10000字無料公開! 直木賞作家・東山彰良新作『DEVIL'S DOOR』

本日、直木賞作家・東山彰良先生による描き下ろし作品『DEVIL'S DOOR』が発売となりました。
本ができるまでの過程や見どころは、下記のエントリに掲載させていただきました。


そして今回は、『DEVIL'S DOOR』発売を記念して、本編中のプロローグ~第1章までを全文公開させていただきます。

あらすじ

直木賞作家・東山彰良が描く〈AIと悪魔〉の〈心と魂〉を巡る冒険譚、開幕! 装画は、悪魔的な美しさの絵でマンガファンを魅了する『イノサン』の坂本眞一!
「マニピュレイテッド」と呼ばれる人型AIが自由に往来する近未来。自由都市サン・ハドクには、人とマニピュレイテッドと、そして悪魔が生きている。近年、悪魔が仕業の事件が多発し、一方で、人間によるマニピュレイテッド狩りが横行していた。マニピュレイテッドの射撃手・ユマは、聖書型の悪魔アグリとともに、悪魔祓いを生業としている。悪魔を狩って〈地獄の扉〉の手がかりを探し、魂を得るためだ。
ある日、二人のもとにシオリという女性シンガーの護衛依頼が舞い込む。シオリの歌はマニピュレイテッドに対する憎しみを掻き立てると噂になっており、そんな彼女をコンサートまで守ってほしいというのだ。ユマとアグリは、女性マネージャーのルピタとともにシオリを襲撃から守り、マニピュレイテッド狩りと悪魔が関わる事件を捜査するなかで、驚きの事態に遭遇し...!?
人の心を理解し始めるAIと、人の魂を堕落せさようとする悪魔...二人の冒険が始まる!


プロローグ[我が黒き聖書]


