NIKEのマラソン2時間切りプロジェクトの結果から何が見えるのか

昨年末にこちらの記事を書きまして
https://note.mu/jshira/n/n1e42e2b365c2
先日、イタリアのモンツァにあるサーキットにおいて非公認の記録挑戦会が行われました。朝の5時台、気温が12度と低い中で始まり、ペースメーカー(車が先導し、選手の周辺には風除けの選手を配置)がつき、莫大な研究費をつぎ込んだシューズやドリンクを給水し、ベストと考えられるトレーニングを積んだ、ベストと思われる選ばれた選手3人が参加しました。
結果としてはご存知の通り、25秒ほどオーバーしましたが、条件を設定すれば2時間を切ることは可能と思える所まで来ました。この結果に対する評価は様々ですが、レース前後で指摘された点をいくつか。
1.なぜ早朝なのか?
人間の身体には概日リズム(サーカディアンリズム)というものがあります。これに関しましては、人間のパフォーマンスが最も高くなるのは夕方というデータがあります。早朝において丁寧にウォーミングアップをしても、夕方のパフォーマンスよりは劣ると言われています。それを考えたら夕方にやるべきでは、という指摘がなされていました。これに対する答えとして、多くの国際的なレースが早朝に開始されている、アフリカでトレーニングをしている選手のほとんどが早朝にトレーニングを開始しており、そうした選手でのサーカディアンリズムの測定をしていないので、長年早朝トレーニングをする環境にある人たちは適応している可能性がある、というものがあります。ケニアなどでは昼になると暑くなるからという点や、夕方だと暗くなっていくから街灯が整備されていない所でのトレーニングができない、という問題点があるため早朝に行われていると考えられますが、東京マラソンですら朝の9時にスタートしている点を考えると、夕方にトレーニングをするというのは実態に適していない、という主張の方が正しい気もします。
2.気温は適していたのか
日本人は長距離レースでは寒い方が記録が出ると言います。これはレース中に体温が上昇することがパフォーマンスを下げることにつながるからでしょう。ウォーミングアップをし過ぎるとスタート地点に立った時には理想の体温になっており、レース中に温まることでダメになっていくというのはよく指摘されることです。アフリカ系の選手ではウォーミングアップをほとんどせず、レースの中盤から上げていくというのも言われます。これはレース中に体温が上昇しすぎるのを抑制する面とウォーミングアップをする面があるかと思われます。では、このプロジェクトレースが行われた日の12度という気温は適していたのか。
http://www.runnersworld.com/sweat-science/after-a-near-sub-2-marathon-whats-next
こちらの記事ではアフリカ系の選手は寒いのを嫌うとあります。しかし、寒くないと身体的に問題があるのもまた事実です。この点から考えると、次に改良されてくるのはウェアでしょうか。腕などを着脱のしやすい形にし、保温をしつつ時々外す。レース中に体温調整できるウェアというのは検討される事項かと思われます。今回の気温が適していたのかは不明であると上記の記事にもある通りです。根拠となる論文はありますが、アフリカ系の選手で実験したものはありませんので。もちろん、NIKEが独自に実験をして未公表としている可能性も十分にあります。
3.シューズは機能したのか
年末に書いた記事にもある通り、新作のシューズは大幅にパフォーマンスを向上させるという触れ込みでした。その機能には賛否がある所ですが、実際にはどうなのか。
http://www.runnersworld.com/sweat-science/the-data-behind-nikes-4-shoe
実験はボルダーの標高5400フィート(標高1655m)で10kmを31分以内で走ったことがある選手18人で、この標高において最大酸素摂取量は平均して体重あたり72.1ml/kg/minを記録している。そして1マイルを6分54秒、6分02秒、5分22秒の速度で走って代謝の変化を測定。その結果、 VaporflyはStreakよりも4%ほど代謝が低かった。Adios 2でも実験しており、その結果はStreakとほぼ一緒であった。この実験の試行はちゃんとしていますし、問題はありません。ただ、結果からして4%ほどエネルギーの使用を減らすことが出来ると言えるのかは微妙な所です。記事中にもあるように、トレッドミルで実施した実験をロードでやって同じことになるか、というのは疑問です。また、プロジェクトのレースペースは1マイル4分36秒のペース。この違いもあるでしょう。実験に参加した選手とプロジェクトの選手での能力差は確実にありますし、実験での数値は平均値であり、改善がほとんど見られなかった選手もいるとのこと。シューズの特性に適したフォームで走れているかなどもあるでしょう。今後、よりシューズの特性を発揮させるフォームを磨いていくのか、選手のフォームに合わせた靴の開発が行われるのかは分かりませんが、さらなる最適化が実施されていくことは間違いなさそうです。ケニア選手のフォームの変化がこの10年くらいで起こっており、10%近くの効率化が行われている、という論文もありましたしね。ランニングエコノミーが指摘される中、さらなる最適化を実現するためにどうなるのか。軽量化しつつクッション性を重視する、さらにクッション性を発揮した後に硬くなる。そんな素材の開発でしょうかね...(脚には空気抵抗を減らすとされるテープを貼ったり、適度な圧をかけたりしていたようですが、あまり効果は無いかもしれません)
