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動法と内観的身体②

『しかし、多くの日本人が西洋的歩行を自然に為すようになった今日でも、十人の日本人を集め、大地を力強く踏みしめるように大きく手を振って足踏みすることを指示すれば、七人までがナンバをとるようになる。

但しその際足裏を平らに踏みしめ、爪先から足をおろさないことを教えなければならない。今日の人々は足踏みを爪先で為すのである。爪先で行えば決してナンバにはならない。

このことからナンバは明らかに土踏まずの感覚と関連して居り、伝統的歩行である摺り足と密接に連動していると言うことが出来よう。

さて一国の文化の特色を把握しようとする時、道具と人の関わりを観ることは決して無駄なことではない。道具の製作は文化発生の元型と深く関与しているからである。

工芸家秋岡芳夫氏は日本文化の特質の一つとして「一器多様性」あげている。
西洋のフォークやナイフが一器一用であるのに比して、箸は成程一器多用性をもつ。同じ箸を用いて、豆をつまみ、豆腐を掴み、粥をすすり、芋を切る。

しかし一器をこのように多用に使い分けるには、それだけ動法の繊細な使い分けが求められるということをいみしている。

剣術家甲野善紀氏は、一器多用の代表として日本刀を例に挙げている。

日本刀を用いることを剣術という。刀をもって剣と呼ぶことに何ら異和を感じないのは、日本刀そのものが刺すことと斬ることを両用するものだからである。

即ち日本刀は、大陸で剣と刀が分化し一器一用となっているのに比して、剣であると同時に刀でもある両用性を追求したものなのである。

しかし、そのことから逆に、日本刀は斬ることにかけて刀より劣り、刺すにあたって剣に充たないという機能上の曖昧さをもつに至る。

甲野氏はこれを踏まえて言う。「だから日本刀で斬るのではなく腰で斬るのです。日本の剣術はそもそも体術なのだ」と。

日本刀に限らず、日本の匠達が造り出す道具は未完の器である。しかしそれは匠の技が未成熟という意味では無論ない。それどころか道具のもつ機能と人の運動機能の融和を図る為に未完を保つのである。

それは丁度、墨絵の余白の如きものである。日本の匠達にとって道具は人との関係が結ばれた時に初めて完成するものなのであろう。

更に言えば、日本の道具は既に使用者の動法を促すよう造られている。

例えば急須の柄は、握るには短すぎる筈である。勿論先人が手が小さかった訳ではない。そもそも急須の柄は握るためのものではない。拇指の腹と鉤形にした人差し指で挟む為のものなのである。

湯の重さをこの型で支えるためには小指を強く深く握り締める動法が要求される。小指の使いこなしへ動法熟達の基礎というべきものである。小指は手首を介して腰と最も密接なつながりをもつ。

したがってこのような手の型で急須を持てば、湯の重みを腰で支える道理となり、自ずと腰が入ってくる。 急須の形は、腰で持つことを企図しているのである。


この例から明らかなように、動法は嘗て日常の些事にすら漲っていたのである。動法の形成する型が日常生活の中で実際に機能していた時代があったのである。それも遠い昔のことではない。』

つづく

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