混血事始 二つまたは三つの混血(ハーフ)

まず、一文、言い訳を書きたい。

俺はこのNoteを始めるに至っても、色々悩んでいた。実際、混血を語ることなんて出来るだろうか?Twitterで140文字で逐一放言し続けるのは簡単だった。身の回りにネタは転がっている。しかしそれをまとめて説明をするのは……。関心のある人向けに言うならば、海外のネグリチュードやクレオール論がはるか以前に通り過ぎた地点で粗悪な「車輪の再発明」を繰り返しているんじゃないか、という不安をいつも持っている。日本において「混血」が語られているのか、「どこまで」語られたのか、そんな事が出来るのか、知らない。しかし、やはり書くことにした。この記事はメモ的なものでありいつか色々直したりするかも知れないが……何より、多くの少数者・弱者にとってまず大事なのは記録記憶を残すことである。

(例によって末尾に欲しいものリストと投げ銭コーナーを置いたので、この若造に金を握らせても良いという方は是非よろしくお願いします)


全て併せ持っている

日本において、「混血」(ハーフ、アイノコ、ダブル)、とされる人々がいる。だが、「誰が」?そして、対になる「純血」とやらは?語るべきは歴史学か、文化人類学か?だが、俺は土俗の人間である。

混血を、近現代日本と言う環境で・政治的に確信をもって語る時に、俺は常に二通り(ないし三通り)の例をあげないといけない。

一つ目は、狭義の混血……「黄色人種であると自認する日本人」と「外国人」の間に生まれ、政治的な困難を感知した子弟である。俺もまさにその一人である。

二つ目は、「では逆に、どこからが『混血』ではないのか?」あるいは「純血なるものがあるのか」という疑問から導き出される。俺は、「全ての人間は混血である」と、言う。ごく普通のことである。

そして、三つ目は、消極的かつ選択とも言えない感覚である。狭義の混血に含まれる(かも知れない)が、つまり政治的な「混血」観を必要としていない、ノンポリあるいは商業的な便宜のみ享受している人々である。しかしこれは悪意だとかあるいは「裏切者」の様に扱うことではないし、本当にごく自然な事態でしかない。肩を掴んで「お前は本物の混血か!?」などと、口が裂けてもやるべき事ではない。俺は、日の半分は狭義の混血を生き、もう半分は三つ目の生き(そして生まれてから死ぬまで二つ目を信じ)ているかも知れない。


無数の混血について

鹿児島県民と青森県民が交際し、子が生まれる。皆、そもそも問題にもしない。みそかすましか、切り餅か丸餅かで喧嘩するだけである。子どもは東北弁を喋るのか、ばってん九州弁を喋るのか知らないが、そんなことを気にするのは方言学者だけである。

民族・文化的にアイヌ人であると自認する日本国籍の「日本人」と、石川県から移民した北海道在住の日本人が交際し、子が生まれる。あるいは琉球でも同じである。恐らく多くの人々は少し黙った後、単に戸籍を優先して「いやー、中々な日本人だね」という。しかし、「日本人」「文化」とは何だろうかという問いを慎重に回避する。

日本人と、ブラジルにかつて移住した日系人の子孫が交際し、子が生まれる。これは日本人であるという者もいれば、「歴史的」な経緯で異なるという人々もいる。そして役所は、日系人の方をあくまでブラジル国籍と示す。工場は相変わらず日系人を「亜種」として低賃金で雇い続けた。

日本人と、在日朝鮮人が交際し、子が生まれる。同じ「黄色人種」として、日本側の生活様式に従い、敢えて表沙汰にする事が無ければ、全く疑われることも無く正真正銘の「日本人」として暮らすことも出来る、のかも知れない。もちろん、民族教育を受けることも可能である。そしてそのどちらの選択を良いとも悪いとも言う事は当然できない。だが、もし、この出自を明かするならば、むしろ白人や黒人との混血の時よりも、特殊な憎悪が向けられる場合もある。

メキシコ人と、日本人が交際し、子が生まれる。多くの人々は「混血」であるというだろう。だが、このメキシコ人は所謂メスティーソで遥か以前のインディオとコンキスタドールと更に大分後からのフランス人亡命者の家系も取り込んでいた……とすれば、どこからが「混血」なのだろうか。だが、この褐色のガキは、警察官の職質の前に一切の出自を粉砕された。

アングロサクソンを自認するイギリス人と、黄色人種で旧士族に系譜を遡れることを自慢する日本人が交際し、子が生まれる。多くの人々は当然「混血」であるというだろう。更に、数多ある混血の中でも恐らく特に望まれている、メディアのステレオタイプ的「ハーフ」でもある。