4.空気抵抗は抑えられたのか
この点に関しては様々なことが言われていますが、周囲をしっかりと囲んでいますし、理想的だったかと思われます。シューズの機能改善よりも、最後まで囲まれていて前後左右からの風に守られた、というのは大きいですね。
http://www.nikkei.com/article/DGXZZO64313550Z11C13A2000000/
4年前の記事になりますが、理屈上は最もエネルギーロスを減らしてくれるのが空気抵抗を減らすことです。記事中にある通り、また多くの人々が今回の実験に関して指摘しているように、最も機能したのは風除けだと思われます。途中で入れ替わって守り続けたことが、この記録の達成に大きな役割を果たしたと考えられます。
5.水分補給は機能したのか
特別なドリンクを選手ごとに作っているというのは公表されていました。糖質濃度を選手ごとに変化させており、最適な吸収が行われるというものです。ただ、レース中の給水は筋グリコーゲンの回復を促すものでは無いので、筋肉のパフォーマンスが下がらないようにするため、脳グリコーゲンや肝グリコーゲン、筋グリコーゲンの消費を抑制するためとイオンバランスを整えるためと考えられます。今回のレースではそれが機能したのかは不明です。ただ、糖をどのタイミングでどれくらい摂取する必要があるのか、という議論はもっと起こって良いかと思います。日本人の大好きな薄めて飲むというのと真逆な濃度ですし。
6.レースまでの練習はどうだったのか
この点に関しては公開されているものが少ないので、指摘は少ないです。ただ、やるべき練習というものはほぼ把握されておりますので、それを淡々とどれだけハイパフォーマンスでこなせるか、という点は重視されているのだと思われます。速いスピードを維持していく。これに焦点を当てて練習を考えるというのは大事でしょう。14分10秒でフルマラソンを走ろうと考えている人たちがいるわけです。マラソン練習をしてもスピードが落ちない、落ちるのは練習に問題があるから、という点をもっと理解していくべきでしょう。
7.ドーピングはしていたのか
今回のレースは非公認のものであり、競技会という枠には入りません。そのため、ドーピング検査は実施されません。禁止薬物には常に使用禁止というものだけでなく、競技会において使用禁止というものがあります。この競技会において使用禁止の薬物を使った可能性が否めないという指摘は当然ながらあります。ただ、検査をしないでも良いレースでしたので、どうなのかは分かりません。競技会で使用禁止なので、練習などで用いることは問題ありません。練習で用いて高いパフォーマンスにおいて練習をする。そうしたやり方も当然ながらあります。これはルールからして問題はありません。
8.選手の能力はどうなのか
http://deadspin.com/nikes-two-hour-long-eliud-kipchoge-documentary-was-beau-1794984200
こちらの記事でも書かれていますし、多くの研究者が指摘したように、Eliud Kipchogeの能力が全てであり、NIKEのサポートは本当に意味があるのか?というオチが今回のチャレンジに対する見解として最も多いかと思います(私が観測する範囲での世界中の研究者の方々)。ずば抜けた才能を持っているキプチョゲがそれを発揮するサポートをNIKEがしたとも言えますが、万全のサポートをしても他の二人は25kmを待たずに脱落しています。サポートが必ずしも結果に結びつくとは言えないわけです。脱落した2人を最大限にサポートして2時間切りが見えるか、そう聞かれたら無理であると答える研究者の方々が大半かと思われます。それくらい、選手個人の才能という部分が大きいことを明らかにしたプロジェクトのチャレンジだった、と。ただ、より多くの選手が自己の持てるベストを発揮するため何をすればよいか、ということを考えるデータはさらに集まったのかと思います。今後、2時間が切られることがあるのかは分かりませんが、その時に科学的なサポートのおかげと言えるのか、その選手の才能と言えるのかは不明です。ただ、才能というものが大きな面を占めるという現実を示した厳しい話ともなってしまったのが今回の挑戦であった、という点も理解しておきたいところです。誰もが2時間を切れるわけじゃない、という夢の無い話になりますが、まぁ現実ですね。それでも、持てる最大限を発揮するためには科学的なサポートが行われ、効率的にそこまで辿り着こうとするわけです。

長々とした文章になりましたが、選手の才能が最も重要である。次に、選手が持てる能力を最大限に発揮できるようにするサポートが大事である、と言えるでしょう。日々の練習における効率の最大化、休養や栄養面などのサポート、トレーニングウェアや練習環境の整備、etc...選手だけでなく科学的な面のサポートを実現するための豊富な資金。魅力的ですね。日本の陸上競技業界も実業団ごとに競うだけでなく、共同で出資して科学的なサポート体制を確立するなどしないと、さらに世界から遅れていくのかな、ということを思いました。外国選手が何でそこで練習をするのか、何でその練習をするのか、何でそれを食べるのか、何で以下略。この辺りをもっと細かく分析していかないと、2時間を切ろうとしている世界との差がさらに広がる一方である、と思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?