_ブログ用_文字なし_ぺるそな_ハイドアンドシーク

【小説(全文)】ぺるそな@ハイドアンドシーク


(第7章以降は有料となります)


◆ プロローグ かくれんぼ@もういいかい


 いつもの夢だった。

 幼い頃の記憶。
 何年前だったかは定かじゃないけど、まだかくれんぼという遊びを必死になって楽しめていた頃だ。

「もういいかい」
「もういいよ」
 遠くで、誰かのはしゃぐ声が聞こえる。

 家から少し離れたところにある公園だった。空には太陽が高く上っていた。
 鬼は誰で、一緒に遊んでいたのは誰で、どういう経緯でかくれんぼをすることになったんだっけ。
 いつも考えてはみるけど、思い出せない。これが実際にあったことなのか、それとも単なる空想の出来事をただ夢として見ているだけなのか、それさえ曖昧だ。
 まあ、そんなのはどうでもいい。
 かくれんぼなら、鬼に見つからなければいいだけだ。

「みいつけた」
 また遠くで声が聞こえた。
 まだ私が見つかる気配はない。

 昔から、かくれんぼには自信があった。
 隠れることも、隠すことも得意だった。
 声を出さないように。音を立てないように。絶対に見つからないように。改めて細心の注意を払う。
 どれくらい時間が経っただろう。日が傾きかけていた。
 いつの間にか、一緒に遊んでいた友達の声はおろか、足跡すらも聞こえなくなっていた。

 かくれんぼは、鬼から見つからないように身を隠すゲームだ。逃げ続けて、隠れ続けられる人が強い。
 このままずっと隠れていれば私の勝ち。下手に物音を立てなければ誰にも見つからない。そう思っていた。
 けど、ふと疑問が浮かんだ。
「勝ち」って何? 鬼は全員見つければ「勝ち」なのかもしれないけど、隠れるほうには「勝ち」ってあるの?
 そうして隠れ続けた結果、私は一人、公園に取り残されていた。

 そう、私は気づいちゃったんだ。
 誰にも見つからなかったら、ひとりぼっちになっちゃうことに。

 ──私の夢は、いつもここで終わる。


◆ 第1章 朝夕@スイッチング


「西野夕凪(にしのゆうな)と申します。本日はよろしくお願いします」
 私は目の前の女性に頭を下げた。向こうも「よろしくお願いします」と会釈を返す。
 3月。学年で言えば大学3年と4年の間のどっちつかずなところ。春休みなので授業はない。だけど、時期としては就職活動が本格化する頃だ。
 私は大学の就職支援センターがおこなっている模擬面接を受けていた。
 3年間通っていたけど入ったことのない小部屋で、アドバイザーの女性と向かい合って座っている。30代前半くらいで、ストライプの入った白いシャツに紺のジャケットというパリッとした服装をしていた。
 私は堅苦しいリクルートスーツと履き慣れないパンプス、さらに就活用ヘアスタイルに就活用メイクというやつで顔を作っている。まあいい。今はそういう仮面をつける時間だ。
 そしてメイクで隠し切れないものは、マスクの下に隠している。もっとも、事前に提出した履歴書代わりの書類には、私の素顔の写真が貼ってあるんだけど。
 学生時代に頑張ったことや、会社に入ってやりたいこと、自分の強みや弱みなどについて質問される。私は半分くらい答え、もう半分くらいは適当にやりすごした。
 そして模擬面接の最後、「何かご質問や話しておきたいことなどはありますか?」と尋ねられた。
 私は、前もって訊こうと思っていた質問を投げることにした。
「えっと……」右手で口元に軽く触れながら言った。「普段からマスクをつけてるんですけど、実際に面接するときにもつけてていいですか?」
 アドバイザーの女性は私の顔とその仕草を見て、質問の意図を察したようだった。
「マスクだから落とされる、ということはないとは思いますが、外したほうが印象はいいと思います。マスクをしていると声もこもってしまいますし、中には話し相手がマスクを着用していることをよく思わない方もいらっしゃいますので。それから仕事をするうえでも、社外のお客様、特にご年配の方と接する場面では外したほうが無難かと思います」
 そう言われて私は、模擬面接の間はマスクを外してみることにした。
 息はしやすくなったはずなのに、水の中でずっと息を止めているような、妙な居心地の悪さを感じた。

 ちょっと自己分析が足りていないですね、という指摘を受けて、模擬面接の時間は終わった。
 いわく、面接での質問というのはほとんどが「この人はどんな人物なのか」を知るためのものらしい。帰り際、自分の経験や長所と短所などをまとめるワークシートみたいなものも渡された。
 指摘はごもっともだった。素直じゃないという自覚はある。
 傷つかないために、私は多くの感情を覆い隠してきた。そうしなければ生きてこれなかった。そうしないと心が壊れてしまいそうだった。それだけだった。
 だけど気がつけば、自分が何を考えているのかさえよくわからなくなっていた。
 だから私は、本当の〝わたし〟を見つけないといけない。早く見つけなきゃ、ひとりぼっちになってしまう。
 ──そう。小さい頃、隠れ続けていたら公園に一人取り残されてしまった、いつかのかくれんぼみたいに。

 外に出ると真っ先に、ポケットに入れていたマスクをつけた。
 ふぅ、と一つ息を吐く。やっと水から顔を出せた心持ちになった。マスクをしているほうが呼吸が楽に感じる、なんて、普通の人にはわからない感覚だろう。
 要するに、マスクがないと安心できないのだ。
 帰りの電車の中でバッグからスマホを取り出すと、朝陽(あさひ)からのラインが来ていた。
  > 思ったより早く終わった。そっち行っていい?
 数分前に届いたものだった。「そっち」というのが私の部屋を指していることは、長年の付き合いでわかっている。
  > 私もこれから帰る。先に上がってていいよ
 私が返信すると、すぐに既読がついた。私たちの間でこういうときはたいてい、「了解」の意味だ。

   @

 自室の玄関には、すでに朝陽の靴があった。リビングに入ると、ジャージを着た朝陽が私のベッドを背もたれにして床に座っていた。手にはスマホ、耳にはイヤフォンが挿さっている。
「おかえり」イヤフォンを耳から外して、朝陽はスーツ姿の私に顔を向けた。「あれ? 今日就活?」
「今日は模擬面接。大学でやってるやつに行ってみた」
「お疲れ」
「朝陽は? 院のオリエンテーションとかじゃなかったっけ?」
「新M1対象の、専攻科と研究室の説明。終わったのが2時くらいだったかな。そのあと同期の子と1個上の先輩と一緒にご飯食べてきて、ちょっと前に帰ってきた」
 朝陽は少し前に大学の卒業式を終えて、4月から大学院に進学する。
 同い年なんだけど、学年は私のほうが一つ下だ。
 理由は私が浪人していたからだ。ついでに言うと、私が経験したのは普通の浪人じゃなくて、一度大学に入ってそこに通いながら別の大学を受け直すという、いわゆる仮面浪人というやつだった。
 話を聞く限り、朝陽は院の子たちとご飯を食べながら3時間くらい話したんだろうか。おそらく相手はほぼ初対面だろうけど、それだけ打ち解けることができてしまうのは、さすが朝陽だなぁと思う。

 東川朝陽(ひがしかわあさひ)は私の幼なじみだ。
 昔から、私たちは見た目も中身も正反対だった。
 すらりとした体型に小さな顔。特徴的な大きい口と、ちょっと吊り上がった二重瞼の目をした朝陽は、はっきり言って美人だ。今はすっぴんに寝巻きみたいなジャージという姿だけど、だからこそ素材のよさがわかる。さらさらのセミロングの髪は去年くらいからちょっと赤みがかった色に染めていて、これがまた似合っているのだ。友達も多く、週末はいろんな人のお誘いを受けているようだった。
 小学校から高校まで同じ学校で、地方の高校を卒業後、二人して東京に出てきた。そして今は同じマンションの隣同士の部屋に住んでいる。
 お互いに合鍵を持っているので、今みたいに朝陽が私の部屋に来ることも、逆に私が朝陽の部屋に行くこともよくあった。私の部屋には自分用のベッドのほかに朝陽用の布団も置いてあるし、それは朝陽の部屋についても同様だった。
 ちなみに実家も隣同士だったから、お互いの部屋に遊びに行くことは昔からあった。友達というより姉妹みたいな感覚に近いだろう。同い年だから双子というほうが適切かもしれないけど、身長が160センチを超える朝陽と150センチに満たない私が並ぶととても双子には見えないので、やっぱり姉妹だと思う。もっとも私も朝陽も一人っ子だから、兄弟姉妹がいる感覚っていうのがよくわからないんだけど。
 まあそんな存在だから、朝陽の前ではすっぴんになるのも裸になるのも、今さら恥ずかしいとは思わない。もちろん朝陽は私のマスクの下の顔も知っているし、私も、朝陽と二人でいるときには何の抵抗もなくマスクを外せる。
 スーツをハンガーに掛けて、部屋着用のスウェットとパンツに着替える。マスクをゴミ箱に捨て、私はメイクを落とすため洗面所に向かった。
 鏡が私の素顔を映す。

