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ジレンマ感じてる

2019年になりましたね!

今年もよろしくお願いいたします。

さて、『ニッポンのジレンマ2019元旦SP』、無事に(無事かどうかはわかりませんが)終わりました。ご視聴いただいた皆様、ありがとうございました。
緊張しましたが、収録は大変楽しかったです。

出演者のみなさま、スタッフのみなさま、観覧に来られたみなさま、ご視聴いただいたみなさま、たいへんお世話になりました。ありがとうございました。引き続きどうぞよろしくお願い致します。
お呼びいただけるなら、今後も出てみたいなぁと思っています。

お題である「コスパ社会(経済合理性を最重視する社会)」を二重に批判しなければならない、という話をしてみたつもりなのですが、うまく話せていたでしょうか。。

権力をもった側の(そしてそれに従う自分を含めた人々の)コストのかけかたについて「ほんまにそれでええの?」とツッコミをいれるタイプの批判と、「そもそもコスパなんて視角から人の生死や生活をとらえてええの?あかんやろ」と問い返すタイプの批判の2タイプが必要ですよね、という話でございました。

ある意味「当たり前のこと」ではありますが、当たり前のことをちゃんと言うことも必要なのかな、と思ってお話しました。

もっと自分の専門である「ハーフ」や「よさこい」の話を当日むりやり論点にもっとグッと入れられれば良かったのですが。。

「なんで出演したの?」

と思われた方も大勢のいらっしゃると思います。外国人労働者(外国人材って言い方は、やめときましょ)の話は自分の専門と連関するテーマですが、なんで?というところはあるかと思います。

わりと理由はシンプルです。

マスメディアに登場することは、メリットよりもコストやリスクが高そうであることは明白なのですが、それでも、僕の手元に、色んな人の手を渡って運ばれてきた「発言する機会」をできるだけ十二分に活かしきろう、と考えたからです。

僕は「社会学者」とは名乗りませんでしたが(社会学/文化研究 研究者と名乗るようにしています。「社会学者」って謎のネットスラングになりかけてますし、まだ博士論文執筆中の身ですので)、

ふだんから日常の人種主義や経済合理性についてあれやこれやと批判している「ハーフ」研究者が、お正月から「お茶の間」に登場すること自体が、意味を持つこともあるのではないかな、と考えたからです。

自分のような微力な研究者でも、「社会学者」として発言を求められる場にいることこそに、意義があるのではないか。
そう考えたのでした。

新生児の50人に1人が「ハーフ」であると報道され、中身がズタボロのまま「外国人材」ーー移民とは呼ばれない人々ーーを招こうとする法案が可決された日本社会。
その2019年元旦。


自分が「お茶の間」に登場することで「あぁ、今までこんな風に思っていたけれど、そういう見方もあるんだなぁ」と思ってくれる誰かが1人でもいるのかもしれないのなら、出演後にどんな磁場が渦巻いたとしても、思い切って出演したほうがいいのではないか。まずは、その場に出向くこと自体に意義が生じるのではないか。

そう考えました。

もちろん「研究者なら研究者らしく、論文と本を書くことに専念せよ」と思われるかもしれません。

ですが、
この社会を少しずつでもベターなものにしたいと、心のどこかで少しでも思いながら研究をしているのなら、研究成果である論文と学術書を読む機会のない人々を含めて、できるだけ多くの人々に向けて言葉を届けることにも意義があるはずです。

論文と学術書のオーディエンスに訴えかけることにプラスして、研究者がやるべき/やってもよい/できることは、まだまだあると思います。

(僕じゃなくても、ほかの誰かがやってくれるなら、それはそれで助かるなぁ、とまで思っています)
この選択が正しかったのかどうかは、実際にご覧になられたみなさんの判断にお任せするほかありません。
どうだったでしょうか。。
力不足だったかもしれません。
言い過ぎたり、言わなさすぎたりしたこともあるかもしれません。
でも、もし、出ないよりマシだったのなら。。
そう願っています。

