mwz_note連載見出し用2

全文公開 『マーチング・ウィズ・ゾンビーズ ぼくたちの腐りきった青春に』第6回

友達なんていらない。彼氏も彼女もいらない。ぼくたちは居場所がほしい。
ゾンビがいたってかまわない。
どこか居場所を求めてゾンビのように彷徨う若者たちの、ポップでせつない青春小説。

第4回ジャンプホラー小説大賞、初の金賞受賞作『マーチング・ウィズ・ゾンビーズ ぼくたちの腐りきった青春に』全文公開第6回。

画像1

連載リンク

第1回
第2回
第3回
第4回
第5回
第6回
第7回
第8回
第9回

それではお楽しみください。

マーチング・ウィズ・ゾンビーズ ぼくたちの腐りきった青春に 第6回


 と、いうわけで。
 僕は筆を執った。
 ……いや、まあ、先輩は知ってるよね。これが文芸誌に載せるために書かれたものじゃないってことをさ。
 でも、僕が文芸誌用の小説を書こうと机に向かったことは確かだ。考えてみれば、文芸誌を作ること以外、藤堂翔(とうどうかける)の人生を華やかに彩る方法はなかったからね。
 ……うん、なにも書けなかった。
 そもそも、書くことがなかった。いきなり小説を書けと言われてすらすら書けるようだったら、僕はもっと上手く生きていたよ。
 そして僕は、思っていた以上にゾンビ化していた。

 気がつくと、僕は遊園地のベンチに座っていた。
 ジェットコースターやメリーゴーラウンドが動いているけど、ポップな音楽が流れているだけで、人の気配はない。
 頭に手を伸ばすと、剃ったはずの髪が元に戻っていた。
 いや、ツッコミを入れたくなる気持ちもわかるよ。そりゃ脚色しすぎだってね。でも、これも僕の真実だ。
 本当に誰もいない遊園地のベンチで、僕はぽつんと座っていた。
 射的小屋にかけられた壁時計は、午後の一時を指している。
「お待たせ、翔くん」
 両手にクレープを持って駆け寄ってきたのは、春奈(はるな)ちゃんだった。
「はい」
 春奈ちゃんは抹茶クリームがたっぷりかかったほうを僕に差し出してきた。とりあえず受け取ったよ。でも、食べる気はしなかった。Aさんちの地下室にいる一之瀬(いちのせ)さんを思い出しちゃったんだ。一之瀬さんのほうが色は濃かったけどね。
 隣に腰かけた春奈ちゃんに、僕は乾いた笑みをこぼした。
「……そっか。遂に死んだのか」
「まさか。まだ生きてるよ」
「……夢?」
「夢っていうか……」
 春奈ちゃんは顎に指を添え、どう言ったら僕の腐り始めた脳みそでも理解できるのかなと考えたあげく、これは意外と難題だなと困ったように眉を八の字にした。
「覚えてない? 翔くんは三回入院して、三回退院したんだよ」
「三回入院して、三回退院……ってことは、今は家?」
 僕が遊園地を見回すと、春奈ちゃんは僅かに唇を尖らせた。
「これはせん妄。意識障害の一種って言ったらわかりやすい?」
「せん妄……」
「幻覚、錯覚、妄想、興奮、注意散漫、自己乖離、時間や場所の認識不足……薬による副作用もあるけど、一番の理由は、担当医との約束を破ってしまったこと。〈ゾンビの会〉には参加するようにって言われてたのに、Aさんに会いたくないからって、ボイコットしちゃったでしょ? 翔くんは、もう終わり」
「……要約すると、ここは現実じゃないってこと?」
「そ」
 つまり僕の脳は、現実と妄想が区別できないほど腐ってしまったのか。
「じゃあ、その……」
 僕がごくりと喉を鳴らすと、春奈ちゃんはクレープの生クリームを卑猥に舐め取った。
 最高かよ!!
 僕は抹茶クリームのかかったクレープを、自分の口周りにべったりと塗りたくった。
「ごめん。ゾンビ化進んじゃって、上手く舌が回らない」
「もう、しょうがないな」
 春奈ちゃんはゆっくりと顔を近づけ、ピンク色の舌をぬるりと出し……。

