コミュニティは「求められていない」§1

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20180312

コミュニティは「求められていない」§1(参加者が起こしてくださったログより再構成)

参加者17名+キーワードに最初に反応してくれた横須賀さんのゲスト参加


吉澤(主催者):
コミュニティは求められていない、というキーワードだけで、松陰神社前に17名も集まっていただいた。

私自身はコミュニティを肩書に背負ってはいるが、これからどうしたらいいのか、と内心思っている。地域と私の関係、仕事の領域でのこと、あわせて。

最初に、参加者からひとことずつ<お題:タイトルのどこにひっかかったか>

・地域包括ケアは、英語でCommunity-based integrated care systemsになる。コミュニティがなくなってケアはできるのか?

・まちづくりコンサルタントをしている。コミュニティという言葉は微妙な使われ方をしているように思う。間の取り方に混乱しているような気がする。みなさんどう考えているのか?

・タイトルをみて「そうだな」と思った。でも、なぜだろう?と思った。でも、なぜかが分からない。コミュニティを作ろうとがんばっている人がいて、自分も入ってやっているが、ほとんどの人にコミュニティは求められていないのではないか、と思ってものごとにあたらなければ。

コミュニティは求められていないとは思っていないので、それを否定されると何をやっているかわからなくなる。

大人食堂というワークショップをやっている。自分でコミュニティをつくるが、大きくなると離れていくということを繰り返している。何かができあがると、何もできていないところにいく。ピンときた。

主催者と知り合い。かつ、つなぐ人フォーラムでお世話になった人が参加するというので、興味をもった。


不良会社員、カマコンのメンバー。コミュニティ自体は興味はなく、結果コミュニティになっているねとは思っている。コミュニケーションを重視している。


ずっと理系エンジニアをしてきた。今は地域包括ケアなどの高齢者の居場所づくりをやっているが、制度的にコミュニティづくりが前提になっている。居場所づくりは参与観察的にやっているつもり。コミュニティはいろんな見方があってその見方を話したほうがいいのではないかと思っている。変な期待や絶望したりはよくないだろう。


デザイナー。コミュニティに対して、デザインの力で何ができるのか。コミュニティが多すぎて、一緒にやればと。コミュニティに向き合いたい。


シェアハウスを運営している。そこでコミュニティをつくるとか、仲間づくりをやっているが、必要がないのではないか、とぐらっときたのできた。

少し前までファシリテーター養成をメインとする企業を経営していた。今は少しのんびりしている。元来、「逆視点好き」なので、そういう視点で来た。

看護士。高齢者福祉とかは、コミュニティづくりで予算がつくが、いつも同じメンバーで集まっていて、役所はそれで成果が出たという。どこにいっても、同じ人が来る。なんかよく分からない。地域包括ケアでコミュニティはそれでいいのかと思った。またFBでも自分の好きな人しか集まらないので、それってどうだろうと。

地域包括ケア支援センターで働いていた。その時からコミュニティとか言われてさんざんやっていた。それを辞めたときに、喪失感があった。私たちは多様な人と生きているというテーマで質問を出していく、というときに、私たちの意味は、同質で居心地のいい仲間が「私たち」と捕らえていたが、コミュニティはひらかれていなけえればいけないのかと疑問。

訪問介護をしている。従業員向けの保育園を開設する予定。その時に、建物のオーナーに子どもたちを中心とした地域交流事業ができればと提案された。仕事と子育てを両立したい。それがコミュニティというものか分からないが、それで交流したい。勉強しにきた。

建築のデザインをしている。リノベーションがメイン。ここ2年くらい、周囲ではコミュニティ熱が高まっている。大学から地域おこしを研究している。コミュニティ熱はたんなる流行なのか、ココロから求めているのか、疑問に思っている。コミュニティに入るのは難しい。新たにコミュニティを作ろうと思うのは難しい。自分では、求めているが作れないのかな、と思っている。


吉澤から自己紹介:

