はい

ご無沙汰しています.

ところで,なぜ女性と何かした場合,一般的に男性はその女性に奢るのでしょうか.

この疑問は,単にその答えが知りたい,というだけでなく,大雑把に以下のような意図を持って発したものです.

・納得できる理由を自分のために見つけたい.
もし,その身振りが必要になったときのために,自分がそれを実践しやすいよう,今のうちに自分を納得させておきたい.

・「なぜ女性に奢らなくてはならないのか」という疑問を発する自分自身について知りたい.
疑問や抵抗がある,という状態は,つまりそこになんらかの解釈を持っているということであり,その解釈をたどることで,自分が何を重要だと考えて,何に意味を見出しているか,すなわち自分自身とは何者なのか,を知る一助となると考えている.

・とりあえずなんか文句をつけたい
はい.

記述の厚さからもわかるかとは思いますが,僕は今回二番目の意図を特に持っています.

なぜ,男性は女性に奢ることになっているのか?

パッと思いつくものとして,まず見栄があります.

見栄をはりたいだけ,ということであればまあ各自勝手にやってくれ,としか言いようがないですね.基本的に男女でするアクティビティというものは,だいたいにおいてたいして個々人の「見栄ポイント」というか,見栄をはれるタイミングをあまりもたないものですから,必然的にどこかで見栄をはろうと思った全国の男たちが,とりあえず紙切れさえ出してやればなんとなくカッコつけた感を味わえる「奢り」というのを同時に思いつくというのは納得できるできごとです.

ただし,それはそれとして,「奢ることになっている」という僕の感じる空気感とはたいして関係がありません.だいいち,カネで見栄を買おうなんていかにも昭和のダサい発想ですよね.


男性側の心理に着目したものとして,もう少しありそうなものでいうと「女性には喜んでほしい,といった”自然な感情”の発露」という説明があるでしょう.

これも,それなりに昭和感というか,カネで喜びが買えるのか,みたいながっかり感こそあれ,もう少し説得力があります.

というか,僕は基本的にこの説明で納得しかけてしまうので,ああ,僕にはそういう感情が自然に発露しないから”間違った”男なんだなあ・・・などと落ち込んでしまうわけですが,しかし実際「完全に同額のお小遣いを親族から受け取る」ということと,「赤の他人に女だという理由だけで奢られる」ということには大きな違いがあるのではないかと思っています.

ぶっちゃけた話,お金の周辺には言説や物語がありすぎて,実際のところ「素直に」喜んでくれるかどうかというと甚だ疑問です.(僕目線ではね!)

僕のまわりにはインテリが多いので,「安く見るんじゃない」とか,「今時奢られるなんてナンセンス」とか,そんなことを日頃主張する女性も多くいる印象があります.

そういった人たちに,適当にマニュアル的対応で「奢ればいいんだろ」みたいに「奢ってしまう」ことはかなり難しいです.

というか,僕自身がそういったまなざしを内在化しすぎ,身動きが取れなくなっているという側面のほうが強いかもしれません.とかく,「喜んでほしい」と思ったときに,「奢る」という身振りが自然に出る文化圏に僕はいません.

それと,「いいよここは僕が出すから」と言ったとして,「いやいや,払うよ」とでも言われた日には,茶番感がいたたまれなさすぎて,「払いたいの?どうぞどうぞ」などと言ってしまいたくなります.このやりとり,茶番すぎるし,お金で感情を買おうとしているみたいで嫌です.


他には収入差を挙げる人もいます.それに関してはあと数日で解決というか,自分で納得できるようになるので問題ないです.受け入れます.


女性目線でいうと,「誘ってきたんだから,それに伴う諸経費は誘った側が出すべき」という主張があるでしょう.実は僕が問題にしたいのはそれで,いわゆる「損・得」の概念についてです.

大平(2000)が「純愛時代」の中で指摘していたように,恋愛を取り巻く言説の中には,「損・得」の概念のようなものが存在するようです.それはつまり,「若くてスタイルのよいギャルと”つきあえ"ているオヤジは,”得"をしているのだから,お金でそのギャップの埋め合わせをすべき」というようなものです.