 目を覚ました僕を待っていたのは、最悪だった。
 自分の部屋のベッドに横たわっていた僕は、ガラスの破片の中にいた。天井に吊るされているはずの照明が粉々に砕け散っている。照明の笠も巨人に齧られたみたいに欠けている。壁紙は数えきれないほどのひっかき傷でめくれていて、塗装されたコンクリート壁を剥き出しにしていた。
 視線を這わすと、空っぽの本棚が机に圧し掛かっているのが見えた。収められていた教科書やノート、漫画や小説は床に山を築いている。タンスの引き出しはポルターガイストの標的にされたように開かれ、そこから飛び出した衣服が部屋中にばら撒かれている。
 まるで台風が過ぎ去った後のように、部屋は滅茶苦茶に荒らされていた。
 それだけならまだいいよ。片づければいいだけのことなんだからさ。
 問題は、辺りに飛び散っている緑の肉片。クールルノワールの香水がミント臭を満たしているから臭いはしないんだけど、人間の身体の一部であることは間違いなかった。
 さすがに焦ったね。母さんを殺してしまったんじゃないかってさ。
 シャツの汚れに気づいた僕は、ゆっくりとそれをめくった。えぐれた脇腹が緑色に膿んでいる。ミートローフを指でちぎった、その断片をイメージしてほしい。ゾンビ化によって変性した血管はゴム製品のように硬化するからさ、切断面もすぐに癒着するし、流血というものはないんだ。ただ、水を吸ったスポンジから出るように緑色の膿が染み出してしまう。
 僕はほっと胸をなで下ろした。そうだよ。人間の肉片が緑色をしているわけがない。
 僕の場合、足や腕といった筋繊維や皮膚、そして骨の腐敗は停滞していた。代わりに、脳を始めとした各種臓器の腐敗が一般のゾンビ患者よりも早かった。
 この前、先輩は言ってたよね。僕が睡眠不足で心配だって、白石(しらいし)が相談しに来たぞってさ。スキンヘッドに白い肌をしてたから、目の下のくまが余計に目立っていたし、もしかしたら先輩が心配してくれていたのかもしれない。
 あれはべつに薬の副作用や不安で眠れなかったわけじゃないんだ。
 考えてみてほしい。
 もし、眠っている間に、身体が勝手に動きだし、見境ない暴力に身を投じていたら?
 僕は怖くて眠れなかった。だって、家には母さんがいるんだから。
 大脳皮質の腐敗が始まると、まずは寝ている時の理性が飛ぶ。もちろん、美也(みや)ちゃんに薦めてもらった手錠を寝る前には必ずはめるようにしているし、母さんにもスタンガンを持たせているけどさ、手首を噛みちぎって部屋を出た僕に、母さんがスタンガンを使えるかどうかはわからない。美也ちゃんのパパみたいな例があるからさ。
 ああ、もう僕は、自分の理性ってやつを全く信じていなかった。
「うぐ……っ」
 自我を取り戻すと同時に、舞い戻った痛覚がえぐれた脇腹を燃やした。
 壁にかけておいた鍵で手錠を外し、テーブルの上に用意しておいた包帯をお腹に巻いていく。ゾンビの傷の手当って、あとはクールルノワールの香水を振りかけるくらいしかない。どうせ腐っていくし、変異型白血球のおかげで細菌による二次被害もないからね。
「薬……痛み止め…………」
 床に足をついて気付く。足首が変な方向に曲がっている。脱臼だ。片手を手錠で壁の手すりに繋いでいるのに、この惨状を引き起こせたのは、こいつが原因らしい。ほら、ID細胞って神経系に作用するじゃん。僕の身体はアクロバティックな鯉のように、ベッドの上でバタバタと跳ねてたみたい。僕は悲鳴を呑み込みながら、ぐっ、と足首を元に戻した。
 机の引き出しの中身も床にぶちまけられていたから、僕は這いつくばって痛み止めを探した。処方されたお薬袋を見つけるけど、中にはなにも入っていなかった。
 部屋を出てダイニングに入る。母さんはテーブルについてノートパソコンとにらめっこしていた。商社に勤める母さんは、明日のプレゼンのために製品データをまとめているみたいだった。時刻は夜の一時を少し回っていた。
