恋愛規範:「好きです」と「付き合ってください」の隔たりについて

"「愛」は親密性そのものというより,そこにおいてコードとして働き,親密な関係内部の相互行為を律する言説装置である.感情の面からしても,特定の人に恋愛感情を抱くことと,その人と恋愛関係を形作ること(コミットメント形成)は独立して考えることができる." 
―筒井淳也(2008)「親密性の社会学 縮小する家族のゆくえ」

<彼女>を作りました.

<彼女>,が括弧付きであることには理由があります.私はかのじょ(便宜上,三人称単数女性はひらがなで表記することとします.)に対して恋愛的感情をそこまで抱いていません.向こうもおそらく,そうです.したがって,一般的な<恋愛>・・・すなわち,彼氏-彼女関係での名付けにおける<彼女>を形式的になぞったものでは確かにある(交際相手ではある)が,括弧付きでない恋愛における恋人ではない,という意味で<彼女>ではあるが彼女ではない,ということです.

少し私の話をさせてください.私は,男性のヘテロセクシャルであり,女性に対して恋愛感情を抱くことがあります.ただし,それが結実して交際にいたることはこんにちまでありませんでした.

通常であれば私に魅力がないか,相手が悪かったか,というようなことになりますが,じつはここにはもう一つ大きな要因があったのではないかと気がついたのです.それは,私の「恋愛感情」そのものの性質であり,私の私自身との接し方でもあります.

それは,「信仰」の一語に要約されます.

私は,相手を必要以上に神格化し,それを信仰してしまう悪癖があります.それ自体に問題はないようにみえますが,実際に交際しようとなると問題です.つまり,「好きです」から「付き合って下さい」までにとてつもなく大きな隔たりがあるということです.

ここでの「好き」ということは,どうしようもなく「好き」ということであることには変わりないのですが,「付き合う」ということは人間関係の問題です.つまり,こういった性質の「好き」は「付き合う」型の<恋愛>規範での「好き」とは意味が違う,ということです.

もちろん,僕のような性質の「好き」をもっていても,清くうつくしい恋愛にまで昇華できる人はいるでしょう.しかし,現状僕にはそれはかなわないだろうという実感があるわけです.

でも,彼女は欲しかったんです.

当初はこれはディレンマだと思っていました.しかし,

好きな人とは構造的に「付き合え」ない,しかし<彼女>は欲しい.

これは,実はそもそもディレンマではない,ということがわかりました.

どういうことか.問題を解き明かすため,なぜ彼女が欲しいのか,を考えてみることとします.なぜ彼女が欲しいのか,なぜ親しい友人ではいけないのか,それは一般的に寂しいからです.

翻ってなぜ彼女がいれば寂しくないのか,私はそれを「待ち」のモデルを用いて説明します.通常,必ず訪れる刺激に対しては,それを「待つ」時間自体もその刺激と同じような性質を帯びます.必ず殴られるのであれば,それを待つ時間は苦痛ですし,逆に恋人と待ち合わせる時間は幸福です.

「必ず訪れるもの」を「待つ」ということ,その瞬間には何もしていないし,何の刺激も受け取っていないのですが,その時間は「待っている」という性質を帯びます.交際相手が1on1の存在であることは,いわばその存在を「待つ」ことができる,という点で,通常の友人と比べてより寂しさが埋められるというわけです.

つまり,交際相手と「必ず会える」ことも寂しさを埋めてくれますが,「必ず会える相手がいる,と思う」ことそれ自体がいわば担保として,寂しさを埋めてくれます.そのような意味で,「友達では不十分」という理屈が成立するわけです.これは,私が交際相手に期待していることについての実感と矛盾しません.

さて,ではそれが「好き」な人である必要は果たしてあるのでしょうか?

正確に言うと,私の種類の「好き」の対象は,果たして私が「交際相手」として期待するべき相手だったのでしょうか?

いままでの私は,「この人素敵ですごく好きだ,ついでにこの人が寂しさも埋めてくれたら最高だな」という横着をしていたのではないでしょうか?

つまり,本当はこうすべきだったのではないでしょうか?

「寂しさを埋めてほしい」というタイプの人と<付き合い>,自分が「好き」と思った人を,普通に好きでい続ける.(必要なら好きであるとちゃんと伝えるが,ついでに交際しようなどとはとりたてて期待しない)

ということで,そうすることにしました.細かい議論はかなり端折りますが,同じように寂しさを埋めてほしいという需要はあるので,あとは利害の一致する相手を見つけて交渉するだけでした.

