーに対する偏見と差別が根強く残っていて、職も学もない少女が生き延びてゆく可能性は限りなくゼロに近いから。つまりカルメンとローラには行き場がない。唯一の道は人目を忍んで逢引を繰り返し、「普通の」ジプシーの仮面を被ったまま暮らしてゆくことですが、頭でそれが分かっていたとしても、二人の中の「野性」がそれを許さない・・・・・・

今年四十九歳で、三十年下積みを重ねた末のこれがデビュー作だという女性監督によれば(映画祭なので監督や俳優やプロデューサーが上映の前後に質疑応答するのです)、出演したジプシーたちは全て普通の人々で、プロの俳優ではない。同性愛を演ずる勇気のある少女を見つけるのは本当に大変で、街角で出会うジプシーの少女に片っ端から声をかけ続けた末、ようやくカルメン役の少女に出会ったのは千二百数十人目のことだった。映画が上映されるとマドリッドのジプシー社会は猛反発し、我々の中に同性愛者は存在しないと言い張った。映画館の一つに押しかけて上映を阻止したりさえも。カルメンもローラも本当に勇敢な少女だ。この映画に出る以上、故郷の共同体から放逐されることを覚悟し、その外側で生きてゆくことを選んだのだ。もっとも二人ともすでに父親と衝突してタフな状況に追い詰められていて、これ以上失うものは少なかったのだけれど・・・・

同性への愛の目覚めと本当の自分の発見というテーマでは、昨年公開された『君の名前で僕を呼んで』が印象的でしたが、あの映画では少年の父親がありのままの息子を受け入れ、むしろ積極的にその愛を大切にするよう励ますという役柄でしたね。僕はあの映画は同性愛と同時に家族や友人(ガールフレンドも含めた)との繋がりの大切さを描いた作品であるように思えました。

『カルメンとローラ』はその正反対です。彼らは自らの本性に忠実であろうとして共同体を追われるか、己を殺して共同体の掟に従うか、妥協の余地のない二者択一を迫られます。しかも共同体の外には差別と孤立が待ち受けている。そもそも監督がこの映画を作ることを思い立ったきっかけは、スペインで初めて同性婚の結婚式を挙げたジプシーのカップルに関する新聞記事でした。スペインでは2005年に同性婚が合法化されているのに、今頃になってようやく最初のケースだなんて、と驚きながら読んでみると、市役所で行われた結婚式にはカップル以外には誰も出席しなかったとのこと。おまけに記事に添えられた写真の中の二人の顔にはマスクがかかっていたそうです。

一方二つの映画に共通するのは、同性愛だけではなく、それが初恋でもあるという点です。他者への愛を知ることが、そのまま自分自身を発見することにつながってゆくという、人生でただ一度のめくるめくような、けれども恐ろしい経験。心と身体がみるみる変わってゆく思春期の戸惑いと歓び。そのようにして見出してゆく自己は、自分の内側にありながら、未知で不思議な存在です。自分自身でありながら究極的な他者であり、親しさと同時に危険な獰猛さを秘めている。

前便で僕が「エロス」に「野性の」という言葉を付けたのは、そういう意味合いを込めてのことです。僕は若い頃 D.H.ロレンスに傾倒していたので、その影響もあるかもしれません。もっとも彼の「野性」には、獰猛さではなく「優しさ tenderness」という言葉が添えられていましたが。そういえば森山さんの手紙では「野性」が「野生」になっていましたね。僕はどうしても「りっしんべん」を付けたいんです。心と体が分かち難く(それこそ根源的な無分節として)一つになったところに潜んでいるのがエロスだと思っているので。そこではきっと、生と死も渾然と混ざっている。死は肉体のレベルの出来事だけれど、精神(というかタマシイ?)は時空を超えた自由な存在だからです。

そういえば映画の中のローラは、鞄の中にスプレー缶を持ち歩いていて、通学の途中壁に落書きをするんです。いつも決まって、虹色の翼を広げた鳥の絵を。

日大アメフトの問題、W杯が始まった途端に消し飛んでしまいましたね。被害者が集団によって追い詰められて、集団の外にあるものに対して加害者となるというパターンは、日本の軍隊が犯してきた戦争犯罪の構図にも当てはまります。ヤクザの世界にも、企業の中にも、学校の中にも、日本の社会の隅々に蔓延しているのかもしれません。

加害者の学生のことを、カルメンとローラならどう思うだろう、と考えています。彼らが自ら加害者であることを免れた理由は何なのだろう、とも。ちなみに二人の役を演じた現実の少女たちは、世界各地の映画祭に招待されて得意絶頂、カンヌのレッドカーペットを夢見心地で歩いていたそうです。

2018年7月3日
W杯日本チーム敗退の翌朝に

(映画『カルメンとローラ』より。映画に関する情報はこちらから↓)


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