 邪魔しないよう、固定電話の置かれた棚の引き出しを開けてみる。……そこにも薬は見当たらない。
「母さん、痛み止めの予備ってどこ?」
 母さんはノートパソコンの画面から目を離さなかった。
「母さん……?」
 広げたまま固まっていた指たちを、母さんは慌ててキーボードの上に走らせた。
 これ、絶対、聞こえてるやつだよね。
 そこまで頑なに母さんが僕を無視する理由って、なに?
 考えてみるけど、見つからない。美也ちゃんが星宮(ほしみや)夫妻に支えられていたように、僕も母さんに支えられていたからさ。いつもの母さんなら、痛み止めなんか目もくれず、慌てて救急車呼んじゃうはずだ。入院したって、そのお金は国から出るからね。
 そんな僕の疑問を氷解する手掛かりは、テレビ前のコーヒーテーブルに載っていた。
 そう、沖縄を特集した旅行雑誌!!
 あー、これ、サプライズ失敗しちゃったんだなって、僕は思ったよ。見なかったことにするから、上手くセッティングしてねって。久しぶりに会う父さんの顔も思い描いた。見てわかるものなのか、ちょっと自信はなかったよね。小学生の時以来だもん。僕がわかっても、父さんがわからないかもしれない。僕はゾンビ化進んでるし。でも、最後の思い出づくりとしては理想だ。母さんも侮れないな。
 ……うん。沖縄行ってたら、先輩にミミガー買ってきてる。
 せん妄のせいで、僕の現実はまだ曖昧だった。
 瞬きしたら、旅行雑誌は安楽死のパンフレットへ姿を戻した。
 僕は慌てて台所のゴミ箱を開けた。生ごみの中を漁ると、くしゃくしゃに丸められた空のお薬袋が見つかった。
 乾いた米粒と油で汚れたそのお薬袋を、僕は母さんに突きつけた。
 母さんは力なく振り返り、僕を見上げてくる。
「ごめんね、翔。私は……」
「トイレに流したってわけね」
 呆れて笑うことしかできなかった。僕の心は、もう乾き切っていた。
「ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね……父さんが出ていった時だってそうだ。謝るだけ謝って、不幸なのはいつも自分だけ……」
 僕は食器棚を開け、中に並んだ食器を一つずつ落としていった。床に落ちたそれらが、ガシャン、ガシャン、と小気味よい音を立てながら割れていく。
「見たいなら見せてやるよ。母さんがどれだけ不幸なのか、見せてやる。たった一人の息子がどれだけ腐っているか……軽薄で、俗物で、卑劣で、傲慢で、横暴で、凡才で、自虐的で、独善的で、自分勝手で、身の程知らずで、ただ騒ぐだけの最高に哀れな藤堂翔っていう人間を──」
「見たくないの!!」
 母さんの叫びに、僕は手を止める。
 母さんは涙を流しながら、首を横に振っていた。
「もう見たくないの。翔が苦しんでいる姿は」
「…………」
「ごめんね、翔。もう、やめましょう」
 泣いている母さんの姿なんて、僕も見たくはない。
 僕はそのまま家を飛び出し、階段を駆け下りて駐輪場に停めていた自転車にまたがった。
 夜の住宅街を自転車で疾走する。もしかしたら、夜空に叫んでいたかもしれない。
 それでも、母さんの言葉は僕の中で何度もリフレインした。
 ──ごめんね、翔。もう、やめましょう。
 いや、母さんの気持ちは痛いほどわかったよ。
 理性を失くした僕は、もはや藤堂翔ではなく、ただのゾンビだ。それでも、姿かたちは藤堂翔。自分の息子が獣のように唸りを上げて暴れ回る姿なんて、誰が見たいと思う? しかも自分に危害を加えるかもしれないし、そして僕の脇腹はモザイク必至なほどにグロい状態に陥っている。こうなるんだったらさ、僕が僕として最期を迎えられるよう、さっさと安楽死してもらいたいっていうのは当然の願いだ。
 でも、僕はまだ死ねない。死ぬには早すぎる。
 だって、僕はまだなにもしていないんだから。
 このまま、なにもないまま死ぬなんて、そんなのあんまりじゃん!!