 石柱の陰に身を潜めて、依頼人のルイス・イダルゴ聴罪司祭に目を走らせると、すでにそこらのワイン樽と同じように、全身穴だらけになっていた。
 その虚ろな目には、もはやなにも映っていない。石畳の床にほとばしるワインが、司祭の血を洗い流していく。
 こうなると分かっていたから、私は彼を帯同したくなかったのだ。
 ルイス・イダルゴは聞かなかった。処女をたぶらかしたという汚名を、どうしても己の手でそそぎたいと強く主張した。
 私になにができるだろう。忠告はした。それでもなお、ついて来ると言い張るのなら、私にはどうすることもできない。
 自由身分を獲得した私のようなフリー・マニピュレイテッドは、自分の寿命を縮めかねない命令を拒むことができる。
 しかし、依頼人の決意を邪魔立てすることはできない。ルイス・イダルゴが危険を承知で、どうしても悪魔祓いに同行すると言うのなら、私としては拒むことはできない。
 彼が縮めることになるのは彼自身の寿命であり、私のではないからだ。私たちの寿命と、彼の寿命は違う。私たちの寿命は、耐用年数と言い換えることができる。
 が、今はそんなことを考えている場合ではない。私は石壁に背を押しつけて、ピチャ、ピチャ、と迫りくる足音に耳を澄ませた。
 ガブリエラ・デ・ラ・エレーラに取り憑いていた夢魔が、地下室の床を浸したワインを蹴散らしながら、ゆっくりと近づいてきていた。
「ロリンズ‼」どう説明したらいいのか分からない低くて異様な声で、インキュバスが居丈高に呼ばわった。「出てこい、ユマ・ロリンズ‼」
 敢えて言うなら、獅子の咆哮と、蠅の翅音と、ガラスをひっかく音が混じり合ったような声だ。私のイメージセンサーには、そのような音声サンプルのストックはない。
 地下の酒蔵には、年代物のワイン樽が、幾列にもわたって棚に並んでいる。あちこちの樽から、血のように赤い酒が幾筋も噴出していた。ガブリエラ・デ・ラ・エレーラの家は、街でも有数の酒屋なのだ。
 三カ月前、十六歳の彼女は夜中に突然苦しみだした。家の者たちが心配していると、ガブリエラは彼女の聴罪司祭、つまりルイス・イダルゴの名を切ない声で呼びながら、口にするのも憚られるほど艶めかしく若い肉体をよじったという。
 うら若い娘のふしだらなふるまいほど、家名に泥を塗るものはない。以来、ガブリエラはこの地下の酒蔵に閉じ込められ、家族はルイス・イダルゴの悪行を異端審問所に訴え出た。聴罪にかこつけて、生娘を手籠めにするような生臭司祭は、悪魔の手先に違いないからだ。
 医師の見立てによれば、ガブリエラ・デ・ラ・エレーラはたしかにすでに処女ではなかった。しかし、彼女の小水を混ぜたデビルズ・カットでインキュバスをおびき出せたということは、少なくともガブリエラは人によって処女を奪われたわけではないことを意味する。
 この一事をもってして、ルイス・イダルゴは身の潔白が証明されたも同然だ。なぜなら、彼は血と肉を持った、れっきとした人間なのだから。だからルイス・イダルゴは、私とアグリの悪魔狩りに同行する必要など、まったくなかったのだ。
 そのアグリはといえば、私の外套のなかで、珍しくおとなしくしている。今のところは、という意味だが。
 いずれにせよ、信者にふしだらな行為をしたとして、ルイス・イダルゴを職務濫用の廉で教会から追放する決定を下した自由都市サン・ハドクの異端審問委員会は、いずれその決定を取り下げることになるだろう。
 だが、もう遅い。いまさら名誉を回復してもらったところで、死人が生き返るわけではない。破壊された樽からあふれ出たワインが、倒れ伏した哀れな聴罪司祭の黒い法衣を濡らしていた。
「お前はオレをおびき出したと思ってるな、ロリンズ?」インキュバスの笑い声が地下室にした。「違うぞ。このオレがお前をおびき出したんだ」
 そうだろう。さもなければ、こいつが私の名を知るわけがない。
「あの女に取り憑けば」と、得意げに続けた。「そのうちお前が現れると思っていた」
「ずいぶん、やることが地味ですね」私は柱の陰から叫び返した。「ルキフェルの鎖を壊すために人間を一人一人堕落させるなんて、気が遠くなるような話だとは思いませんか」
「堕落は伝染する」やつはまた、ひとしきり笑った。「一人の女を堕落させれば、十人の男が堕落する。十人の男が堕落すれば、百人の女が堕落する。百人の女が堕落すれば、千人の男が堕落する」
「そして、お前たちの仲間はいたるところにいる、というわけですね」
「そのとおりだ」
 私は斃れた司祭に目を走らせた。その体には、無数の黒い釘が突き刺さっている。
 かく言う私も左の腕がもげ、右目をやられていた。
 私は外套の上からアグリを揺さぶり、拳銃を握り締めて、柱の陰から飛び出す。
 インキュバスが、サッと手洟をかんだ。毛むくじゃらの黒い手で片方の鼻の孔をふさぎ、フンッ、と強く息を吐く。つぶれたその鼻孔から、釘が弾丸のように飛び出す。
 が、その釘が捉えたのは私の残像だけで、破壊したのはワイン樽だけだった。
 ガコンッ‼ という音とともに、樽に新しい穴が開き、中身のワインが噴き出す。
 私はインキュバスに向けて、銃弾を二発放った。一発は胸の真ん中に、もう一発は眉間に命中したが、いずれもやつにかすり傷ひとつ負わせられなかった。やはり、通常弾では歯が立たない。
 樽棚の陰に飛び込む前に、ほんの一瞬ではあったが、初めてやつの全身を目の当たりにした。
 さほど大きくないその体は、黒い毛にびっしりと覆われ、ネズミのような長い尻尾があった。顔は蝙蝠にそっくりで、違うところといえば双眸が赤く、瞳孔が羊の目のように横に広がっていることだった。
 つまり、こいつの視界は左右に広いが、上下はさほどでもない。
 瞳の形は、ある程度その悪魔の類型を規定する。動物と同じだ。草食動物の左右に長い瞳孔は、視界を広げ、捕食者を発見しやすくする。逆に肉食獣の上下に長い瞳孔は、狭い範囲のなかで獲物の動きを的確に捉えるためだ。
「守備タイプだね」外套のボタンの隙間から、アグリが顔を覗かせた。「横に動くのは不利だよ」
「分かっています」
 私は相棒を外套のなかにギュッと押し込み、飛び散るワインを浴びながら、樽棚にはさまれた通路を走った。
 
