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動法と内観的身体⑤

『 型の問題に話を戻す。

動法の型は動きを制する為のものである。
客観的身体を止めれば止めるほど内観的身体は鮮明に観え、その変化は勢いを増す。
したがって型は内観的身体の活動を誘う為に機能するとも言える。

能の舞いの外観が恰も動きを拒絶するような抑制的姿を呈する所以はここにある。能面によって演者の表情が隠される所以もここにある。

元来、日本の文化は内面と外面、内観と外観にある差異を追求したものである。

歯を食いしばり努力する姿を不粋とし、感情を露わにすることを下品とする。
床の間の一輪の椿の蕾に豪華を感じ、鋭く弾じられた琴の音に無上の静寂を秘めようとする文化なのである。

ここにこの文化の特筆すべき点があり、この特性は型と内観の関係に由来しているのである。
舞の外観は抑制的に見え、しかしその実、内観的世界は豊かな動きに満ちている。

外を止めれば内が動く、内を止めれば外が動く。型はこの外観と内観の順逆を和している。

これを私は順逆拮抗と呼び、型及び動法の第一の原理としている。
順逆拮抗は内と外との関係ばかりでなく、型の細部、即ち各部位の方向性に至るまで適用できる。

例えば正しき前傾として追求されたしづみの型は、立位をとり、膝が前方へ屈曲するよう恥骨を引くことが基礎となる。
即ち恥骨と膝は互いに相反する方向へ動くのである。

第二の原理として、転型同質、同型転質を挙げる。これも内と外の関係である。

転型同質とは、どのように型を転じても一度入れた内観的腰は崩れることがないということである。

同型転質とは、外観的に型は同一で変化はないが、内観的身体だけを転じてしまうということである。

通常拳を握り上肢を屈曲させて緊張感が生ずれば、これを弛める為には、上肢の屈曲の角度を緩めるか握力を緩める。
しかし内観的身体を変化させるだけで、上肢の屈曲の角度も変えず、握力も変化させないで弛みを実現する等が同型転質である。

能面の表情が自在に転変するのは演者の動法もさることながら、同型転質の内観技法を自然身につけているからであろう。

第三は同調、転換という他者との感応の原理である。

誰でもよい、握手してみる。すると、その二人の肘の角度はお互いに同調していることに気づくだろう。
肘の角度をさらに精密に合わせてみれば、自分が相手を動かしているのか、相手が自分を動かしているのか、判然としなくなり、互いに相手に動かされている感覚を持ち、両者の運動は渾然一体となる。

私が追求している内観的整体法の初期段階で追求された原理がこれである。
現在は客観的身体より内観的身体との同調を図る技法を主流とするが、この初期の素朴な原理は今も基本として生きている。

日本の文化は動法・内観・感応を支柱として確立された文化であると私は信じている。相手が礼を正せば、敵であろうと同朋であろうと礼をもってこれに接する。この同調の型を迎え入れと呼ぶ。

客を迎える芸術である茶の湯は、本来感応性を追求したものであった。一期一会の接客が何故、主客面を接する形式をとらぬのか。今日誰に尋ねても答は得られない。

答えは簡単である。日本人は面接を信じていなかったからである。他者の内観に心を致すのは、眼ではないとしたのである。相手と目を合わせるのはむしろ敵意である。

面接ではなく、腹接、腰接を追求したのが我々の文化であった。即ち相手と腹を合わせ腰を合わせようとしたのである。

そのようにして他者と自己が互いの身体を内観し合う交流を喜びとし、尊び、希ったのである。』

おわり

『動法と内観的身体』
「体育の科学」第43巻 第7号
(野口裕之 ー整体協会・身体教育研究所)より

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