 エナさんのアパートに辿り着いた僕は、階段を上がって二階、エナさんの部屋の前までやって来た。ほら、これで先輩も納得したでしょ。こんな高さのベランダから落っこちて死ぬなんて無理じゃん。
 死にたいなんて、全く、贅沢な悩みだよ。僕は苛立たしさと痛みを必死に抑えながら、インターホンを押した。
 返事はない。
 インターホンを連打する。いつまで経ってもドアの向こうで音はしなかった。
 ただ、窓から灯りが漏れていた。寝落ちしているのか、あるいはふらっと買い物に出かけたのかもしれない。連絡を取ろうと思ったけど、スマホを家に忘れてきちゃったからさ、僕は舌打ちをしてドアノブを握った。
 開けるつもりはなかったよ? ガチャガチャ鳴らしてストレス発散しようと思っただけだ。でも、鍵がかかっていなかったからさ、ドアは勝手に開いちゃった。
「……入りますよ?」
 とりあえず声をかけてから、僕は中を覗き込んだ。
 すぐに閉じたね。やっぱり、この人とは関わっちゃいけなかった。
 僕は何事もなかったように、来た道を戻っていった。
 でも、脇腹の痛みには耐えられなかった。それにドアノブには僕の指紋がついているわけで、もし事件性ありとなれば警察に疑われることは容易に想像できた。彼女に助けを求めた時点で、僕はジ・エンドだったんだ。
 脇腹を抱えて回れ右をし、僕はエナさんの部屋へと入っていった。
 ワンルームのその部屋で、下着姿のエナさんは口から泡を吐いて倒れていた。
 救急車は後だ。いや、先に警察に通報すべきだろうか。まあいい。
 僕はエナさんが握っていた薬容器を奪い取り、中身を床にぶちまけた。
 ジェイゾロフト、エビリファイ、ルネスタ、レキソタン、ロゼレム……名前だけ覚えたそれらがどれであるのかわからない。それどころか、見たこともない薬がまだまだたくさん入っている。用量・使用法なんて言葉はエナさんの辞書になかった。
「どれだよ、痛み止めっ」
 エナさんのスマホを手に取り、彼女の指を借りて指紋認証のセキュリティーを潜り抜ける。ネットで薬の種類について調べようとしたら、〈康太(こうた)〉のメッセージが目に入った。
 誰だよ、康太!!
 ……あっ、べつに重要人物じゃないし、ページを戻しても見つからないと思う。ほら、エナさんに新しい彼氏ができたって言ってたじゃん? それが康太。
 エナさんはこの康太に振られ、いつものように絶対に裏切らない友人たちを頼ってみたものの、あろうことか見事に裏切られてしまったみたい。康太はもう出てこないから、忘れちゃっていいよ。
 足首にひんやりとしたなにかが触れたのは、その時だった。
「うわっ!!」
 僕は跳び上がり、僕の足首を掴んできたその手を蹴飛ばした。
 エナさんは「うぅ……」と苦しそうに呻きながら、
「救急車……」
 と呟き、気を失った。