 ハックション‼
 
 黒い釘が追いかけてくる。そのうちの一本に、またしても肩を刺し貫かれた。
「……ッ‼」
 やつが樽の上に跳び上がり、私は素早く樽棚の下に滑り込む。
 盛大なくしゃみが、耳朶を打つ。
 フランスから取り寄せた高価なワイン樽が、木端微塵になった。愛好家たちがこれを見たら、地団駄を踏んでくやしがるだろう。
 案の定、インキュバスは私たちを見失ったようだった。こいつは釘を飛ばすしか能がない。樽の上を歩きまわるやつの荒い鼻息を聞きながら、私はそう断じた。つまり、下級の悪魔だ。
「アグリッパを渡せ、ロリンズ」
「ボクのことを言ってるよ……ちくしょう、呼び捨てにしやがって」
「必要なときは呼びますから」ケンカ腰で外套から出てこようとするアグリを、私はふたたび押し戻した。「おとなしくしててください」
 天井からぶら下がった角灯が揺れるたびに、インキュバスの禍々しい影が伸びたり、縮んだりした。
「アグリッパはどこだ、ロリンズ?」インキュバスが呼ばわる。「お前はマニピュレイテッドだろ? マニーのお前があんなものを持ってたってしようがあるまい」
「あんなろくでもない本はもう燃やしてしまいましたよ」
 私がそう切り返すと、懐のなかでアグリが腹を立てて暴れた。なにかわめいたようだが、よく聞き取れない。だから、外套の胸を少しだけ開いてやった。
「いつまで遊んでるんだよ、ユマ」アグリが顔を出して文句を言った。「あんな雑魚、さっさとやっちまいなよ。今日はシオリが新曲を歌うんだよ。早くうちに帰ってテレビを観ないと」
 アグリの声をかき消したのは、空気を吸い込むような音だった。
 私がアグリを懐に押し込むのと、インキュバスがまたくしゃみをするのと、ほとんど同時だった。
 
 ハックション‼
 
 その拍子に、やつの口から鼻から、黒い釘が四方八方に飛び出す。釘は私が先ほどまで身を隠していた石柱を削り取り、丸天井に突き刺さり、すでに蜂の巣のイダルゴ司祭をもっと穴だらけにした。
 もちろん、私の上にうずたかく積まれた樽をも破壊したので、私とアグリは全身にワインをたっぷり浴びてしまった。
「あいつ、もう許せない‼」アグリがわめいた。「紙のボクをこんなに濡らすなんて……ユマ、さっさとボクをやつに渡すか、やつに名前をつけろったら‼」
「しようがないですね」
 アグリが怒っている。もたもたしていると、どんなとばっちりを受けるか知れたものではない。
「もう少しあの夢魔を観察したかったのですが」
 胸のホルスターからリボルバーを引き抜くと、私は弾倉をふり出して残弾を確認した。
 残り二発。
 もう撃ち損じは許されない。
 そのあいだにも、インキュバスは樽棚の上を跳ねまわって、私とアグリを探している。
 私が弾倉を銃身にふり戻す、ガチャッ、という音に、インキュバスが反応した。
 