最後に1つだけ。

今から3年前。2016年のお正月。
ある民放ワイドショー番組における、ある発言。
その発言を起点として、飛び交った言葉。

番組を制作・放送したスタッフの方々と、彼らが想定するオーディエンスにとっては「適切」だったあの発言。

それを見聞きした「ハーフ」や海外ルーツの人々、その身の回りの人々をはじめとする視聴者にとっては全くもって「適切」ではなかった、その発言。

当時、あの発言を批判した人も、あの発言を擁護した人も、「ハーフ」や海外ルーツの置かれた現状や歴史的経緯、カテゴリーのややこしさについて、そもそも理解しようとしていたのだろうか。耳を傾けようとしていたのだろうか。
マスメディアに登場する有名な発言者を批判する「道具」が見つかったかのようにはしゃぐ言動すら見受けられました。そこには、研究者も含まれます。
反対に、「自分が楽しく鑑賞した番組の悪口を言うな」という安直な擁護をした人々もいました。

発言者を批判することを通して「マイノリティのことを理解している自分」を、瞬発的に首尾よく振舞ってみせていただけだったなんてことは、本当になかったのでしょうか?

発言を擁護した人々は、発言が問題視されるなかで、バラエティ番組の「お約束」をのほほんと楽しめる「特権的な立場」を揺るがされて、逆ギレをしていただけで、自らの特権性を見つめたり、発言の問題性について学ぶ作業を怠っていたのではないでしょうか。

もちろん、そうではない方が大勢おられたからこそ、「あの発言はダメだろう」という声が高まったことは確かです。

でも、あの時の独特な熱気のこもった言葉の応酬の中に、見過ごすことのできない不協和音や危うい言い回しが顔をのぞかせていたこと、そして、それを見聞きするたびに、言いようのない不安と強いジレンマを感じていたことも確かです。

あの時の不安と強いジレンマを覚えている僕にとって、(おそらく外国人労働者の増加を念頭に置いている)これからの日本社会を語る系の番組が複数放送されるタイミングで、マスメディアに「出演しない」という選択肢をとることのほうが、研究者として不誠実であることのように感じました(というのは言い過ぎですかね。。僕よりも「論客」らしい方はいるでしょうし)。

「研究者だから」、テレビというマスメディアそのものへの拒否と抗議もよいのかもしれないけれど、「研究者だから」、マスメディアの渦中の「その中にいる」だけでも、少し何かが変わる可能性はあるはず。


少なくとも、あの時のような言葉の応酬がもう一度起こるのは、正直、もう、しんどい。

その可能性を少しでも減じられるなら。
だから、出向くことにしました。

「その中にいるだけ」と書きましたが、ほんまにあんまり喋ってない感じになってましたね(笑)

でも、この次が必要ですね。

出演して、あらためて思いました。

いまさらですが、
僕はいわゆる「ハーフ」の研究者です。なにかと話題のUSA(👍)にもルーツをもつ僕は、「ハーフ」と名乗り、呼ばれてきた人々にお話を聞かせていただきながら、研究をしています。https://researchmap.jp/julian908/

そして、2018年に仲間と共にHAFU TALK(ハーフトーク)というWEBメディアを立ち上げました。
ハーフに限らず、海外にもルーツ(routes)をもつ人々同士を、そして、その身の回りの人々を1歩ならぬ「半歩」から結ぶことをコンセプトにしたメディアです。これまで、コラムの執筆やイベントの開催を行ってきました。https://www.hafutalk.com

出演したあとに、強く思ったことは「まだまだ研究も手づくりメディアを介した活動もやるべきことがたくさんある」ということでした。

まだまだ、足りない。

次のTALKに向けて、なにができるか。

ジレンマだらけのこの社会で、コスパなんて言葉じゃ捉えきれないものについて、ぼちぼち考えていきたいと思います。

もし、「これからも、もうちょいがんばってみたら?」と思ってくださったら、ぜひ手を貸してください。noteを介してのサポートも大歓迎です。
どうぞよろしくお願い致します!

それでは、今回はこのへんで。
楽しげな2019年になりますように。
本年もどうぞよろしくお願い致します。


じゅりあん

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