「圧倒的成長」的演出論

はじめに

この文章は、主に、何らかの舞台作品の演出をやってみたい/やっている人で、なんとなく躓くことが多いとか、あまりしっくりこないまま本番を迎えてしまうような人に向けて書いています。

僕自身はジャグリングの出身なので、ひょっとしたらそれ以外の世界できちんと下積みをしてきたような人には全く役には立たないかもしれませんが、それなりに一般化できる領域について書いたつもりです。

言語化からはじめる

まず、だいいちになんらかのシーンを作ろうとしたとします。その場合、まずある程度の構想なり、イメージのようなものがあってからそれに取り掛かることでしょう。例えば、「このシーンは無関心な群衆の中に一人歩く主人公を描こう」というような感じで。

ということで、まずは出演者に対して、このシーンはこういうものにしたい、というようなことを言語化して伝えたとしましょう。そのとき、その言葉は、当初のインスピレーションからすれば、ずいぶんと陳腐でありきたりなものに聞こえるかもしれません。

そこで、出演者が理解できる程度はバラバラです。どんぴしゃりであなたの考えている、「当初のインスピレーション」に映像レベルで至れる人もいれば、その言葉から連想される、当人の知っている既存の舞台や映像作品が勝手に浮かぶ人もいて、中には言葉の上っ面しか理解できずにちんぷんかんぷんなままの人もいるかもしれません。

大事なのは、ここでその言葉が「陳腐でありきたりなもの」に聞こえかねないかもしれない、ということに敏感であることです。

出演者たち自身がきちんと同じようなビジョンを共有していないことには、少なくとも稽古場がクリエイティブな協働空間になることはないでしょう。

完全に隅の隅まで自分一人で作りこめる振付家であるならまだしも、残念ながらあなたは微力なので、出演者との協働なくしてよい作品に至ることは困難です(微力でないならば、この記事を読む必要はありません)。

したがって、まずは出演者たちとビジョンを共有することに努めましょう。

ビジョンを共有するためには、最初のとっかかりとなる言語化をこえて、さらに微に入り細に渡った考えの言語化が必要です。

常識を疑え!ところで、常識とは?

「当初のインスピレーション」を言語化するためには、まず第一に常識のフィルタをはずすことが重要です。

さて、よく「常識を疑え」といいますが、それはよく誤解されるように突飛なことをせよということではありません。

ここでいう「常識」とは、「世間一般の定石」ということではありません。あなた自身の勝手なイメージであり、あるいは相手の勝手なイメージです。

つまり、「常識」と一言でいったところで、世間的に共有されているいわゆるコモン・センスを想像する人は少なくないかと思いますが、どちらかというと「その人自身の」常識(だと思っていること)、というものがここでいう「常識」であり、これはつまり「誰かの」「特定の」常識であって、「一般の」常識というものではありません。

例えば、「無関心な群衆」のイメージは?というと、例えば出演者によっては「(役でなく)無機質に単に歩くだけのダンサー」と内心思っている人もいれば、「(役に入り込んで)単に主人公に絡みのない演技をしている通行人A」と思っている人もいます。

この場合どちらも間違いではないですが、ある出演者とほかの出演者とで解釈が全く異なっているので、テクニカルに考えてもシーンの統一性がいまいちですし、だいいち(本来どちらかであったはずの)「当初のインスピレーション」からはどちらかの出演者は離れていってしまっています。

ここで、例えば、あなたの当初のインスピレーションは後者であったとしましょう。

そうなれば、前者だと思っている出演者の認識をただすためにも、「無関心な群衆」とは、「単に主人公に絡みのない演技をしている通行人A」であるということを伝える必要があります。

そう、その通りです。

「常識を疑え」とは、ある常識に対して外れたことをせよという指針の立て方ではありません。

「常識を疑え」とは、ある「理想」に対して、各人の常識があることによって、すでに立っている指針からブレるようなことを防げということなのです。

そのような意味において、各人の常識をほぐしていきつつ、理想形を伝えていくという作業が必要になってくるわけです。

おおざっぱな言葉

さて、そもそもなぜ、「無関心な群衆」のシーンの解釈は二つに分かれてしまったのでしょうか?

それは、そもそも「無関心な群衆」という言葉自体がおおざっぱであったからにほかなりません。これは冒頭で指摘した、「陳腐でありきたりなもの」にも通ずるものでしょう。

ここで、実際の演出としてはおおざっぱであることは許されません。なぜなら、各人の常識があることによって、ややもすれば適当に、小手先でこなされてしまうからです。

それでは、そもそもなぜ、「各人の常識でこなされる」ということが避けるべきことなのでしょうか?