 ハア──ハア……
 
 やつが何度か、短く息を吸い込む。
 
 ハックション‼
 
 その口と鼻から釘が乱射された直後、私は壁を蹴って樽棚の下から滑り出た。
 樽の上に立つインキュバスが、サッと手洟を飛ばしてくる。
 私は顔を逸らし、わずか一インチのところで釘をかわす。黒い釘は、石の床に、頭まで埋まった。
「汝の名はスニーズ(くしゃみ)である」私は言った。
 インキュバスがニヤリと笑った。
 私が拳銃をやつの顔に向け、引き金を引き絞ったときにも、まだ笑っていた。だから、他の悪魔たちと同じように、やつもアグリの能力のことをなにも知らないのだと分かった。
 銃声が轟き、銃弾がスニーズの頭を半分ほど吹き飛ばした。そのときになってようやく、やつは残った片目をパチクリさせた。人間の銃弾に身を削られたことが、信じられないようだった。
 やつはよろめき、樽棚から仰向けにドサリと落ちた。
「油断しましたね」私は立ち上がり、スニーズを見下ろした。「私がお前の名を知らないと、高をくくっていたのでしょう?」
「オレたちを殺すことはできん」やつが言った。「お前たちにできることは、せいぜいオレたちを追い払うことくらいだ……いいか、ロリンズ、オレは戻ってくるぞ。必ず戻ってきて、お前を破滅させてやる」
 スニーズは喉の奥でグルルルと低くうめき、大きく息を吸い込む。
 やつがくしゃみをする前に、私は最後の一発をその口に撃ち込んでやった。銃声が轟き、夢魔の頭が跳ね上がった。
 それでもまだ、赤い目で睨みつけてくる。胸が大きく波打ち、銃弾に引き裂かれた口から悪臭を放つ液体を嘔吐したが、そのなかには黒い釘がいくつか紛れ込んでいた。
 名もなき下級の悪魔を退治するときは、その名を呼べば、体に傷を負わせることができる。しかし、やつの名は「スニーズ」ではない。それは、私が咄嗟につけた名前にすぎない。せめてもの慈悲に、私はスニーズの無言の問いに答えてやることにした。
「たしかに、私はお前の本当の名を知りません」懐からアグリを取り出す。「しかし、私の相棒はお前に新しい名前をつけることができるんです」
 スニーズが目を見開く。
「こんなに小さな本だとは思わなかったでしょう?」私はアグリをかざした。「これがお前たちが探しているアグリッパです」
「ボクたちにはお前を殺せないだって?」アグリは心底楽しそうに、ケッケッケッ、と笑った。「でもね、お前みたいな弱虫はボクの大好物なんだよね」
 このとき初めて、スニーズの赤い目が、後悔と恐怖に支配された。
 私はアグリを開き、それをスニーズに向けた。黒く塗りつぶされたそのページでは、すでにアグリが牙の生えた口を大きく開けて待っていた。
「我が黒き聖書の血肉となれ」
 ゴウッと旋風が巻き起こり、目を見開いたインキュバスがアグリの口へと吸い込まれていく。アグリは舌なめずりをし、悪魔の体を無慈悲に嚙み砕いた。
 スニーズのほうは口を吹き飛ばされているので、泣くこともわめくことも、もちろん文句を言うこともできない。
 アグリは「いただきます」に相当する言葉を、七カ国語で叫んだ。しばらく一心不乱にバリバリ、ボリボリと貪り食っていたが、やがて悪魔のような野太いゲップをして、それでおしまいだった。
 ガブリエラ・デ・ラ・エレーラの純潔を奪い、ルイス・イダルゴ聴罪司祭にその罪を着せた夢魔は、こうして我が黒き相棒の腹に収まり、アグリッパの体に「スニーズ」のページが新たに書き加えられたのだった。


1[操作されざる者]


 ガブリエラ・デ・ラ・エレーラの父親であるドン・フアレスが私の手を取っておいおい泣き、母親のドニャ・フアレスは私にキスの嵐を浴びせ、祖母のドニャ・マルガリータは私の首にロザリオをかけ、二人の兄たちはかわるがわる私を抱擁したので、フアレス邸を辞去するのにえらく時間がかかってしまった。
「マエストロ(先生)」恰幅のよいドン・フアレスは、私のことをそのように呼んだ。「それで娘は……ガブリエラは、その……まだ生娘と言えるのでしょうか?」
「もちろんです」私は請け合った。「夢魔は取り憑いた相手の夢のなかに現れて、誘惑します。ガブリエラは夢のなかで夢魔とまぐわいました。それが彼女の肉体にも影響をおよぼしたのはたしかですが、この現世ではガブリエラはれっきとした処女ですよ」
 私としては早くちぎれた腕の修繕をしたかったが、二人の兄たちにかわるがわる詳細な説明を求められ、応じないわけにはいかなかった。
「夢魔を夢のなかからおびき出すのに、私たちは悪魔の分け前(デビルズ・カット)を用います。デビルズ・カットは悪魔の好物で、ウィスキーに処女の小水を混ぜたものです。処女の小水でなければ、やつらは洟もひっかけません」
 フアレス家の人々がどよめき、口々に祈りの言葉を唱えた。
「つまり」と、私は続けた。「ガブリエラの小水を混ぜたデビルズ・カットで夢魔をおびき出せたということは、ガブリエラは紛うことなき処女だということになります」
 ドン・フアレスはまた私の手を取っておいおい泣き、ドニャ・フアレスはまたひとしきり私にキスを浴びせ、二人の兄たちはガブリエラの小水を所望したときに私をぶん殴ったことを心から詫び、祖母は何度も胸の前で十字を切ったのだった。
 