 私の顔には生まれつき、赤黒い痣がある。
 場所は唇の少し右下、大きさは五百円玉くらい。何度も病院で診てもらったけど、はっきりした原因も治療法もわからない。メイクでもごまかせない。でも痛みやかゆみもないから、日常生活を送るうえではほとんど問題はない。まあ本当は痣ですらないんだけど、痣みたいに見えるから、便宜上「痣」と呼んでいる。
 マスクをしていればすっぽり覆い隠せるので、私は外出時には常にマスクを着用することにしている。
 加えて黒縁のメガネ。あえて大きめのものをかけることで、顔の印象を口元から少しでも逸らす。ちなみにメガネは伊達だ。
 そういえば世間では、風邪でも花粉でもないのに常に装着されているマスクのことを、「伊達マスク」なんて呼んだりもするんだっけ。
 さっきの模擬面接で言われたことを思い出す。マスクを着用しての接客は、この顔を晒しておこなうそれよりもイメージが悪いんだろうか。小さい頃から、素顔を見せるとバカにされたんだけど。

「よかった、夕凪も間に合ったね」
 リビングに戻ると、なんだかそわそわした様子で朝陽は私を見上げた。
「間に合った? 何が?」朝陽の隣に腰を下ろしながら尋ねる。
「《シーハイ》5週連続新曲アップロードの第1弾! 今日の6時ってシークさん言ってたじゃん!」
 朝陽がスマホの画面を私に見せてきた。
 そうだった、と私は思い出す。朝陽のスマホの画面に表示されている時刻を見ると、17時55分だった。あと5分だ。
《シークアンドハイド》、通称《シーハイ》。動画サイトを中心に活動する音楽ユニットで、シークとハイドという名の男性二人組、ということ以外は謎に包まれている。
 今日を皮切りに5週連続で新曲のミュージックビデオを公開する、と少し前に告知があった。
 朝陽はすでに《シーハイ》公式ユーチューブチャンネルとツイッターのタイムラインを交互に開いて待機しているようだった。
 せっかくだから一緒に見ようよ、という朝陽の提案に同意を示すと、朝陽は私にも聞こえるように、イヤフォンのプラグをスマホから外した。
《シーハイ》は、対照的な私たちの唯一ともいえる共通の話題だった。
「きた!」
 朝陽が言うや否や、私たちはスマホの画面に食いついた。
 午後6時。予告されていた時刻ちょうどに、《シークアンドハイド》の新曲が投稿された。


◆ 第2章 伊達マスク@はじめまして


《シークアンドハイド》は、ボーカル・作詞・動画のアニメーションやCGを担当するシークさんと、キーボード・作曲・編曲・その他ミックスやマスタリングなどの技術全般を手がけるハイドさんという、二人組音楽ユニットだ。先述のとおり、動画サイトを主な活動領域としている。
 楽曲の制作から動画のアップロードまで、ほぼすべて二人だけでおこなっている。制作が二人で完結してしまうから、新曲をリリースするペースがものすごく速い。1カ月も経てば次の曲がアップロードされているし、2カ月くらい間が空いたと思ったらアルバム1枚分の新曲を一気に発表したこともある。
 まれにメディア露出はあるものの、写真は加工されていることも多く、顔を出すときは二人とも常にマスクを着用している。一応、シークさんは茶髪に赤のメッシュ、ハイドさんは金髪に青のメッシュというのが一つのトレードマークとなっている。
 つまるところ、顔の下半分が見えない、もちろん本名もわからない、正体不明の二人組だ。
 しかしその音楽センスはずば抜けていて、5年前、初めて投稿された楽曲のミュージックビデオが瞬く間に100万再生を超え、一躍注目を集めた。翌年にはCDもリリースし、その後アニメやドラマの主題歌を手がけたことでさらにファンが増え、毎年ライブもおこなっている。
 ハイドさんの作る曲は、独創性あふれるデジタルサウンドが最大の特徴だ。ジャンルにとらわれない楽曲群には強烈な個性が滲み出ている。私はあまり詳しくないけど、編曲やマスタリングまで一人でこなしてしまうのは相当な技術らしい。
 シークさんの歌声はそのサウンドに埋もれることなく存在感を放つ。どんな曲も歌いこなすし、何より女性顔負けのハイトーンボイスはインパクト絶大だ。歌詞や映像に独特の世界観があり、これが《シーハイ》のよさだと語る人も多い。
 今回の新曲は、そんな《シーハイ》の王道ともいえる一曲だった。

「あぁ~~よき~~~~さいこぉ~~~~~~好きだこれ~~~~~~」
 朝陽がスマホを手に悶えている。それから、Bメロのこの詞と歌い方がとか、サビで入るシンセの音がとか、熱の込められた感想をツイッターに投稿していた。朝陽みたいに全身で感動を表現するような感受性は持ち合わせていないけど、私もおおむね同じ感想を抱いていた。
 ちなみに私はハイドさん推しで、朝陽はシークさん推しだ。こういうところも私たちらしくて、私は気に入っている。
 何度か繰り返し聴いたところで朝陽がイヤフォンで聴き始めたので、私もヘッドフォンを引っぱり出した。スマホのスピーカーから聴いていたときには気づかなかったリズムやコーラスに気づく。そういうことがあるのも《シーハイ》の曲の魅力の一つだと思っていて、だから何度でも聴いていたくなるのだ。
 正式に謳われているわけではないけど、この「5週連続投稿」は、一部のファンの間では《シークアンドハイド》活動5周年に向けたある種のプロジェクトではないかという声もあった。第1弾として発表されたのは、その説を裏づけるかのような曲という印象を受けた。
 デビュー当初から光り続けているハイドさんの天才的なセンスと先鋭的なサウンド。そして今回シークさんが書いた歌詞には、二人の出会いやこれまでの道のりを思わせるフレーズが散りばめられている。ある意味、原点回帰ともいえる気がした。
《シーハイ》のCDデビューの年が、私と朝陽が東京に出てきた年であることを思うと、ちょっと感慨深いものもあった。

   @

 初めて会ったとき、朝陽のことは「おとなりさん」程度の認識だった。
 4歳の頃、朝陽の家族が私の実家の隣に引っ越してきた。同い年の女の子がいる、とは聞いていたけど、当時は頻繁に遊ぶ仲ではなかった。