 ちょっと入院が必要だね、と近くの病院で言われたエナさんは、担当医がどうのこうのとごねて、僕と一緒に品川の国立病院へとタクシーで移動した。
 僕はCTスキャンを撮ってもらい、担当医に「結構、きてるね」との診断をもらって、またまた入院することになった。
 僕はもうステージ3に移行していた。手術で腐敗部分の摘出を勧められたけどさ、それで腐敗の進行が遅くなったり、あるいは治ったりすることはないと言われたから、「なら大丈夫です」と断った。母さんとも気まずい関係になってしまったし、自分の病状を直視したくなかったから。

 翌日。
 荷物を持ってきてくれた母さんと、僕は一言も口をきかなかった。あなたに命を頂いたけれど、これはもう僕のものなんで、そこんとこよろしくお願いしますよってね。母さんはAさんに肩を抱かれながら病室を出ていった。僕の知らないところで、母さんもAさんといろいろ話しているみたい。
 点滴が終わった僕は、スマホで呼び出しをくらい、一度、待合所に足を運んでからエナさんの病室へと向かった。
「……どうして、救急車呼んだの」
 これ、ベッドにうつ伏せになるエナさんの第一声ね。
「あと少しで死ねたのに。……あのまま放っておいてくれればよかった」
「……すみません」
 エナさんは枕に顔を埋める。彼女の黒髪が、白い枕に扇状に広がった。
「どうしてよ。私は皆に尽くしてきたのに、誰も見舞いになんて来ない。私を利用するだけ利用して、私の声なんて誰も聞こうともしない。どんなに頑張ったところで、手首の傷が増えるだけ。こんなのもう嫌なのに、ずっと信じていた親友たちにまで裏切られた。私は死ぬまでずっと一人。そんなの知りたくなかった」
 僕は膝の上の花束を見下ろした。もちろん、これは僕に届けられたものでもなければ、僕が見繕ったものでもない。さっき、待合所に僕を呼びつけたやつに手渡されたものだ。
「松尾(まつお)先輩は大学辞めるみたいです。エナさんはどうするんですか?」
「こっちは死線彷徨ったの。今、そんな話しないで」
「でも、今年も留年決まったじゃないですか。エナさんはまだ二年生ですし、三年に上がるには来年がラストチャンスです。……もしかして、三年に上がるまで四年留年できると思ってました?」
「……そんなの知らない」
 エナさんは投げやりになっていた。
 ああ、ここは彼女を励ましてあげる場面だと僕にもわかっていたよ。でも、こっちはどうあがいても大学を卒業できない身。エナさんの置かれた環境はさ、僕には羨ましくもあり、そして妬ましくもあったんだ。……うん、このフレーズはかなり気に入ってる。
「これ、貰い物ですけど。どうぞ」
 僕は立ち上がり、ベッド脇の棚に花束を置いた。
「待ってよ」
 病室を出ていこうとすると、エナさんがこちらを向かずに呼び止めてきた。
「私の部屋汚したんだから、もうちょっといてくれたっていいでしょ」
「……エナさんは一度も見舞いに来ませんでしたね」
 僕は病室を出ていった。
 階段を下りて一階に行くと、待合所に座っていた水口(みずくち)が腰を上げた。
「どうだった?」
「誰に貰ったかわかってないよ、あの人。恩を売るなら自分で渡すべきだったな」
「俺、べつにエナさんとは親しくないし」
 先輩はきっとビックリしてると思うけどさ、本当に驚いているのは僕のほうだ。
 だって、殴り合った水口が僕に連絡してきたんだよ? おお、仲直りがしたいのか、よしよし、その謝罪を受け取ってやってもいーぞ、と僕が会いに行ったら、こいつは「エナさんに渡してくれ」と花束を託してきた。僕への言葉はなにもなかった。
 ホント、皆揃って腐ってる。
「薬じゃなくておまえを頼ってくれたらいいな。水口依存症。いや、哲夫ホリック?」
「言っていい冗談と悪い冗談があるだろ」
 真剣な眼差しで睨んでくる水口。
 僕にはそれを言う権利があると思うけどな、なんて言い返すことはしなかった。水口は純粋に、エナさんを心配しているようだったから。

 容態が安定した僕は、母さんに退院手続きを取ってもらい、翌日から再び大学に通い始めた。
 なにかを求めて、なんて漠然とした想いはさ、不思議と小さくなっていた。
 もしかしたら、死というリミットに急かされていたのかもしれない。それから逃げるために、フツーに生きていくフリをしていたのかもしれない。あるいは家や病院に閉じこもっていることに耐えられなかったのかもしれない。
 でも、もう僕はクールルノワールの香水を手放せなくなっていたからさ、人混みに紛れることはできなくなっていた。満員電車に乗っても、皆がすーっと離れていくんだ。あんなに〈マーチング・ウィズ・ゾンビーズ〉の公共放送が流れているのに、ゾンビに対する偏見はなくならない。当然だよね。逆の立場だったら、僕も同じことをする。でも、中には微動だにしない人もいてさ。私はなにも気にしてませんよっていうその態度が癪に障るから、そういう人からは僕から遠ざかっていった。僕は気にしているんで、ってね。
 とにかく、僕にはもう見えていたんだ。この身体がいつか腐り果て、自我を失うビジョンが。
 くっきりとね。