そしてこの他にも、無数×無数の混血がいる。ここでは国籍や民族と言う概念を使ったが、それだけでなく歴史的経緯や出会いの形が関わる。つまり、全ての生殖は混血……な筈であった。そして、それを「良い・悪い」「プラス・マイナス」に分けることなど出来ない。日々溢れているイメージの様にアングロサクソンとの混血が良くて他は悪い、「純粋な恋愛」で生まれた混血が素晴らしくてGIベビーやあるいはスペイン軍人とインディオの妾の間の子は悪い、などと言う事は、無い。だが、歴史はそうさせてくれなかった。

本当は国際交際にまで遡って書かなければならないだろうが、取り合えずこの記事では置いておく。


確信できない理想

「全ての生殖は混血……な筈であった」と書いた。

混血は、太郎さんがみかんを2こ持っていて・そこに花子さんもみかんを2つ持って来てまとめると・みかんが4つになる、非常に簡単な2+2=4(2×2=4でも良い)と同じである。この文章問題では品種なんか問わない。太郎さんのみかんがツブツブで、花子さんのみかんが少し黒くても、二人が納得しているなら、みかんはみかんである。

混血がどの様な肌になるか、目の色がどうなるか、何語を喋りだすかそれともダブルリミテッドに苦しむか、などという問題は、親の興味や心配事ではあるが、本質的な問題では無い。障害児が生まれてくる可能性は対する「純血」でも同じことである。ここいるのは、「どれも超個性的」以外に単位の無い子どもだけである。

だが、この2+2=4は、どうしても、世界最大級の難問になった。文章題を読むだけで蕁麻疹を起し、国旗を振り回し、太郎と花子からみかんを取り上げ、八百屋・農家まで脅迫して、「良いみかん」と「悪いみかん」の差を論じる人々で満ち溢れている。それはスポーツの大会で「混血の日本人」が表彰台に上る時、可視化される。

曖昧であることは、悪いことなのだ。境界の上にぼんやりとした物が立っているのは、迷惑なのだ。人々に「この土と血」以外の可能性を見出させるものは、売国奴なのだ。混血は、大体この要素を兼ね備えた。

そして、俺も、今は一つ目の定義に重点を置かざるを得ない。つまり、国籍や民族という概念が明確にあって、その区分や制度の間(境界であれグラデーションであれ)に産み落とされた人々が混血である、という考え方である。少数者・弱者と言う、ある点では悲惨な立場も受け入れ、今の、目の前の問題と抑圧から身を守るために、そう言う区分は一応受け入れる他ない、と。「無数×無数」をこの国の主だった人々に説明し理解させるのは、俺にとっても彼等にとっても現状、困難であった。また、二つ目を語り始める場合、人種・民族、更に宗教と言ったあらゆる概念と対話することになる。それは好意的な場合もあれば恐らくそうでない場合もあるだろう……。

だが、それは二つ目の定義の放棄を意味しない。これは秘伝でも何でもなく、混乱を巻き起こす様な考えでもない。ただ、この国では何故か「2+2=4」であって欲しくない人々が多い、だけなのだ。そして、同時に、三つ目の定義もある。ただそこらに生きているだけの人間。そう言う時間もある。


歴史的断片

良く、慰めとして、「日本なんか古代にも渡来人がいたから」と言われる。だが、実際には混血にとっても日本人にとってもあまり深い意味は持たないし、この国の幻想が打ち破られることもない。保守派の人々にとって、「我々は古代から文化を取捨選択し、和洋折衷し、同化させ、慎重に『日本文化』を維持してきた」という自意識から外れることはない。「桓武天皇の生母が百済の武寧王」である(と前の天皇が語った)ことは、単なる美談、歴史書の一文として処理され、ざわめきを起すこともない(無論、混血の事例としても一例だが)。混ざったのではなく、あくまで「取り込んでやった」という意識であり、その後の歴史にも引き継がれていく。それどころか、(陰謀論と大して変わらないという問題込みで)何々同祖論を悪用する人々もいる。

江戸時代の人々は、外国人と日本人の間に子供が出来ると化け物が生まれる、と思い込んでいた。1639年までにポルトガルは日本貿易から撤退したがこの過程で日ポ混血児はマカオに追放された。オランダ人に対する日本人の交際は遊女だけに許していた。これはむしろ区分の分り易いことである。

そして敗戦直後。国は早くも敗戦の数日後に、進駐軍兵士と一般人女性の交際と混血を防ぐ言わば「防波堤」として、特殊慰安施設協会(RAA)という組織を作って売買春を管理した。そして人々は兵士と交際する女性を「パンパン」などと呼び、江戸時代と大して変わらない差別意識をこの人々に向けた。戦争を始めさせた天皇にではなく、女性や混血に対してである。武器は捨てても、「血の国防」などと言う概念は続いている。今でも、国の奥底にそれは息衝いているのだろう。

だが、卑屈になる必要はない。我々はただ生きている。




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