 あれは小学校2年生の頃だ。
 当時の私はまだマスクもメガネも使っていなかった。
 小学校に上がると、私は痣が理由でからかわれることがよくあった。
 あるとき、当時のクラスのやんちゃな男子グループの奴らが、私にちょっかいを出したり物を隠したりすることが続いた。小学校低学年だから今思えばかわいいものではあったけど、いじめといってもよかったかもしれない。
 その日、担任の先生が例の男子たちをこっぴどく叱りつけた。それだけならまだよかったものの、帰りの会で先生はみんなの前でこの件について話をしたのだ。西野さんはブスじゃありませんとか、どんな顔でも仲よくしなきゃダメですとか、そんなことを言っていたと思う。
 私は傷口に泥を塗られた気分になった。
 最終的には、私が教室の前に立たされて、私をいじめていた連中がみんなの前で私にゴメンナサイを言わされる、なんてことにまで発展した。
 こんなことをされても、私はちっとも嬉しくなかった。ここまでくると私までみんなの前で恥をかかされている気がして、一刻も早く終わってほしかった。
 そんな帰りの会が終わったあと、今度は私と先生が一対一で話をすることになった。
「西野さん、おうちの人に聞いたわ。それ、生まれつきのものなんでしょう? だったら堂々としてればいいの。その顔に生まれたこと、恥ずかしがることなんてない」
 そう言われて、なんだかすごくモヤモヤしたのを覚えている。たしかにその通りなんだけど、先生は私を慰めるために言ったんだろうけど。
 話を聞きながら、私はずっと泣いていた。
 先生の話から解放されて廊下に出ると、当時隣のクラスだった朝陽の姿があった。
「朝陽ちゃん」
「夕凪ちゃん」
 目が合って、私たちは同時に声を漏らした。
 痣だけでなく泣き腫らした顔まで見られて、私はつい目を逸らしてしまった。
 ほかのみんなはすでに帰ってしまったのか、教室の近くには私と朝陽以外は誰もいなかった。朝陽もこれから帰るところのようだった。
「夕凪ちゃん、あのさ」
 再び視線を向けると、朝陽は背負っていたランドセルを体の前に持ってきて、何やら中身を探っていた。
 これ、と朝陽が差し出したのは、包装された1枚のマスクだった。
「……マスク?」
「給食当番で使うから、持ってきてた。これは予備の1枚」
 意図をはかりかねて、私は朝陽が持っているマスクをじっと見ているしかできなかった。
「さっき、先生が話してるのが聞こえたんだけど」朝陽は私の口元の痣を指さした。「もしそれで困ってるなら、マスクしてれば気にならないかな、って」
 はっとなった。そうだ、隠してれば気にならないかも。そう思って、私は朝陽の手からマスクを受け取った。
 袋を開いて、マスクをつけてみる。
 守ってもらえた、と思った。
 男子にからかわれてクラスみんなの前で恥ずかしい目に遭わされて、敵だらけだと思っていた世界から、そっと守られたような、そんな感覚だった。
「ありがと、朝陽」
「どういたしまして」朝陽はランドセルを背負い直した。「じゃ、一緒に帰ろう、夕凪」
 朝陽が笑顔で差し出した手を、私は強く握った。
 泣いてばかりだった私は、ここでようやく笑えた気がした。
 その日、私たちは手をつないで家に帰った。いつもなら気になってしかたがない視線が、このときは気にならなかった。

 この日から、私はマスクを着用するようになった。
 翌年、私と朝陽は同じクラスになった。一緒に過ごす時間が増え、朝陽との距離が一気に縮まったと思う。余談だけど、小学校から高校まで、朝陽と同じクラスになったのはこの一年間だけだった。
 小学生の頃から朝陽は明るく人気者で、朝陽のまわりにはいつも人が集まっていた。
 私はというと、やっぱりどこか腫れもの扱いをされることが多く、はっきりと拒絶はされないけど暗に遠ざけられたり、どうしてアイツなんかが朝陽と一緒にいるんだ、みたいな感じで陰口を叩かれたりすることも往々にしてあった。
 だけど、そんなことを気にする様子もなく朝陽は私に接してくれた。それが嬉しかったし、誇らしかったし、何より安心させてくれた。
 学校が嫌になったこともあったけど、そんなときは朝陽の家に遊びに行った。ときにはお泊まりもさせてもらった。
 勉強を教え合ったおかげか、二人で同じ高校に合格することができた。
 これも余談だけど、高2くらいの頃に朝陽がオシャレに目覚め、小顔効果とか言って大きめのメガネを愛用していた時期があった。私が伊達メガネをかけるようになったのはその影響を受けてのものだ。ちなみに、今は朝陽はメガネをかけていない。
 さすがに高校を出たら離れるかな、とも思ったけど、二人とも東京の大学に進むとわかり、じゃあルームシェアしようよ、という話になった。
 ところが紹介される部屋が二人で住むには広すぎる物件ばかりで、しかたなく単身世帯用の物件を探すことになった。すると、たまたま見つけたマンションに運よく隣同士の空き部屋があったのだった。
 そうして、東京に二人で住み始めたのが4年前。
 私たちが《シーハイ》を知ったのもその年だった。


◆ 第3章 追憶@フェイスレス


   @

 実家では、私は毎日のように地獄絵図を見せられていた。
 父と母の両方が家にいれば、子供の前であろうとお構いなしに夫婦喧嘩が発生していた。そして片方しかいないときには、両親は私で日々の鬱憤を晴らしていた。自身の中の濁った感情を、それぞれ相手がいないときに娘に撒き散らしていたのだ。
 そのくせ二人して外面だけはよく、家の外では仲睦まじい夫婦を演じていたからタチが悪い。そんなふうに都合よく偽ろうとするから余計にストレスが溜まっていくんじゃないの、と私は冷めた目で見ていた。
 こんなふうにはなりたくない、と子供心に思うようになった。どうして言い争いをするんだろう。どうして我を押し通そうとするんだろう。どうして険悪な空気を漂わせてまで、一緒にいることを選ぶんだろう。
 揉めるくらいならこっちから先に引く。そうすればすべて丸く収まる。衝突なんて避けて、穏便に事を済ませるべき。それが世の中を渡っていく、賢いやり方なんじゃないの? そんな意識が、いつからか私の心には芽生えていた。
 彼らの話は、家のことや仕事のことから始まる場合が多かった。だけど熱が入ってくると、決まって母は父の、父は母の愚痴を語った。中でも気になったのは、父は母のことを「好き」と言っていて、母は父のことを「嫌い」と言っていたことだ。
 結婚は人生の墓場、という言葉はそのとおりだと確信したし、恋愛ってのは泥沼に足を突っ込むような行為でしかないんだな、と思った。
 娘が二十歳を過ぎてもなお妻のことを好きだと言っている父は、私が物心つく頃から家庭のことや自身の見た目はまったく顧みない。
 私が物心つく頃には夫が嫌いだと言っていた母は、娘が二十歳を過ぎてもなお愛人を作っては密かに会っている。
 父が家事や育児に無頓着だったからか、母は私に干渉してくることも多かった。顔に痣のある娘を産んでしまったことは少なからず気にしていたようで、「こんな顔に産んでごめんね」と口癖のように言っていた。
 まあそれについても、私への罪悪感より自身の世間体を気にしているような態度が透けて見えたけど、私は気づかないふりをしていた。
 小さい頃から、母はいろんな病院に私を連れて行った。母は、「生まれつきのものだからって放棄しないでよ!」とか「あんたが匙を投げたら誰がこの子の顔を治すのよ!」とか「あの薬効かないんだけどどういうこと!?」とか、病院の先生に向かって喚き散らしたこともあった。
 対して私は、やめてくれ、といつも思っていた。正直なところ、私はある程度の年齢になってからは痣が治ることなど諦めていた。
 どうせ原因はわからないし消える見込みもないから、マスクで隠すことができればそれでよかった。
 両親はどうしようもない人たちだった。父も母も、子供より自分優先という人だった。
 だから私は、手のかかる子にならないようにふるまうべきなのだと、いつからか当然のように受け入れていた。
 私は今、大学に行かせてもらえて東京で一人暮らしをさせてもらえて、朝陽とも一緒にいることができている。これはひとえに、私が「いい子」でいたからだと思っている。
 親との仲は決して良好ではなかったけど、衝突することもなかった。
 衝突を繰り返していたら、今みたいな環境にはいられなかったよね。