それは、以下のような点によるものです。

・まず、テクニカルな問題として、おおざっぱな演出はだいたいが陳腐でありきたりであり、「他ではなくここで」観るにふさわしいものにはならないから。

・続いて、本質的な問題として、「本当は何がしたかったのか」が見えなくなるから。「本当は何がしたかったのか」がわからない、というのは、よくないので。(これがなぜよくないか?は今回不問とする。これは主義主張です。)

総括すると、「本当は何が大事なんでしたっけ?」というところ、突き詰めれば演出家の「こだわり」が見えてこないためです。

「こだわり」がない、ということは多くの場合「どこかで見たようなもの」になっていまいます。結果、お客さんはかけがえのない人生の一時間を消費して、結局どこかで見たようなものを観るということになってしまいます。

これは非常に残念なので、以降はいかにして「こだわり」、つまり「本当は何が大事なんでしたっけ?」というところを追求していくか、ということに稿を割くこととします。

こだわるために:なぜ?を考える

さて、ではいかにして「こだわり」を出していくか?

そのために非常に有用なプラクティスとして、「なぜ?を考える」というものがあります。

例えば、「無関心な群衆」の表現としては、「主人公に絡まない通行人たちの演技」というやり方がふさわしいだろうと感じたとします。

そこで、一回「なぜ?」と考えてみるわけです。

「なぜ?」とは、要は「なんのために?」です。ここでは、なんのために無機質に歩くのではなく、通行人の演技をさせるのでしょうか?

例えば、ここの答えは以下のようだったとします。

―ただ無機質に歩く個人という演出であれば、主人公だけではなく、任意の通行人同士の関係性も全くないということになる。これはどちらかというと、

・主人公の主観の表現としての、街行く人々。
・実際にお互い無関心という、どちらかというと社会的な文脈での位置づけ。

のどちらかの意味を持つだろう。

それに対して、主人公「だけ」に絡ませないような演技をさせるとなると、特定の通行人同士は関係性があるということになるので、その中で誰との関係性もない主人公の孤独がより感覚的に浮き彫りになる。―

以上の自問によって、今までの「無関心な群衆と私」というおおざっぱなテーマから、「誰との関係性もない孤独(のために、自分以外の関係性を見せる)」という「他でもないここで」の小さなこだわりが発見できました。

例えばある程度の間をおいてから、あえて通行人の演技をやめさせて、無機質な歩く個人に質感を変えさせてやると、一気に主人公の主観に入り込めるかもしれません。それが大事なのであれば、そうするのも手です。

大事なのは、なんのために?というところで、最終的にブラしたくない、「他でもないここで」のこだわりを発見して、それを貫くということです。

おわりに:クリエイティブな問題解決のために

演出をやっていると躓くことはよくあります。ものすごく細かいところでいうと、はけ口と入口が一致しないとか、そういう物理的なものも起きたりします。

そのとき、おそらく稽古場にいるあなた以外の人間はみな、「いまいまの演出を実現するためには、具体的にこうすることができるだろう」ということしか考えてくれませんし、そういったことしか言わないでしょう。

しかし、演出家であるあなたの立場では、「最終的に、このシーンはどうあるべきなんだっけ?」「本当は何が大事なんでしたっけ?」ということ、それだけに対して責任を負うべきです。

ところで、ここで稽古場にいるあなた以外の人間が所与のものとしている、「いまいまの演出」 そのものは、ほとんどの場合、単にあなたが「本当に大事なこと」を実現するために、たまたま選んだ一つの手段にすぎません。

もちろん、ここでの「本当に大事なこと」が、それ自体その演出であることも、ないことはないでしょう(本当にないことはないのか?僕個人は疑っていますが。。。)。であれば、もちろんそれを信じて現実的な問題解決のほうに乗り出すべきです。

ただし、ほとんどの場合は、その演出そのものにこだわるよりも、もっと簡単で、物理的にも無理がなく、しかし「本当に大事なこと」を実現するにきちんとふさわしいほかの演出方法がないか試してみることをおすすめします。

合言葉は、「そもそもこれって必要なんだっけ?」「そもそもこれってなんでこうしてるんだっけ?」です。

もちろん、それに慣れない出演者はこう言ってくるかもしれません。「いやいや、あんたがそうしろって言ったんだろ!」

それでも続けていくうちに、こう言ってくれるようになったらしめたものです。

「このシーンは〇〇が一番大事なはずで、なので当初△△しろと言われていたけど、物理的に難しいし、〇〇を実現するためには□□でかまわないと思うので、□□にして一回試してみたいんだけど、どう?」




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