マンションのデベロッパーと一緒に分譲マンションに住む人たちのためのコミュニティ形成をやっている。震災1年後から現在も継続中。さっき話題に出てきたつなぐ人フォーラムの実行委員もやっている方がきっかけで始まった業務。
地縁でもなく、関心縁でもなく、同じマンションを買った人のコミュニティというニッチな領域。防災に関して助言をしたり、住宅地中心のエリアマネジメント設計などもやっている。


業務中心の生活だが、コミュニテイというワードに触れる機会は多い。
ワークショップやファシリテーションなどを学んできたので、なにかの関心をもって集まるというコミュニティには経験がある。

かつ、今日のこの場所は父方の祖父がやっていた小売り酒屋を相続した建物。母方もごく近く。両方とも母系はこの周辺にずっと住んでいた。自分で地域活動を担っているとはいえないが、血縁を通じて、地縁コミュニティにもつながっている。

(吉澤)なぜ、コミュニティは「求められていない」なの?:

あくまで「求められていない」で、不要だとは思っていない。必要なんだけども、なぜこんなに求められていないのだろう、と思った。

業務関連のとあるアンケート結果を見た時にそう思った。「いいコミュニティ」とみんなが思っているの第一は「マナーが守られている状態」だった。でも、マナーを守るための活動は活発ではない。(マナーを守るための活動を)率先して推進するリーダーも求められていない。

マナーが守られている状態は求められている、けれど、そのことのプロセスには自分(たち)が関与することがイメージされていない???

なぜ、コミュニティは必要なのに、求められていないのか?

コミュニティの解釈が、人によって違う事にも注目したい。

理論社会学の祖、高田保馬が奇遇にも妻方の高祖父。彼は「社会学概論」で、基礎社会と派生社会という考え方を提示している。関心を軸に集まっている集団は「派生社会」と整理されている。

いっぽうウィキペディアの「コミュニティ」の項には、なんでもかんでもコミュニティとしてくくられている。最近、コミュニティオーガナイジングや、基礎社会=コミュニティという範囲を超えてつかわれていることが多いと感じている。

あるテーマに関心がある人のコミュニテイオブインタレスト(COI:関心を共有している人の集まり)と、地縁由来のコミュニティを同一線上で考えていくとしんどいのではないか。

散漫な問題提起ですが、みんななんらかコミュニティの当事者だと思うので、お互いにやりとりしていくとなにか分かってくるのではないか。と思って場を開いた次第。

横須賀:今日の場を開く告知に真っ先に反応してくれたので、ゲストとして話題提供、というかこのあとのワークをファシリテート。

デザイナーとして、この関心軸「コミュニティは求められていない」で集まっている集団の次のステップをお手伝いしたい。
造形のワークショップは、素材を中心にファシリテーションしている。それぞれがイメージするものは違う。そこから連想するものは全然違う。コミュニティもそれぞれがイメージしているものは違う。
点が増えると、関係性が生まれ、円ができると、コミュニティが作られて、さらに重なり合いが出てくる。入っていない人も、コミュニティに入る。
コミュニティは、共同体意識をもって共同生活を営む定式化した社会類型の一つとされている。
コミュニティといえば「メゾン刻の湯」という書籍が出たところ。コミュニティにまつわる話。コミュニティについて、深い話になっている。コミュニティないし、システムに所属している人が多い。その人がシステムの中で生きていくには、どうしたらいいのか、個々の健全性を確保していこう。その立場を超えた関係性「あなたを中心にした個々の次元の関係性」を作るのが難しいのではないか。重要なのは、コミュニティじゃなくて、友だちということですね。友だち=コミュニティではない。
コミュニティ「システム」は求められていない。
コミュニティ「ビジネス」は求められていない。
コミュニティは、「〇〇〇〇〇」。
医療系の人が多いのはびっくりした。
今日の目的は、情報交換をして共有するのが大事なのではないのか。
コミュニティを中心にして、えんたくん。

ワークショップ:

吉澤が参加したテーブルでは、コミュニティは時代遅れで、もう要らないのではないか、という問題提起がなされそれを中心にディスカッションが繰り広げられた。多くの人がコミュニティが必要という概念に振り回されているのではないか。