   @

 高校時代、私はどの科目も平均して点をとれるタイプだった。強いて言うなら数学が得意で、だけど理科は苦手。なので文系なのか理系なのか、自分でもよくわからなかった。とりあえず、つぶしが利くという理由だけで理系を選んでいた。
 大学受験で、私は第一志望だった東京の大学に落ちてしまった。進学先は、同じく東京ではあるけど、滑り止めで受けた私立大学だった。入学してから知ったけど、第一志望の大学とは偏差値にして10以上の差があったらしい。
 入学してすぐの頃は、住めば都ともいうし、なんて思っていたけど、すぐ耐えられなくなった。
 そこは数学科という学科で、私は数学は得意ではあったけど、学問として突き詰めたいとはまったく思わなかった。教科書には小難しいことが書いてあるわりにテストは難しくなかった。周囲の学生のレベルも正直言って低かった。授業は平気でサボるし、数学を極めたいと言いながら高校レベルの数学ができなかったりするし、県下有数の進学校に通っていた私はちょっとカルチャーショックを受けた気分になった。
 そんなわけで私は、ゴールデンウィークに入る頃には大学を受け直すことを決意していた。
 親からは最初は反対されたけど、最終的には許してもらえた。学費と家賃は、前の大学に通っていた頃から今も出してもらっている。いい子にしていた甲斐があったというものだ。
 学科の同期の女子数人とはそこそこ交流していたけど、深い友好関係は作らなかった。付き合いが悪いと思われたかもしれないけど、どうせ1年限りの仲だと割り切った。後期に入った頃からは仮面浪人していることも打ち明けた。
 家賃と学費は親に出してもらっていたので、必要最低限の生活費を稼げるバイトをするだけでよかった。極力楽に単位をとれる授業を選んで、サークルにも入らなければ意外と時間はあった。
 そうして翌年の春、第一志望としていた、つまり今通っている大学に、私は再び1年生として入学した。
 いわゆるリベラルアーツを売りにしている大学だった。文理の垣根を越えた幅広い分野の学問を学べるというものだ。始めはコンピュータの画像処理を学ぼうかな、なんて考えていた私だけど、ある授業がきっかけでコンピュータによる言語の処理にも興味が出てきた。そうこうしているうちに人間と機械の言語の認識方法の違いとか、そもそも人間はどうやって文章を理解しているのかとかも気になってきた。
 理系だったはずが気づいたら文系分野にも足を突っ込んでいて、研究室配属を考える頃になってもなかなか方向性が定まらなかった。
 聞こえのいい言葉に騙されていた。自由とは、曖昧の裏返しなのだ。
 よく言えば好奇心旺盛、悪く言えば優柔不断。要するに私は、専攻分野一つとっても、一貫性がなかった。

 そんなところも朝陽とは対照的だった。
 朝陽は、国語と英語が得意で理科と数学が苦手で、高校時代の進路選択の際も迷わず文系を選んでいた。
 そして高校に上がる頃にはすでに臨床心理士になるという夢をもっていた。今でもそれは変わっていない。その資格を得るには大学院を修了することが必須らしく、現在朝陽が大学院に通っているのもこういった明確な理由があるのだ。
 対照的といえば、生まれ育った環境についてもそうだ。
 朝陽の家は、私にとって理想ともいえる家庭だった。
 朝陽のお母さんはいつも自然体で、それでいて朝陽に負けず劣らず整った目鼻立ちと明るい性格をしていた。お父さんはそんな奥さんと娘に振り回されつつも優しく受け止めていた。父親が家事に協力的なのは、私には衝撃的ですらあった。朝陽は毎年誕生日を祝ってもらっていたし、夏休みには家族旅行にも出かけていた。
 朝陽の両親は、私のことも実の娘のように面倒を見てくれた。朝陽の家に遊びに行けばいつもよくしてくれたし、顔の痣について嫌な反応をされたこともない。うちの両親には口が裂けても言えないけど、朝陽の家のほうが居心地がよかった。
 ほかの家庭を知らなかったら、私の両親はいわゆる普通の親で、自分の家は標準的なものだったと信じていたに違いない。
 私が自分の家庭を、ひいては自分自身をちょっとおかしいと思うようになったのは、たぶん幼い頃から朝陽の家も知ってしまっていたからだ。


◆ 第4章 色恋@レジスタンス


 4月に入った。まだ春休み期間ではあるけど、私は就活をしていた。
 とある企業で、適性テストからの面接という長丁場を終えて外に出ると、薄暗闇が私を迎えた。帰宅ラッシュの時間帯になっていた。夜風は冷たくて、まだトレンチコートはクリーニングに出せそうになかった。
 マスクをつける。肩の力が抜けたと同時に、ため息が出た。
 テストでも面接でもそうだけど、受ければ受けるほど、そもそも私には社会でやっていける適性があるのかな? というレベルから疑わしくなってくる。
 私は「したい」よりも「したくない」で動く。「なりたい」よりも「なりたくない」に左右される。
 だから、「絶対に嫌だ」とか「めちゃくちゃ自分に合わない」と感じる企業でさえなければわりとどこでもいい、というのが本音だった。
「何をしたいか」「どうしてここを選んだか」という前向きな姿勢を求められる就職活動というイベントは、根本的に私とは相性が悪いのだ。
 私はどうして仮面浪人をしたんだろう、と今になって考える。あの頃、周囲には「やっぱりあの大学に行きたいから」と言って聞かせた。そのときはほとんど迷いなんてなかったはずだった。
 だけど根底にあったのは「この大学に行きたくない」という気持ちだったのだ。この人たちと一緒にいたくない、こんなことを勉強したいわけじゃない、ここは私のいるべき場所じゃない。私を突き動かしていたのは、そんな否定的な感情だった。大学で学んだ先にどんな進路があってどんな大人になりたいかなんて、考えたこともなかった。
 受験し直したことを後悔はしていない。だけど、もっと目的意識をもっていればよかったかな、という後悔は、ないと言ったら嘘になる。
 面接は自分がどんな人間かを企業に知ってもらう機会、などと言い聞かせられたけど、実際に何度か経験してわかった。
 西野夕凪という人間の構成要素が書かれたカードの、どれを見せてどれを隠しておくか。その見せ方がうまくハマれば勝ち、ハマらなかったら負け。そして、面接をする企業側にも同じことが言える。社内の雰囲気や面接官の印象で会社を選ぶ権利が、学生の側にはあるのだ。
 面接って、そんな駆け引きだ。

 頭の中でぼやきつつ歩いていたら、見覚えのない桜並木の道に来ていた。どうやら行きのときと違う道に出てしまったらしい。私はスマホを取り出し、グーグルマップを立ち上げた。
 東京の桜は今が見頃だった。時期が時期なので、新入社員らしき姿も目立つ。彼らにはこの桜はお似合いだろうな、なんて思ったけど、画面の地図を見ながら人波を縫っていく私に、ゆっくり桜を眺めている余裕はなかった。
 ギリギリ渡れるかな、と思って小走りで近づいた横断歩道は、直前で信号が赤に変わってしまった。しかたなく立ち止まる。
 ふと横を見ると、夜桜の下で若い男女のカップルがキスをしていた。
 おいおい公衆の面前だぞ、って顔をしかめてしまう。こんな光景を見てロマンチックだと感じるような心は、とうの昔に捨て去ってしまった。いや、もとから持っていなかったかもしれない。
 私はキスというものをしたことがない。というか、恋愛というもの自体、経験がない。生まれ育った家庭環境のせいか恋愛にあまりいい印象がないし、第一、こんな顔だからしょうがないよね、と思っていた。
 この歳になって恋愛したことないのはヤバいよ、って言われたこともあるけど、そんな危機感だけで恋愛に対する悪いイメージを払拭できそうになかったし、泥沼に足を突っ込んでまで彼氏なんて作りたくなかった。
 そんなことを考えていると、左斜め上のあたりから視線を感じた。
 そちらに顔を向けると、スーツ姿の青年と目が合った。
「西野? 西野夕凪だよな?」
「えっと……」
 見たことある気がしたけど、すぐには思い出せなかった。
「俺だよ、南耀太(みなみようた)。高1のとき同じクラスだった」
 みなみ、ようた。私は記憶を掘り返してみた。
 数秒ののち、脳内検索がヒットした。高校時代に茶色く染めていた髪を今は黒くしているけど、顔そのものはほとんど変わっていなかった。男子としては平均的な身長で、スクールカースト的にも真ん中くらいにいた優男、という印象で頭に残っていた。
「あぁ、思い出した。南くんか。うん、私、西野夕凪」
「やっぱり! 久しぶり! いやー変わってないな!」
 マスクで顔が半分隠れているのによくわかったな、って思ったけど、私は高校時代から(というかもっと前から)このスタイルだった。
 信号が青になり、私と南くんは同じ方向に歩き出した。彼もどうやら私と同じ駅に向かっているようだ。
「西野も会社帰り?」
 南くんに訊かれて一瞬戸惑う。そっか、本来なら社会人1年目をやっている学年だし、今はスーツだから新入社員に見えなくもないか。
「いや、4年生。今日はたまたま就活で」
「あれ? 西野って浪人してたのか?」
 ちょっと返答に迷ったけど、正直に答えることにした。
「……仮面浪人ってやつをね。まあ、いろいろあって」
「仮面浪人かー。いろいろってどんなことだよ? てか、どこ大からどこ大に行ったんだよ?」
 南くんは案外めんどくさい奴かもしれない。そう思いながらも顔には出さず、私は以前通っていた大学と今通っている大学を答えた。
 高校時代、彼は女子とはあまり積極的に話すタイプではなかったと記憶している。少なくとも私は一度もまともに話したことがなかった。
 とはいえ悪い奴ではなかったと思うし、信用はできる気がした。
 何より、彼は朝陽と仲がよかった。
 類は友を呼ぶ、とはよく言ったもので、私のまわりには、恋愛なんて興味ないとか、趣味に生きたいからずっと独り身がいいとか、そんな子が多かった。彼氏持ちなんて少数派だった。
 朝陽についてもそうで、男女問わず友達が多かったわりに恋愛関係の話はほとんど聞かなかった。ツイッターとかでも、恋愛なんぞには興味がないという旨の投稿をときどきしている。
 そんな朝陽にも一時、付き合っているらしい、という噂が立ったことがあって、その相手がこの南耀太だった。
 たしかに仲がよかったのは事実で、私も、朝陽と南くんが一緒にいるところはたびたび見かけた。もっとも、朝陽本人は付き合っていることを否定していたけど。