これは明らかに援助交際については言えるものですが,僕が問題にしたいのはあくまで対等な男女の関係,とくに友人関係に関してです.そして,それに関しても同じことが言えるか?というのが,僕にとってはかなり大きな問題のように見えます.

どのようなことか.本来,「誘った側」と「誘われた側」は対等であるはず,というように僕は認識しているのですが,それがそうでない場合があるかどうか,ということであり,もし,これが「通常の友人関係とは明確に異なる,一方向性」によって裏付けられており,かつそれが「個人の意思を明らかに無視している」といえるのであれば,それは問題だということです.

つまり,なんだかんだ言って,女性はつねに「誘われる側」であり,その誘いを受けるかどうかというところには,自分が純粋に相手とひとときを過ごす中で十分に欲望が満たされるかどうか,ということ以外の,「面倒くさい」なにか事情があり,要するに「断れなくて,仕方なく」誘いを受けるケースが,十分に多いのか?ということと,さらにいえば,そのようなものであると,男性は自覚しなくてはいけない,ということになっているのか?ということであります.

これは以前から僕が問題視している,「女性は欲望がないということになっている」という構造と密接に関わっていますが,僕はお金で埋め合わせをしなくてはならないレベルの一方向性のある暴力を振るっているという考えには首肯しかねますし,なるべくならそのようなことはしたくないと思っています.

ところで私がなぜ自分の男性的暴力性(の想定)を問題視するかというと,例えばiminoyamai氏のブログ記事に描かれているような「男性的暴力性」に対する潔癖症的な自己嫌悪とは違い,僕の場合最終的には己のプライドとして,「(暴力という名前こそ主体的にみえはするが)結局のところ,「お情け」でつきあって「いただいている」ということを認めたくない」という気持ちが大きいです.

この「損・得」の概念を少し拡張してみると,私が女性と「いわゆるデート」らしいものをすると一気に面白くなくなるという現象が説明づけられそうな感じがあります.

要するに「歓待」というか,「贈与」の構造に近いものがあるのかもしれませんが,私は今までがっつりと気の合った女性とはあまりお金の絡むような「いわゆるデート」をしてきていませんでした.だいたいの場合,なんとなく長距離を歩く,というようなものが多く,それで気分が良かったので,良かったのですが,「いわゆるデート」のプロトコルにのっとった活動を,ルックスの良い女性とやったらそれはそれでハッピーなのではないか?と思って時たまやるのですが,どうも面白くなくて,それは「贈与」の構造が強くあるからではないかと思うわけです.

つまり,私はその間,強く「得」をしている,というか,「贈与」を受けており,それに対する「返礼」の義務感を強く感じてしまう.

「いわゆるデート」のプロトコルは,随所に「贈与と返礼」のトラップを隠し持っており,僕はそれに強いストレスやまなざされを感じて身動きが取れなくなってしまう.→もはや相手と接しているというよりは,贈与と返礼という厚い膜と接しているような気分になるのです.

もちろん,当初の僕の意図が邪であったからというのもあり,結局は「罪悪感」なのかもしれない.さて全体的に見てこれはどうもうまくない.どうやら,相手のルックスと僕の楽しさは正直あまり関係がないようにすら思えてきます.別に不細工が好きだというわけでもありませんが.

以上,なんだか,「キモオタの僕も人並みに恋愛しているんですよ自慢」みたいで若干キモいですが,とりあえずはそんなところです.

今回の思索の結論としては,以下のようになりました.

・「損」「得」で考えてしまうような相手とは遊ばないのが得策.自然に気があった相手と仲良くすべき.

・「奢ること」に気を遣いすぎるのもそうだが,「奢らないこと」を気にしすぎるのも良くないのでは.「一般的に」とはいうが,まあ,自分が「相手に喜んでほしい」と思った時に,物質的な充足を与えようと自然に考えたらその時初めて実行すればよいというだけなのかもしれない.

・全体的に人それぞれ案件なのに,僕はものの捉え方が大雑把すぎ,それがよくないのでは.

今回の感想ですが,「お金が動く」というところから,「価値のギャップがある」と考え,男女の非対称性,そして「損」「得」の感情,という自分の価値観まで行きつけたのでよかったと思いました.

それではさようなら.おやすみなさい.

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