僕は子供と、どうやって「お話」に向き合えば良いのだろう

なんだか最近「正しさって本当に曖昧だなぁ」と思うことが立て続けに起きたんですね。


まず、ディズニー映画「リメンバー・ミー」を見ている時。

別のnoteにも書いたのですが、映画の中で「考えるより、行動することに意味がある」という思想が否定されるシーンが有りました。(あくまでストーリー上ですが)


でもITの特にベンチャー界隈だったりSNSにいると、逆に「行動しないやつはダメだ!」という価値観がとても強いように思います。


また先日、noteでこんな記事が話題になりました。

この中で「ウサギとカメ」はこんなふうに解釈されています。

ウサギは他人を基準に生きていて、カメは自分の目標を基準に生きている。その「生き方の違い」がこの寓話の解釈の本質だと思っているのだ、と祖父は言った。
ウサギの生き方になっちゃダメだよ、と祖父は続けた。

いやぁ、本当に素敵な解釈だ。元の寓話もカメが正しいことになっていますが、より一層カメが正しいんじゃないかと思えます。


しかしまた別の時に、私はウサギとカメの別の解釈を聞きました。それは「ウサギとカメは、どっちもダメだ。」という話で。

ウサギは油断をしたし、カメはそもそも能力が低すぎる。油断をすべきではないし、能力をもっと高める必要もある。だからどっちもダメだ…そういう論理なんですね。


もう1つだけ。

寓話「アリとキリギリス」について、先日読んだ糸井重里の「インターネット的」でこのような一節がありました。

アイデアやクリエイティブこそが、社会の核をつくるものだし、人間の英知のすべてとすら言えるはずなのに、『アリとキリギリス』の寓話でも、キリギリスは死んでいくという結末になっています。キリギリスは、楽しい演奏や美しい歌を残したのにもかかわらず、です。

ああ、そんな解釈があるんだ、と震えました。

確かに、楽しい演奏や美しい歌だって、十分に価値があるし、正しいものです。


こんなような今までの正しさが揺らぐようなことが立て続けに起きて、ふと思ったんです。

私には1歳10ヶ月になる子供がいるのですが、いずれ大きくなって、ディズニー映画やウサギとカメやアリとキリギリスのような色んな「お話」を子供と共有していくでしょう。

その時、どの視点で「お話」を読めばいいのかな…と。


でもこれはもう、ゆっくり「視点」を話し合っていくしか無いんだろうなぁ、なんて思ってます。

先日もLGBTのイベント「東京レインボープライド」も開催されましたが、どんどん多様性が受け入れられていく方向に世の中は向かっていくんじゃないかなと。

だから、どんな「視点」があるかを一緒に見つけていく。一方的に正しさを教えるだなんておこがましいことはしない。

そういう態度が重要なんだろうなと考えています。


今もどんどん、新しい「正しさ」が生まれています。

るってぃさんのこの記事なんかも、そんな気付きがありました。

いちいち「こうあるべき」を作りすぎなんだ。だから保守的に走って、世間体にあわせて良い子を演じようとして、本来の行動に移せなくなってしまう。別にいいやん、人それぞれで。生きれれば。

1つの正しさを信じることは、ともするとリスクすらあります。

だから私の子供には、いろんな「正しさ」を想像できる力を身に着けてほしいなと願います。


子供が大きくなった時の楽しみが、また1つ増えました。


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コメント7件

証明などをしているわけではないですが下記記事の中ほどで、なぜそうなるかという概観自体は説明しております。
https://note.mu/shiooshii/n/n6c1fa0cbb465
押井さん、ありがとうございます!
やはり、規則(正しさ)を横断していくことが大事なんですね。
記事の前半では「アリとキリギリス」や「カメとウサギ」という処世術的観点からの「正しさ」について述べられているのに、急に東京レインボーパレードや多様性の話が出てきていますね。TRPの趣旨の1つは性的マイノリティへの差別の根絶を訴えることだと思います。筆者は強硬に「正しさとは相対的なもの」と仰いますが、それに則るのであれば性的マイノリティへの差別的言辞を行うことも「1つの正しさ」ということになってしまいます。「正しさ」を相対化することの怖さはそこにあります。「正しさは人それぞれ」と声高に言うことで現実的に不利益を受けるのは、いつも既に被害を受けている当事者の側なのです。
処世術の文脈から「正しさとは相対的なもの」と仰るのであれば言葉の趣味の問題と割りきれますが、今回そうでない文脈が混在されていましたので指摘のみ失礼します。
「ヘイトスピーチだって多様性のうち!」というようなトンチンカンを平気で言う者が多いインターネットですから、「正しさの相対性」のような話をするのには慎重さが求められるべきだと思います。
Zero Tolerance for Intoleranceです。
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