 話しながら歩いていたら駅に着いていた。ここから20分ほど電車に揺られた先が私の家の最寄り駅だ。南くんが降りるのはさらにその二つ向こうの駅らしい。
 向かう方面が同じだったので、電車に乗ってからも会話は続いた。
 車内はすでに混雑していて、私たちは車両の片隅に追いやられた。私が壁に背中を預け、南くんが目の前に立つ。身長差が大きいせいで、私は劇場の最前列で映画を観るときみたいに見上げる形になった。
 南くんは地元の大学に進んで、この春に卒業。4月から就職して東京に住み始めたという。勤め先がさっきの駅の近くなんだそうだ。
 私は、大学進学と同時に上京、仮面浪人したあと今の大学に進んで、まだ春休みだけど今日は就活、来週から大学4年生としてのスタートを切る、というところまで話した。朝陽のことは、向こうから言及されなかったので伏せておくことにした。
 私が降りる一つ手前の駅で、また人がたくさん乗ってきた。
 人混みに押された南くんが、私の背後の壁に手をつく。彼がさらに私に近づく形になった。
 電車が発進したとき、唐突に「あのさ、西野」と、南くんが急に改まった話しぶりになった。
「久しぶりに会って、こんなこと言うのもあれだけど……」声のトーンを落とし、そして意を決したように彼は続けた。「俺、西野のこと好きだった。付き合ってください」
「…………は?」
 思わず声をあげてしまった。
 え? どういうこと? 何言ってんの? 告白? ちょっと待って? ってかここ満員電車の中だよ?
「……あ、いきなり言われても、戸惑うよな。悪い」
 何を言ったらいいかわからず、気まずい空気が流れる。
 次の停車駅を告げるアナウンスが流れた頃、南くんが再び口を開いた。
「だけど、もしよかったら、考えてくれないか?」
 真剣な表情をしていた。朝陽の友人でもある手前、無下に断るのも申し訳ない気がした。
「……じゃあ、友達から」
「わかった。それでもいい。ありがとな、西野」
 電車が私の降りる駅に着いた。
 結局この日はラインで友だち同士になったところで、私が一方的に電車を降りた。

 電車を降り、外の空気を浴びて気持ちを落ち着ける。
 戸惑い、驚き、恐怖、不安。人生初の告白を受けた私には、そんな感情が渦巻いていた。嬉しいとか幸せだとかいう気持ちとは異なるものだった。
 かつてのクラスメイト。悪い奴じゃない。朝陽とも仲よくしていた。
 だけどOKは出せなかった。出していいのかわからなかった。
 恋愛ができるのも、そもそも恋愛をしたいと思えるのも、一種の才能か権利か運か、何か特別なものが必要なんじゃない? そんな考えが頭に浮かんだ。
 でもきっと逆。恋愛に特別なものが必要なんじゃない。
 普通の人が持っているものを、私が持っていないのだ。


