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動法と内観的身体③

『躾という文字は、漢字ではない。国字である。ここに古人の抱いた教育観がある。

端的に言えば日本の教育は身体の教育であった。頭で憶えることより、「身体で覚える」ことに重きが措かれ、頭で理解することより、「身体で感じとる」ことが尊ばれたのである。

学習とは思考の鍛錬ではなく、身体の行法であった。したがって教育の第一義は、身の律し方であり、それは即ち動法の規範と型の伝承だったのである。

子供達は適正な時機に茶碗と箸を持つ型を伝えられる。茶碗は、左手拇指の関節を折らずに、反らして持つものである。

これは単に呑み口に触れないという衛生上の意図からではない。関節を反らして当てれば腰が入り、関節を折れば途端腰が抜けるからである。

腰抜けは臆病の証である。腰が入り肚を据えれば、自信や覚悟が生まれる。古人は腰や腹に人品を観たのである。

身を整えなければ決して生じてこない感覚や意識がある。このことを古人は充分に熟知し、より高次の動法の開拓から、未だ見ぬ心を見出そうとした。身心一如の文化の基礎がここにあると言って過言ではあるまい。

また、動法は決して職人や舞踊家や武術家の専有物ではなかった。日本人は喜怒哀楽、内省、鑑賞、決意に際して型をもって臨んだのである。

更に、日本人は崩れた型から生じてくる心は怪しんだが、型が微妙のバランスをもって崩れたときに生ずる心は楽しんだのである。「粋」「洒落」などその好例であろう。

嘗て精神は身体と至近にあった。 精神は言葉によって構成されている。

言葉はもと声であった。声は体から発せられるのである。発声は動法をもって為すことは既に述べた通りである。

文字は書である。書は動法をもって為されたのである。こうして古人の知性は動法の光彩を放つのである。

俳句や禅の公案が愛される理由は、何よりも先ず速度感にある。あの速度感は寝そべっては生まれまい。速度は動法の求めたものである。間に髪を入れぬ速度である。

そのような質の速度は、徹底的に反動を忌避し、短く、そして鋭く止まる動きによってだけ見出される。

俳句の簡潔さは、単なる質素や素朴ではない。あれは明らかに心の反動を消し、心が潔く止まることを志すものである。したがって短さは必然のものとなるのである。』

つづく

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