 ほうほうの体でフォード・マスタング・コブラに乗り込んだ私は、まずアグリを助手席に放り出した。
 ルームミラーで自分の顔をあらためると、金色だったはずの私の人工毛髪は、ワインをたっぷり浴びたせいで、赤黒く染まっていた。
 黒いスーツはズタボロで、ネクタイもちぎれている。
 アグリは、早く車を出せ、家に帰ってテレビを観るんだと騒いだが、その前にやらねばならないことがいくつかある。
 人間ならばこういうとき、煙草でも一服するのだろうが、煙やニコチンは私の電子回路にとって大敵である。
 私はまず、ちぎれた左腕の放電を止めた。火花を散らすコードを絶縁体クリップではさむだけの、簡単な処置だ。
 それから、バッテリーの残量を確認した。たいした敵ではなかったものの、それでも視界に呼び出した電力帯(パワーレンジ)によれば、使える電力はすでに二十パーセントを切っていた。
 イグニションにキーを挿し込み、エンジンをかけると、私は片手でステアリングをさばきながら、黒いマスタングを出した。
「ちょっと、ちょっと、ちょっと‼」
 無視して、アクセルペダルを踏み込む。エンジンが、獣のような咆哮をあげた。
「そっちじゃないよね?」裏表紙をバタつかせて、アグリが抗議した。「うちに帰ってテレビを観るんじゃないの?」
「テレビなら、レイモンドのところにもあります」
「冗談だろ!?」アグリがわめいた。「あんなやかましいところで、シオリの歌を聴けっての? 今夜は新曲をやるんだよ?」
「前から一度訊きたかったんですが」私はチラリと相棒に目を走らせた。「あなたはもう何千年も生きているんですよね?」
 アグリが用心深く口をつぐむ。
「そんなあなたを、これほどまでに夢中にさせるものが、まだこの世にあるんですか?」
「ユマはなんにも分かってないなあ」そう言って、アグリは鼻で笑った。「人間ってのはね、楽しみながら堕落していくものなんだよ。ボクがどうしてルキフェルを嫌いになったか、分かる?」
「いいえ」
「ルキフェルたちは人間を破滅させようとする。でも、ボクは違う。破滅なんて、醜いよ。ボクが見たいのは、堕落していく人間の姿さ。なぜなら──」
「堕落は美しい」私はかぶせた。「ですよね?」
「そのとおり」アグリは満足げに続けた。「人間を堕落させるには、人間を楽しませなくちゃならない。それにはまず、このボクが楽しまなくちゃならない。デズモンド・ロリンズには、そこのところがちゃんと分かっていた。あぁあ、デズモンドはいいやつだったなあ‼ 今頃は地獄でイジメられてるだろうけど、少なくとも人生をめいっぱい楽しんだもんね。分かるかい、ユマ? それが人間とマニーの違いだよ」
 マニーは「操作されし者(マニピュレイテッド)」の差別用語だが、アグリの口が悪いのはいつものことなので、聞き流すようにしている。
「ルールは破るためにあるし、魂は堕落するためにある。人間には堕落できる魂があるけど、マニーにはそれがない。だからお前にはシオリの歌も理解できないし、ずーっと退屈なマニーのままなんだ。デズモンドの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいね」
 デズモンド・ロリンズ。
 マニピュレイテッドの電子頭脳回路を作る上で欠かせないレアメタルを牛耳っていた、大富豪にして作家、無類の拳闘好きにして法律家でもあった。
 国際連合でAI平等法を提唱し、その起草者の一人でもある。マニピュレイテッドに向けられる憎悪ほど愚かしいものはない、とデズモンド・ロリンズは国連で演説をした。彼らは我々の似姿であり、人間と同程度の自由は保障されてしかるべきである、と。この法律によって、マニピュレイテッドは主の死後に遺産として贈与することが禁じられ、私のように多くのマニピュレイテッドが自由になった。
 そう、デズモンド・ロリンズは私のかつての主で、私の名は彼が付けた。彼がいなければ、いかに見た目が人間と同じでも、私たちが自由都市で人間と同等の権利を享受できる日など、来ることもなかっただろう。
 私のようなマニピュレイテッドには理解に苦しむことだが、どんな人間にも裏の顔がある。デズモンド・ロリンズの裏の顔は、悪魔崇拝者であることだった。彼は莫大な財産に飽かせて、伝説のアグリッパを探し求めた。
 アグリッパ──十六世紀の哲学者にして悪魔崇拝者の、ハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ・フォン・ネッテスハイムが悪魔より賜ったとされる書物だ。古代の密儀や、悪魔を呼び出す呪文が記されており、ネッテスハイムはこの本を通じて悪魔の研究を行っていた。