◆ 第5章 ともだち@クエスチョンマーク


「付き合ってくれてありがとね、夕凪ちゃん」
「いえ。誘ってくださってありがとうございます。こうして北園(きたぞの)さんとお会いするのも久しぶりですね」
 壁際のテーブル席に腰を落ち着け、私たちは改めて挨拶を交わした。
 私のバイト先の先輩、北園みずきさんおすすめのカフェ。白を基調とした装いの店内に木製の四角いテーブルが並んでいて、カジュアルながらも賑やかすぎない雰囲気だ。これまでにも何度か連れて行ってもらったことがあって、私も気に入っている。軽くお茶したいときにもがっつり食べたいときにも使えるのがありがたい。
 北園さんは優しげなたれ目が特徴的な小柄な人で、たしか今年で30歳と言っていたけど、実年齢よりいくぶん若く見える。でも穏やかな口調や飾り気のない服装からは、年齢以上に大人の女性を感じさせる。
 就活を理由に、私は3月からバイトのシフトを空けてもらっていた。北園さんをはじめバイト先の人としばらく会っていなかったところ、私は北園さんから夕食のお誘いを受けたのだった。4月も中旬に差しかかったから、1カ月半ほど会っていなかったことになる。
 北園さんには、私が今のバイトを始めたときからお世話になっている。人脈の狭い私にとっては数少ない相談相手だった。
 顔の痣のことも、仮面浪人していたことも、朝陽という幼なじみと隣同士の部屋に住んでいることも、北園さんには抵抗なく話せた。
「就活はどう? どういうとこ受けてるの?」と北園さん。
「いろいろですね。でも、これっていうのがまだ見つからない感じです」見栄を張るような場でもないので、私は思うままの感触を述べた。「私、まだ自分が何したいかとか、はっきり見えてなくて……。志望動機とか、会社に入ってやりたいこととか、何て言えばいいのかなって、いつも悩むんです」
「夕凪ちゃんはいろんなことができるでしょう? できることはいっぱいあったほうがいいわ。使い方と組み合わせ方次第で、唯一無二の武器になる」
 たとえば、私は大学で映画研究会というサークルに入っていて、脚本を書いたりカメラを回したりしていた。授業では学部や専攻の垣根を越えた幅広い分野の授業をとってきた。さらに、それらとは別に個人的にイラストやマンガを描いたりコスプレをやったりなんかもしていて、それぞれ専用のSNSアカウントもあったりする。
 幸運にも、趣味や特技と呼べる「できること」はそれなりにあった。
 不幸にも、食べていけるレベルの「できること」は一つもなかった。
 やりたいことが見つからないんじゃない。やりたいことを定められないのだ。
「……なんか、複雑です。能力あるのに落とされるっていうのは」
「夕凪ちゃんが悪いわけじゃないわ」北園さんが励ますように言う。「個人の性格や能力は多様化してるのに、社会がそれに追いつけてないのよ。身も蓋もない言い方をしちゃえば、会社との相性だってある。夕凪ちゃんは自信もっていいわ。夕凪ちゃんを認めてくれる人も、きっといるはずよ」
 北園さんを責める気はまったくない。だけど、いくら能力があろうと多様性が認められようと、結局は自分が所持しているカードの見せ方なんだ。そう思ってしまう。
 飲み物が先に運ばれてきた。私はホットの紅茶、北園さんはホットのコーヒーだった。
 マスクを外し、紅茶に一口つけてから、私は北園さんに尋ねた。
「北園さんのときは就活どうでした?」
 すると北園さんは少しためらいがちに目を伏せた。
「……私はね、就活しなかったの」
「しなかった?」
 私の問いに、ゆっくりと頷く北園さん。
「私はもともと体弱くて、正社員で毎日働くのはできないと思ってた。大学出たら、先輩に紹介してもらった会社にアルバイトで入って、そこからいくつか会社を転々としたけど、正社員の経験はないのよ。だから、ちゃんと就活してる夕凪ちゃんは立派だし、私には眩しくも見える」
 ここで食事が運ばれてきて、会話が一区切りとなった。
 目の前に置かれたオムライスプレートを私がスマホのカメラに収めていると、北園さんが再び口を開いた。
「それでね、今日はこれが言いたかったんだけど、私、今の仕事辞めることになったの」
「えっ?」
 スプーンを持とうとした手が思わず止まった。北園さんが話を続ける。
「今月いっぱいでね。もう社員さんには伝えてあるし、バイトさんにも、シフトが重なった人には言ってる。夕凪ちゃんとはこのところ会えてなかったから、伝えられなかったのよね」
 社員さんよりも深くお世話になっている北園さんがいなくなってしまうことは、少なからずショックだった。理由を尋ねようとしたけど、こちらから触れないほうがいいような気もした。
「どうして? って顔してるわね」私の心境を察したかのように、北園さんが口角を上げた。「理由を言うとね、体調を崩したから。実は夕凪ちゃんが就活でお休みしてた間、私もずっと休んでたの。それで、主治医とも相談したんだけど、ちょっとこの先続けていくのは厳しいかもしれないってなってね」
「そうだったんですか……」
「大丈夫よ、夕凪ちゃんが心配するようなほどじゃないから。今までありがとう。お世話になりました」
 北園さんが頭を下げた。「いえ、こちらこそ」と私もお辞儀をする。
「しばらくは専業主婦になろうと思ってるわ。旦那にも許可はもらってる」
 旦那という単語に、いつになく反応してしまう自分がいた。
 恋愛とか結婚なんて、いつもなら他人事だと思って聞き流していただろう。なのに先日の一件があったからか、今日に限って私は、南耀太のことを思い浮かべていた。
「……あの、北園さん。ちょっと相談なんですけど」
「どうしたの?」
「私この前、高校の同級生に告白されました」
 あら、とささやかな興味を示し、北園さんはコーヒーを口に運んだ。
 目を輝かせて飛びついてくるような人じゃなくてよかった。私は言葉を続けた。
「でも、なんというか……。迷いとか、恐怖のほうが強かったです。なんでしょう、ストレートに喜べなかったというか……」
「そう」北園さんはコーヒーカップを置いた。「夕凪ちゃん的には、その子のことはどう思ってるの?」
「高校時代、私は彼とほとんど話したことがなかったんです。むしろ朝陽と仲がよくて。ずっと好きだったって言われたんですけど、なんで? って思いました。私も、たぶん悪い奴じゃないとは思ってるんですけど」
「いつ、なんで夕凪ちゃんを好きになったのかは訊いていない?」
「あ、そこは訊いてなかったです。テンパっちゃってて……」
「じゃあ、夕凪ちゃんはどうしたい?」
 冷静に尋ねられて、私は首をかしげてしまう。私は「したい」よりも「したくない」で動く人間なのだ。
「とっても、わからないわよね」フォローを入れてくれる北園さん。だいぶ私の性格をわかっているらしい。
「断るのもなんか悪い気がするんですけど、付き合いたいかっていうと、ちょっと微妙で……」
「この前会ったときには、何て返したの?」
「……一応、友達から始めよう、って言いました」
「いいんじゃないかしら」北園さんは優しく微笑んだ。「悪い人ではないと思うなら、少しずつ近寄ってみたらいい。お互いの理解を深めることが第一よ。わかり合える相手だといいわね」
「はい。ありがとうございます」
 私が言うと、北園さんは一転して真剣な表情を見せた。
「でもダメだと思ったら、はっきりと断るのも大事」
 北園さんはたしか、大学を出た翌年に結婚している。旦那さんはものわかりのいい人で、今も夫婦仲は順調らしい。この旦那さんに出会うまで、北園さんはどんな恋愛遍歴を重ねてきたんだろうか。私と違って学生時代からいくつも交際を経験して、その先に今があるんだろうか。
 そして曖昧に物事を済ませがちな私は、いざというときに南くんをきっぱりと見限ることができるだろうか。
 ふいに沸き上がった疑問や不安を、私はぬるくなった紅茶と一緒に飲み込んだ。
「朝陽ちゃんといえば」北園さんはいつもの柔和な顔に戻っていた。「あの子は元気にしてる?」
 こうして北園さんと二人で話をするときは、朝陽の話題になることも多かった。私と朝陽と北園さんの3人で食事をしたこともあるくらいだ。
「ええ。変わらず元気にしてます」
「大学院に行ったんだっけ」
「はい。入学早々ゼミとかレポートとかで、何かと忙しそうにしてます。そのうち実習なんかもあるみたいで」
「そう。朝陽ちゃんと仲よくね」
 仲よく。そう言われて、ふと疑念が浮かんだ。
 私は朝陽に対して、あえて仲よくしたいとか好かれたいということは考えたことがなかった。
 よくよく考えてみたら、私たちは普段どんなことを話しているだろう。あぁ、この前《シーハイ》の話をしたな。《シーハイ》の話はよくする。でもそれは私たちが大学に進んでからのことで、じゃあ高校までは何を話していたっけ。
「したくない」「なりたくない」で動く私は、当たり前のように「嫌われたくない」とも常に思っていた。そのために「いい子」を演じるのは苦ではなかった。
 嫌われなければそれでよかった。朝陽に対してもそうだった。
 それじゃダメだったの? もっと積極的に話したほうがいいの?
 私の脳裏に、幼い頃のかくれんぼの記憶がフラッシュバックした。
 ──あぁそうだ、朝陽も私から離れていっちゃうかもしれないんだ。

   @

 その日、冷蔵庫の食材や飲み物のストックを補充しに近所のスーパーに寄ったら、朝陽もちょうどその店にいた。
 朝陽もご飯の買い出しに来ているようだった。私は野菜や肉や調味料とかがメイン、朝陽は冷凍食品や出来合いのお惣菜やカップ麺といった既製品がメインだ。こういうところにも私たちの性格が出る。
 数日前に南くんに会ったことを、朝陽にまだ話していなかったことに気がついた。隠すようなことじゃないだろう。というか、朝陽には言っておくべきだろう。
「そういえばこの前、南くんと会ったよ。ほら、あの南耀太」
「アイツと? なんでまた?」
「就活の帰りに、偶然ばったり。南くん、就職して東京来てるんだって」
「へぇ、アイツも東京に。……そっか」
 おや、と思った。高校時代の友人の話だからもっと食いついてくるかと思ったら、妙に反応が薄い。
「そうだ夕凪、これ先週買ってみたんだけど、めっちゃおいしいんだよ!」
 朝陽は持っていた買い物カゴからレトルトのハンバーグを取り出した。
 わざと話題を変えているようにも見えた。
「またそんなのばっかり」苦笑いして、ひとまず朝陽に会話を合わせることにする。「もっとちゃんとしたごはん食べなよね」
「いやレンチンだけであのおいしさが味わえるのは神だよ? ってか、あたしのキッチンの惨状知ってるでしょ?」
「自覚あるなら片づけなよ」
「料理できなくてもおいしいものが食べられちゃうシステムに問題があるんすよ夕凪さん。いやぁレトルトとか冷食とか、ほんとズボラ女子の強い味方だわー」
 容姿端麗で、教養があって、友達も多い。そんな朝陽の唯一ともいえる欠点は、家事が壊滅的にダメなことだった。いわゆる残念な美人というやつなのだ。
 一方で私は、家庭に無頓着な両親の間に生まれたせいか、掃除から洗濯から料理から、家事全般をひととおりこなせる子に育っていた。
 私たちはとりとめのない会話をしつつ、ほしいものを自分の買い物カゴに入れていった。
「あ、そうだ」レジに並んでいるときにもう一度、私は思い出したように切り出した。「南くんとライン交換して、今度また会えないかって誘われたんだけど」
 続けて、「朝陽も一緒にどう?」と、ちょっと鎌をかけてみる。
「……あ、いや、あたしは別にいい」
 やっぱり、どこかぎこちない。朝陽は動揺とか緊張とか、そういう言葉とは縁がないタイプのはずだ。そんな朝陽の表情がこわばっていたのを、私は見逃さなかった。
「それより、月末のオフ会、夕凪も来れるよね?」
 朝陽が南くんの話題を避けようとしているのは明らかだった。
 気がかりではあるけど、経験上、こういうときは深掘りするべきではないこともわかっていた。
「大丈夫。その日は予定空けてるよ」