今日の気づきを全体にシェアしてチェックアウト:

吉澤:
あなたの課題は何ですか?と問いたい。一人で解決できないことがあって、誰かとなにかを共有したくて、それがひろがっていくとコミュニティと呼んだり、アソシエーションと呼んだりする。
自身に課題感がないとき、コミュニティは求められていない、のかもしれない。

・コミュニティには葬式がいる。そこからいなくなった人に対して、その人がいなくなったことをどう解釈するかが問われる。コミュニティのお葬式。コミュニティを状態と考える人と価値と考える人がいる。

・コミュニティは求められていないの、求められていないことは、共通の認識にして、どうするのか?

・コミュニティばかり見ていて、コミュニティは必要なはずと思っていた。それでびっくりした。コミュニティという概念をはずして考えていかなければいけないのだと思った。コミュニティばかり見ていた。

・コミュニティというもの自体の形態もいろいろ。地域包括ケアという意味でのコミュニティは崩壊している。その代わりのものが生まれてきている。

・コミュニティはシステムだったというのと、コミュニケーションだった。それぞれが関心を出せてドライブできるものだといいな、と

・今やっているコミュニティは必要だと思う。人は死ぬ。それを救える人がいる。言葉は大事。それをつきつめていくことで前にいける。コミュニティと言った場合に、人があつまっているだけで、価値観は生まれてくる。自分の価値を作りながら人が集まってくることをしないとコミュニティは生まれてくる。福祉は、ほんとに価値観で集まらないといけない。

・コミュニティは求められていない。求めてはいるんだが、求めている形は違う。そこのすれ違いがある。その違いを表現できる名称があるといい。それをもっと議論する場があればいい。コミュニティ難民がいる。その人たちを巻き込みたいと思う。それが整理できた。

・コミュニティの勉強に参加してみたい。
コミュニティが何をさすのかがふわっとしている。コミュニティは求められていないと言う言葉を発する人は、コミュニティを求めている人ではないか。誰とも人とつながっていない人はいない。人とつながりたいと思っている人は、何かのアプローチをしていけばいいのでは。

・このグループでは、2つのコミュニティの話題になった。最初は、興味関心があってあつまってきて、大阪では商人コミュニティがある世代。自分の町から出てしまう。血縁が頼れない。地縁が大事になってくる。地縁がある人は、コミュニティ、コミュニティと言わないのでは。コミュニティを必要としている人はどういう人なんだろう。

・今の時代ならではの、コミュニティに相応しい言葉が求められている。コミュニティというキーワードで集まっているが、みんなコミュニティで集まってきている。本来そういうものではなく、日本的な観点でコミュニティとかワークショップという概念を表す未来の言葉を作っていくのが大事ではないか。

・コミュニティを作ることが多い。最初は興味関心をもって集まり、関心がなくなると消えていく。そこで、消えないので、コミュニティをやめるタイミング、セレモニーが大事。終わりを決めるのが大事ではないか。

・コミュニティ構成主義の時代。個々人それぞれがコミュニティだと作ってしまうと、その人が見えるコミュニティがある。そういうものが重なっていくと、世の中これがコミュニティという境界はなくなてきている。それぞれが、それぞれの考えでそういう集団ができているのでは。
もうひとつ別の視点。ゲマインシャフト回帰への希望。マンションでの暮らし方が近くに住んでいる人同士の関与が起こしている。これらが両立するのがいいのでは。と思った。

・コミュニティは、流動的で変化していくもの。やっぱりそういうものなんだな、とはっきり分かった。もう一つは、関心が同じ、価値観が近い人が集まるといいコミュニティになるのでは、と思えた。あーなるほどと思えた。こういう観点で、声をかえていったら面白いコミュニティができるのではないか。

・コミュニティは求められていない。人と人とのつながりは求めている。人と人とのつながりを生んでいくものだと思う。名前をつけないとコミュニティらしくないが、名前がついちゃうとダメ。


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