 デズモンド・ロリンズは、絶え間ない探求と悪魔的執念で、オスカー・ワイルドがアグリッパを所有していたことを突き止めた。
『幸福な王子』で知られるこの十九世紀の作家が、『ドリアン・グレイの肖像』という小説を発表したのは、一八九〇年のことである。
 美貌の青年ドリアン・グレイは、絵のモデルを生業としていた。友人であるヘンリー・ウォットン卿にそそのかされて堕落してゆくドリアンは、美貌を失うことを激しく恐れるようになる。自分のかわりに絵のほうが老いればいいと願い、それが実現する。
 ドリアンが快楽に溺れ、悪徳に耽るたびに、彼の肖像画は、彼のかわりに醜くなってゆく。やがて、ドリアンはその絵が人目に触れることを恐れだす。なぜなら、その醜い肖像画こそが、自分の魂なのだから。
 そこで彼は、肖像画をナイフで突き刺す。
 しかし、絶命したのは、ドリアン自身だ。のちに警察に発見されたドリアン・グレイの死体は、しなびて胸の悪くなるような姿に変わり果てていた。一方、彼の肖像画は、輝くばかりの彼の美しさを永遠に刻みつけていた。
 ドリアン・グレイを堕落させたヘンリー・ウォットン卿のモデルが、アグリッパだったのである。アグリ自身も、そのことは認めている。つまんない小説さ、と言っていた。堕落の美学を文学に閉じ込めようだなんて……人知れず儚く消え去る、それこそが堕落の美しさじゃないか。
 ちなみに、オスカー・ワイルドもいい死に方はしなかった。破産、逮捕、投獄、異郷での客死。アグリと関わって、無事で済むはずがない。
 車を走らせながら、私は助手席を窺う。
 アグリは明らかにむくれていた。その証拠に、閉じたページのあいだから、赤い炎がちょろちょろ漏れ出ている。
 アグリ、と私は呼びかけた。「あなたの本当の名はなんですか?」
「はあ?」彼は彼の炎を使って、私に中指を突き立ててきた。「そんなの、教えるわけないじゃん。バカじゃないの?」
「すみません」私は前方の道路に目を戻した。「ちょっと訊いてみただけです。他意はありません」
 私とスニーズが戦っているあいだにひと雨あったようで、アスファルトは黒く濡れ光り、滲んだ街灯やネオンの明かりが落ちていた。
 自由都市サン・ハドクにはメインストリートが二本あり、それが十字の形に交差している。南北へ縦断する道路がイグアルダード(平等)通り、東西へ走るのがリベルタード(自由)通りだ。
 私は、リベルタード通りを東へと車を走らせた。
 デズモンド・ロリンズがこの地に移り住んだのは、彼がAI平等法を提唱していたためだ。彼は街のインフラを整備し、企業を誘致し、経済の活性化を図った。それ以前のサン・ハドクには、マニピュレイテッドの廃棄場しかなかった。
 象徴的ではないか、とデズモンド・ロリンズは記者会見で言っていた。マニピュレイテッドの廃棄場だった場所に、マニピュレイテッドたちが自由に暮らせる街を創るなんて。
 しかし、それもまた、表向きの理由だった。デズモンド・ロリンズはアグリッパを読み解き、サン・ハドクが悪魔の通り道であることを突き止めたのだ。
 平等と自由が交差するこの街のどこかに、地獄へと通じる扉がある。その扉を開くことができれば、ルキフェルと取り引きすることができるかもしれない。
 デズモンド・ロリンズは神を憎んでいた。
 彼の母親は神父に犯された。彼女が十五歳のときだった。私の主は、そのときにできた子供である。母親のセイラ・ロリンズはそのせいで気が触れ、デズモンド・ロリンズは母親が死ぬまで、ずっと面倒を見ていた。
 母親の親族からは絶縁され、母子、二人きりだった。
 セイラ・ロリンズは教会には決して近寄らず、神父どころか、神父のように見える男を見かけただけで怯え、金切り声をあげて一目散に逃げ出した。
 迂闊にも道路に飛び出して車に轢かれたときも、そのようにして発作的に駆け出したのだった。
 デズモンド・ロリンズは神を崇拝する人間たちよりも、私たちマニピュレイテッドを愛した。
 私の名の「Uma(ユマ)」は、彼の造語「Unmanipulated」、つまり「操作されざる者」を縮めたものだ。
 ユマ・ロリンズ。
 それが、私だ。私は主を失ったフリー・マニピュレイテッドで、主より受け継いだアグリッパとともに、導きの悪魔を探し求めている。
 ルキフェルへと続く扉を開けてくれる悪魔を。
 