◆ 第6章 顔合わせ@マスカレード


 周囲になじめないという感覚が昔からあった。
 世間の流行に乗ることができなかった。みんなが好きになるものを、私は好きになれなかった。
《シークアンドハイド》という音楽ユニットは、実のところ世間の人にはあまり知られていない。動画再生回数は累計で億を超えるし、CDが出ればオリコンのトップテンに入るけど、それが世間の知名度とイコールではないのが現代だ。
 朝陽以外の友達からの反応は、だいたいが「知らない」、ときどき「名前は聞いたことある」、よくて「○○の主題歌だったあの曲なら知ってる」という程度。朝陽は普段からオープンなんだけど、私なんかは《シーハイ》の話をすることに遠慮がちになってしまうこともある。
 だからこそ、ファン同士で集まれる場はありがたい。心置きなく《シーハイ》について話せる。

「えー、本日は、この《鬼》オフ会に参加していただき、誠にありがとうございまーす!」
 全員にドリンクが行き渡ったことを確認すると、幹事の《八王女》さんが声を張り上げる。
 私と朝陽は《シークアンドハイド》ファンによるオフ会に来ていた。
 要するに、SNSなどで知り合ったファン同士が実際に顔を合わせて交流を深める場だ。といっても今回は、とあるダイニングバーのテーブルを6人で囲むという小規模なものだった。
 主催の《八王女》さんと朝陽が知り合いで、私は朝陽に声をかけられて参加を決めた。
 参加者はそれぞれ、自分のハンドルネームを書いた名札を首から下げていた。この名札は《八王女》さんが自ら用意してくれたものらしい。ちなみに私は《なぎ》、朝陽は《あさひ》となっている。
《シークアンドハイド》というユニット名は、いうまでもなく「かくれんぼ」を意味する「ハイドアンドシーク」という英語から来ている。かくれんぼにちなんで、《シーハイ》界隈では彼らのファンは通称《鬼》と呼ばれているのだ。
 私の個人的な印象だけど、《鬼》の男女比はだいたい2:8くらいで女性が多い。今日集まっている6人は全員女性だった。
「《える》です。中学生です! よろしくお願いします!」
 純粋な瞳を輝かせて、《える》ちゃんが元気に自己紹介をする。
「《える》の母です。《マチ子》っていいます」
「ママ、来なくていいって言ったのに」
「アンタ一人じゃ心配だからよ」
 私の真向かいの席、《える》ちゃんの隣に座っているのは、彼女の母親の《マチ子》さん。上品な女性で、活発そうな《える》ちゃんとは対照的だけど、仲は悪くなさそうだった。
「いやぁ、お母さんまですみません」
《える》ちゃんの隣でそう会釈するのは、さっき乾杯の音頭をとっていた《八王女》さんだ。本人いわく、「お察しのとおり八王子在住、婚活中のアラサーOL」だそうだ。

 私は昔から、率先して話しかけるタイプではなかった。だけどそれは、決して他人に興味がなかったからじゃない。
 他人への関心や好意を、どう表現すればいいのかがわからないのだ。
 たとえるなら、金魚鉢の中から外の世界を見ているような感覚だ。私はガラスの向こうで楽しそうに暮らす人間たちを眺めることはできるけど、金魚鉢の外に出て彼らと交流することはできない。ただ眺めているだけなので、傍から見たら無関心だと思われることもある。
 そんな私は、たまに聞く会話から断片的な情報を拾い集めて、少しずつその人のことがわかっていく過程を楽しんでいた。
 これは他人から私に接してほしい距離感でもあった。私自身、見られはしたいけど過度な干渉はしてほしくない。
 だから「あなたのことを教えてください」と言わんばかりのオーラがすごく苦手だった。初対面の人ばかりの合コンに一度だけ連れて行かれたことがあるけど、拷問みたいな気分だった。
 その点、このオフ会は気が楽だった。SNSで明かしている以上のことは詮索されない。《鬼》という共通項があるから、口数が少なくても仲間意識が生まれてしまうのだ。
「《マチ子》さん~! 私もオフ会に連れてってくれるような娘がほしいです~! まずどんな旦那つかまえればいいですか!?」
「旦那には期待しないほうがいいですよ。私は、趣味を理解してもらうのは早々に諦めたわ」
「なるほどー! 参考になります!」
 そんな会話を繰り広げている《八王女》さんと《マチ子》さんの間で、《える》ちゃんが身を乗り出してきた。
「《あさひ》さん、会いたかったです!」
「あたしも!《える》ちゃんやっと会えた~!」
 向かいの席同士の朝陽と《える》ちゃんが握手を交わす。
「ツイッターとテンション変わんないのでびっくりしました!」
「よく言われる」ドヤ顔の朝陽。どうやら《える》ちゃんとはネットではつながっていたらしい。
 裏表のない性格の朝陽のことは、正直尊敬する。私はつい猫をかぶってしまうことが多いから。
「この前の新曲アップされたとき、また《あさひ》さんツイッターで昇天してましたよね」
「ここんとこ毎週神曲が降臨するから心臓がもたんわ!」
「同じく」朝陽の右隣の《らびおり》ちゃんが割り込んできた。「致死量の劇薬を耳からぶち込まれる感じ。あんなの命がいくつあっても足りない。あと最近何気に増えてるシークの自撮りの尊みが深すぎる。かわいすぎる。我々を殺しにきてる。確信犯」
《らびおり》ちゃんは朝陽を通じて知り合った女子大生で、朝陽を除くと唯一面識のある参加者だった。本名は知らない。ツイッターなんかではいつも賑やかなんだけど、実際は表情をあまり変えず小声で淡々と語るタイプのようだ。まあ《シーハイ》への愛はダダ漏れだけど。
「あ、《らびおり》さん《なぎ》さん初めまして! ツイッター、あとでフォローしてもいいですか?」
《える》ちゃんが私たちにも挨拶をしてくれた。
「どうぞどうぞ」さっそくスマホを取り出す《らびおり》ちゃん。
「いいよ」と私も了承する。
 こういうところでは、不思議とためらわない。朝陽の知り合いなら問題ない、という安心感もあるんだろう。