・・・と,ここまでは私のプライベートな話でした.問題は「なぜ私がこのような表明を行っているか」です.

私は,この関係を一つの「パフォーマンス」として営んでいきたいと考えています.つまり,具体的な行為やセレモニーを通じて,社会規範・社会構造を構成する/異議を唱える,という営みを行っていくということです.

ここで問題となる社会規範とは,先ほども挙げた<恋愛>のイデオロギーということになります.

これは,人間関係というあまりにも個人に依りすぎているものに対して,不文律によって名付けを行い,さらに強力な倫理によって抑圧している構造に対しての異議申し立てなのです.

例えば,私にのしかかっていたのは「好きな人に告白して付き合うべき」という不文律でした.ここでは「好き」という言葉があまりにも曖昧で,個人に依りすぎているのにも関わらず,それを名付けや不文律によって拘束されてしまっているわけです.したがって,「好き」の性質によっては,これはかえって当人を不幸にしうるということは明白です.

例えば他にも,「これこれこうしない/してしまうことは相手に<失礼である>」というようなことをしたり顔で言ってくる人(お節介な女友だち!)はいますが,大きなお世話です.そんなことを言ったら,中国では出された食事を残さなかったら失礼にあたりますが,日本では残さず食べるべきです.その程度です.しかも,プライヴェートな関係での話です.知ったこっちゃない,という感じです.

勘違いなさらないで欲しいのですが,何も私は「何ヶ月めにこういうデートをすべきで,・・・」といった,「きまりきった<恋愛>のルール」について異議を唱えているわけではありません(もちろんそれはそれでバカバカしいとは思いますが),私が異議を唱えているのは,「理想の恋愛」に対してです.「理想の恋愛」は,非常にロマンティックであり,であるがゆえに時としてルールよりずっと厳しい拘束を私たちに対してもちます.

私は,「好きな相手と付き合うべきで,付き合う以上はこういう態度で,こういうふうに・・・とするのが"理想の恋愛"である」という大きな物語を否定してやりたいと思っているわけです.

私は,言説にまみれ,誰のものかもわからなくなってしまった大きな物語を離れ,まずは自分の手で,「好き」とはなにか,交際するとはどういうことか,うちたてたいと思うのです.

そしてねがわくば,もっと多様な「好き」に対応した関係があって欲しい,と考えるわけです.

さてもう一つ,こう考えることと関連して,大きく私の中で変わったことがあります.それは「好き」と簡単に言えるようになったということです.

それを考えるにあたって,「なぜ私は人に簡単に『好き』と言えなかったか」を考えることとします.

例えば,おいしいオムレツを食べたら「おいしい」と言いたくなりますし,言います.一方で、好きな人に対して「好き」と言いにくいということは考えてみればおかしな話です.

なぜこのようなことがおきるか?それは,「好き」という言葉が一種の予約語として,<恋愛>のゲームに取り込まれてしまっているからにほかなりません.

つまり,「好き」という言葉,それを使った瞬間に,無条件にあなたは<恋愛>のゲームに片足を突っ込んでしまうことになるわけです.<恋愛>はかなりシリアスで,窮屈なゲームなので,できることなら余計な人に好意を伝えたくないという気持ちがはたらきます.でもそれって幸せでしょうか?

私は幸せな状態ではない,と思います.なぜって,好きな人には好きだって言いたいし,言われたら嬉しい.言わないと伝わらないかもしれないし,伝わらなかったら伝えたのに比べて会えなくなってしまったりするかもしれない.

それで,伝えたところで何の問題があるのでしょうか?交際したいと思えば交際したいと言えばいいし,向こうも交際したいと言われたときにそのように受け取ればいい.「好き」と伝えることと,交際したい,と契約を申し込むこと,これを分けることで,人生はもっとシンプルに生きられるようになるとは思いませんか?別に,好きな人と交際してはいけないと言うわけではありません.そうしたければそうすればいい.それで相手とwin-win関係を築けず断られたところで,あなたが相手を好きでいることに罪はありません.

さて,以上の意思表明として,私は現在の私と<彼女>の関係,私の感じたこと,そういったことを正直に公開しようと考えています.

というわけで,前置きが長くなってしまいました.とりあえずの,私たちの実感を,以下にまとめておこうと思います.