 我らと取り引きを望む者は、魂を差し出せ
 我らはその魂を、魂なき者たちへ与えよう
 
 アグリッパに記されたこの一節は、悪魔たちは神によって奪われた魂のかわりに人間の魂を求めているのだ、と長らく解釈されてきた。
 しかし、デズモンド・ロリンズの解釈は違っていた。彼はルキフェルと首尾よく取り引きができれば、私たちマニピュレイテッドに魂を吹き込むことができると信じていた。
 デズモンド・ロリンズは人間よりましな支配者を、この世に送り出そうとした。そのために悪魔が混沌を求めるなら、それに応じるつもりでいた。彼は世界各地のテロリストや、核爆弾を所有している国を、秘かに援助していた。
「言っとくけど」アグリが、おもむろに言った。「ボクの名前を突き止めようなんて、下手な考えは起こさないほうがいいよ」
「分かっています」
「さもないと、デズモンドを溶かしたみたいに、お前のことも溶かしちゃうぞ」
 悪魔は混沌を好む──というのは、じつは正しくない。
 正しくは、悪魔が好むのは人間界の混沌だけで、悪魔たちの棲まう地獄は、天界以上に厳格な秩序が保たれている。
 これは、ちっとも不思議ではない。
 天界のように善意が満ちあふれている場所より、地獄のように悪意に満ちあふれている場所のほうが、統率するのが遥かに難しいのだから。
 だから、地獄を支配しているのは、軍隊並の規律だ。ルキフェルを頂点とし、その下にベルゼブル、ベリアル、アガリアレプト、マモン、バフォメット、サタナキアという将軍たちがおり、この六将軍が八百万の悪魔軍団を束ねている。
 悪魔にとって、名前を知られることは、失敗を意味する。なぜなら、人間は名前をとおして、世界を認識しているからだ。
 つまり、名前がバレた瞬間、悪魔は人間界の秩序に組み込まれてしまう。人間を支配する物理学に縛られる。そうなると、もう二度と地獄へ還ることは叶わない。
 ちなみに、サタンとはルキフェルの別名だ。ルキフェルもまた、成功こそしなかったけれど、本当の名前を隠す努力をしていた。
 悪魔にとって名前とは、それほどまでに大事なものなのだ。
 デズモンド・ロリンズは、アグリの本名を突き止めようとして、私の目の前で溶かされた。今でもそのときの光景が、私のメモリに残っている。
 彼は爪先から溶けていった。脚が溶け、胴が溶け、頭をかきむしる腕が溶け、頭が溶け、最後には魂まで溶かされて、ヘドのような水溜りになってしまった。


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