 運ばれてくるコースメニューに手をつけるのもほどほどに、私たちは会話を弾ませた。ドリンクは飲み放題だったので、《八王女》さんと《らびおり》ちゃんは次から次へとお酒を注文しては飲んでいた。未成年の《える》ちゃん、車で来たという《マチ子》さん、アルコール類がまったく飲めない私と朝陽はソフトドリンクを頼んでいた。
「──でさ、好きな芸能人の話題になったんだけど、最近の芸能人とか全然知らないじゃん? しかたなく『《シークアンドハイド》のシークが好きです』って言ったら、『こういう人がタイプなの?』って言われたんだけど、ちげぇんだよ~そういうことじゃねぇんだよぉ~~~」
 お酒が入り、酔っぱらい気味で語る《八王女》さん。
「わかります! 超わかる! てめぇの恋愛観で語るなって感じですよね!」と朝陽。お酒が入っていないのに飲み会のテンションについていけるのは、持ち前の明るさによるものだろう。
「シークは中身がシークだからいいのであって外見だけシークでも中身がシークじゃなかったら無理」早口で語る《らびおり》ちゃん。
「でもわたしはシーク様みたいな見た目の人、どストライクです!」
 力強く主張する《える》ちゃんの頬を、《八王女》さんがつつく。
「お、もしかして《える》ちゃん、シークガチ恋勢?」
「はいっ! シーク様ガチ恋です! 高校入ったらバイトします! シーク様に貢ぎます!」
「いいねぇ~その『推しのATMになります』精神! お母さん、この子将来有望っすよ!」
「だったら勉強もちゃんとやりなさい。おこづかいは増やさないわよ」
「わかってるよママ。今でもちゃんとやってるでしょ」唇を尖らせる《える》ちゃん。
《八王女》さんが、今度は私たちのほうに体を向ける。
「《あさひ》ちゃんたちはどうなのよ? 大学生でしょ? 何か浮ついた話の一つや二つないの?」
「あたしですか? あたしは恋愛なんて諦めてますよ」即答する朝陽。
「……オタクしてれば恋愛いらない」
《らびおり》ちゃんのボソッとした発言に、場が一気に盛り上がる。
「あ~もうホントそれ!《らびおり》氏、よく言った!」朝陽が手を叩いて笑う。
「ですよね! わたし、今さら同年代の男子に興味もてないです!」握りこぶしを作って同意する《える》ちゃん。
「はっはは~!」《八王女》さんは背もたれに体を預け、天を仰いだ。「もう結婚とか諦めよっかなぁ~~~」
 恋愛と聞くと、私の頭にはやっぱり南くんのことがちらついてしまう。だけどここで彼絡みの話をするのは、さすがに場違いというものだろう。
 盛り上がる4人を見て呆気にとられていると、《マチ子》さんも同じように呆気にとられていた。
「ところで《なぎ》さんは、何がきっかけで《シーハイ》を知ったんですか?」
 私の様子に気づいたのか、《マチ子》さんが話題を提供してくれた。
「ファーストシングルです。最初、試聴でサビだけ聴いて、一目惚れっていうか、一耳惚れっていう感じでした」
《シーハイ》の1枚目のシングルは、とあるアニメの主題歌に起用された。アニメの放送が始まる少し前、私は原作者の、朝陽は出演する声優さんのツイッターから、主題歌とそれを手がける《シークアンドハイド》というユニットを知った。
「きっかけは違うんですけど、私も朝陽も同じタイミングで《シーハイ》を知って、ハマったんです」
 名前を出されたことに反応したのか、朝陽が横から会話に入ってきた。
「それ以来、新曲が出たらあたしたち二人で一緒に聴いたり、一緒にライブに行ったりしてるんです」
 初めて《シーハイ》の曲を聴いたときの衝撃は忘れられない。それはきっと朝陽も同じだろう。
「《なぎ》さんと《あさひ》さん、仲いいんですね」
《マチ子》さんが穏やかに笑った。
 先日の北園さんの会話がふいに思い出され、私は一瞬言葉に詰まった。
 けれど朝陽が即答した。
「いいですよ! もう家族同然の仲ですからね」
 朝陽が私の肩に手を回した。迷いを微塵も感じさせない口調だった。
 私はほっとして、「20年近い付き合いなんで」と補足した。
 こういうとき、マスクで表情が悟られにくいのは意外と便利かもしれない。

 お開きが近づいてきた頃、《八王女》さんが思い出したように言った。
「そういや、あれ今日だったよね。0時にお知らせってやつ」
 それは先日、《シーハイ》の「5週連続新曲アップロード」の5曲目が投稿されたときのことだ。
 曲と同時に、「4月28日0時にお知らせがあります」という告知があったのだ。
 それはまさに、今日から明日に日付が変わった瞬間。つまり数時間後のことだった。
「ですよね。なんだろ、CDリリースかな?」と言う朝陽に、「あー、5曲まとめたEPでも出すとか? あるかも」と《八王女》さん。
「何かの主題歌決まったとかは?」と《らびおり》ちゃん。
「ライブは? そろそろ告知あってもいい頃じゃない?」と私。
 すると、「でも」と首をかしげる《える》ちゃん。
「わざわざ改まって『お知らせをします』っていうお知らせなんてするでしょうか?」
 言われてみれば、それもそうだ。朝陽も《らびおり》ちゃんも《八王女》さんも同様の反応を示した。
「今までそんなことなかったですよね? CDとか主題歌とかなら、曲と一緒に発表してしまえばいいじゃないですか。これはママとも話したんですけど……」
 母親をちらりと見る《える》ちゃん。彼女の言葉の続きを《マチ子》さんが述べた。
「娘が言うには、何かもっと重要なことなんじゃないかって」

   @

 オフ会のあと、私は朝陽の部屋へ行くことにした。24時にあるという《シーハイ》の告知も朝陽の部屋で一緒に見てしまおうと思っていた。
 ……なんだけど。
「うえぇ……これ最後に掃除したのいつ?」
 玄関を一歩上がった瞬間、目に飛び込んできた光景に眉をひそめた。
 廊下の隅にはゴミが溜まっているし、キッチンではガスコンロが物置きと化しているし、そもそも足の踏み場が少ない。私の部屋と同じ間取りとは思えないレベルだ。……まあ、こんなもんだとは思ってたけど。
「いつだったっけ」悪びれる様子もなく朝陽は答え、私を部屋の中に招き入れる。「たぶん、前に夕凪が掃除してくれたとき」
「それ3月の頭とかじゃなかったっけ?」
「まだ2カ月経ってないじゃん。大丈夫大丈夫」
「大丈夫じゃない! ほら掃除!」
 一人暮らしを始める前から私たちはこんな調子だから、今さら苦痛になんて思わない。私としては自分の部屋を片づけるのと感覚的にさほど変わらなかったし、朝陽だって、掃除してと言えばやや雑ではあるけど掃除してくれる。
 それに朝陽は、自分の部屋はとことん散らかすくせに、私の部屋を散らかすことはなかった。自室が汚いのはあくまでそこが気を遣わなくていい場所だからで、むやみに他人の場所を汚すようなことはしない。
 傍若無人にふるまっていいところとそうでないところくらい、朝陽はちゃんとわきまえている。だから私も、特に何も言わないでいる。
 リビングにはクローゼットとか本棚とかキャビネットとか、一応ちゃんと収納道具はあるんだけど、それらがほとんど機能していない。ソファやローテーブルにはハンガーに掛けられたままの服が無造作に置かれているし(その中には下着類もある)、そもそもこの服を洗ったのだって何日前になるのかわからない。
 大学院に入ってまだ1カ月だというのに、さっそく本や論文が机とその周囲の床に散乱している。それだけならまだしも、アクセサリーや化粧品、冬物の小物までそのへんに転がっている。CDやブルーレイなんかは踏まないように端に寄せられていたけど、それも無造作に積み上がっていて、整理されている感じじゃない。
 こんな部屋なのにベッドの上に寝るスペースだけは常に確保されているから、なんというかたくましい。ちなみに私が朝陽の部屋で寝るときには、床に散らかっているものを適当にどかして私の布団を敷くスペースを作ってくれる。
 布団のような大きいアイテムを除いて、たいていの小物は自分の部屋から持ってくるのが私たちの暗黙のルールになっているんだけど、ありがたいことにマスクだけは朝陽の部屋にも常備されていたりする。
 床に散らかっていたものを朝陽に整理してもらい、いらないものを私がゴミ袋に突っ込んでいく。それから床に掃除機をかけて、ついでに水回りも掃除することにした。朝陽にお風呂とトイレを掃除してもらい、私は台所をピカピカにする。

 掃除がひと段落ついたのは、間もなく日付が変わろうという頃だった。
「ギリセーフ! あと1分だよ夕凪」
 先に自分の持ち場を終えた朝陽が、ベッドに寝転がってスマホをいじっていた。
「あぁ、《シーハイ》の」と私。「でもお知らせって何だろ。やっぱCDかなぁ?」
 何とはなしにベッドに腰かけた。
 ちょうどそのとき、日付が変わったようだった。
「…………!?」
 朝陽が声にならない声をあげたのがわかった。ただならぬ気配が伝わってきて、私は朝陽のほうを振り向いた。
「……朝陽?」
「なに、これ……?」
 スマホを手に、朝陽は呆然としていた。私は彼女の肩越しに画面を覗き込んでみた。
 表示されていたのは、《シーハイ》公式サイトの新着情報ページだった。
『シークアンドハイドよりファンの皆様へ重要なお知らせ』という見出しとともに、書かれていたのは──
「うそ…………」
 さすがの私も言葉を失った。

 それは《シークアンドハイド》の、無期限活動休止の告知だった。



ここから先は

25,902字

¥ 500