◯まず,親密関係と<恋愛>のゲームとを離すことで,女性目線での「ラインを越えられる」面倒臭さがなくなる.その上,お互いの欲求を満たすことを目的としたいわば互助組織なので,かなり乱暴に言ってしまえば,「変な気を持たれて言い寄られることなく,特に制限なく甘えられる/求められる」という良さがあります.これは男性目線からいうと,「変な気を持っていると思われることなく,・・・」ということになりますが,どちらにせよ,普通の友人関係においてはそのようなリスクを勘案してセーブしてしまうところを思うままにメンタルな満足を求められる,という点で非常に優れているという感想が双方から出ました.これの充足感はかなりのもので,良いです.

「恋人のよいところは,恋人になろうとしないところにある」ということがいえるのかもしれません.

◯しかし,こうまで概念的には理想的な関係のようにみえるが,結局のところ「本当に好きな人」相手でないと得られない満足があり,そうでない相手からはそれは得られないのだ,と思われるかもしれません(事実私も内心思っていました).しかし,今のところの実感ですが特にそのようなことはなく,最初から「ほんとうに」愛していないはずの相手でも,自分の求めることをしてもらえると他では得られない質・量の満足感が得られる,ということがわかりました(実は私は特に交際の経験がないのでそれとの比較はできませんが,確実に他の関係では得られないものでした).

△当初この関係は「1on1であることに意味がある」というように考えていましたが,特にその必要はありませんでした.ただし,ある条件下では必ず1on1になるということが重要であって,例えば私やかのじょにはそれぞれ得意な分野のようなものがあり,「寂しい時に会うと満たされる」とか,「イライラしてる時に話すとスッキリする」とかそういった特性があります.そこで,自分が相手を満たすことのできる分野が相手の他のパートナーのそれと被っておらず-vice varsaである,ということが重要であると考えました.これはもちろん私の自己効力感についてであり,この自己効力感を担保とした「待ち」の可能性であろうと思われます.つまり,自分がそれに納得できれば超えられる問題であると考えています.

例えば,これが本当に恋人だったとして,しかし恋人には埋められない部分を相手の親が埋めていたとして,それに深く嫉妬する必要は特にないわけです.それが他の同年代の異性だったからといって,何が違うのでしょうか?

・ところで具体的に何をしているかというと,食事をしたり,延々と手を繋いで歩いたり,公園のベンチに座って語らったりしています.非常にオーソドックスなデートではないかと思っています.
具体的にその中で何が充足して,何がそうでなかったか,を私たちは逐一確認しています,が,それをみなさんに公開することでみなさんに利するものは何一つないので,特に記しません.ふふふ.

・実は裏のテーマとして,自分たちが何を求めていて,どういった失敗をしうるか,ということを知るというものがあります.

私はいわばこの関係を,人間関係のワークショップととらえています.

私たちは,別れてしまうことを一切おそれません.なぜって,本気で愛していないからです.確実な承認を得られなくなるという懸念はある程度ありますが,それ以上にはなりません.

私たちは,ここで失敗することができます.私は,ここで失敗を学び,やがていつか,より安らかに生きられるようになれる,と期待しています.

(これは,ホリィ・セン氏の「サークラハウス」構想に似たところがあります.http://holysen.hatenablog.com/entry/2015/03/04/000251

かれのいう,「人間関係の失敗が最大限許容される場」の最小組として,私たちはこの<カップル>を作るというわけです.
あるいは,古代ギリシャの「少年愛」の制度とも似通っているかもしれません.私たちはここでお互いを尊重しながら,自分が何を求めていて,何が得られ,何が得られないのか,ということを知ります.).

・現状,エビデンスが多くはなく,段階としても初期なのでまだ結論は出ていませんが,ただこれはかなり充足でき,「待つ」こともできる,という点で,いまのところ私はこの関係にかなり満足しています.

タイムラインでよく,「彼女欲しい」とつぶやいている男性と,「彼氏欲しい」とつぶやいている女性とを見かけますが,そういった方たちは特に「本当に好き」でなくても,とりあえず契約だけしてみるというのはいかがでしょうか?思ったより充足できると思いますよ.


・・・と,最後までお読みくださってありがとうございます.最近の私の勉強の成果はこんなものではなく,本来この文章はこの3倍ぐらいの,脱線と言い訳に満ちた大作になる予定だったんですが,それだと読みにくいだろうということで今回はショートバージョンでの公開としました.近日中にフルバージョンも公開しようと思っています.

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