「そうか。まあ、そうだよな」
 大学の中庭に池があるじゃん? あのコンクリートで囲まれたちゃっちーやつ。
 そこに僕は白石と並んで腰かけ、構内を行き交う学生たちを眺めていた。楽しそうにはしゃいでいる陽キャとか、なにを詰めているんだってくらい大きなリュックを背負った陰キャ、無駄に白衣を纏って研究者を気取っているちょっとイタイ感じの四年生とか、そういった連中だ。
 白石は「ふむ」と鼻を鳴らし、「いや、そうだよな」と続けた。
「俺の小説も未完。いきなり書けって言われても、そう簡単に書けるものじゃないよな」
「やったじゃん。初めての挫折だ」
「挫折、っつーか、妥協できなかった感じ? 俺、どうせ書くなら納得いくまで書きたいし。でも、おまえ、その頃には死んでんだろ?」
 変なところでプライド高い白石には慣れていたからさ、僕はフツーに流したよね。
「この前、水口がお見舞いに来たよ」
「えっ、仲直りしたのっ?」
 そこまで驚くかってくらいに目を見開いた白石に、僕は肩をすくめてみせた。
「僕にじゃない。エナさんに花束を届けてくれってさ」
「なんだよ、それ」
「あいつにも人間の心があったんだよ」
「へー、臭いだけだと思ってた。まさか、あの水口にね」
 僕は菓子パンをちぎって池に投げ入れた。集まってきた鯉がバシャバシャと水面を尾びれで蹴飛ばした。
「俺、春奈と別れたわ」
 今度は僕が驚く番だった。池の中の鯉も、僕の手から滑り落ちた菓子パンの包装に顔を突っ込んでもがいていた。
「一円単位で割り勘したのか?」
「いや、そういうのはネットで調べてたよ。店員には敬語を使ってたし。俺の強みって、表面的なものじゃないからさ。そもそも、振られたんじゃなくて、俺が振ったのね」
「どうして? なんで? 頭おかしいんじゃないの?」
「いや、なんつーかさ……」
 白石は僕を見てから、頭を抱えた。
 おいおい、僕のせいかよ。
「ちょっと待て、白石。ハッキリ言っておくが、僕はべつに春奈ちゃんのことを好きだったわけじゃない。おまえと共通の話題が欲しくて、好きでいるフリをしていただけだ」
 白石が若干距離を取ったので、僕は慌ててつけ足す。
「ゲイじゃないからな。おまえの性格までは見抜けなかったんだよ」
「いや、わかってるよ。わかってる。べつにおまえが理由じゃねーよ」
 白石は足を伸ばし、池の縁に手をついて、そのまま落っこちちゃうんじゃないかってくらいに胸を反らし──空を見上げた。
「たぶん、飽きたんだな。デートしててもさ、このまま帰ったらこいつどうするだろうなって、そんなことばかり考えるんだ。そしたらいても立ってもいられなくなって、映画観てる時にトイレ行くって言って、そのまま帰ってみた」
「……え? ちょっと意味がわからないんだけど……春奈ちゃんを映画館に置いてきたってこと?」
「ああ。ラインが一つ来た」
「なんて?」
「今どこ、って。既読無視したら、それ以上、なにも来なかった」
「それで?」
「今に至る」
 こんなことを言われて、先輩はなんて言い返す?
 ああ、僕には難解な恋愛事情だ。
 そもそも、僕は恋したことがない。ほら、フィッツジェラルドの法則でさ、誰かに夢中になれるような情熱を持ち合わせていなかったから。
 ただ、膨大な量の小説を読んでいたから、愛が冷める瞬間があるってことは知っていた。
「ごめんね、白石くん」
「なんだよ急に。藤堂くん、気持ち悪いよ」
「いや、おまえが春奈ちゃんと別れたのはさ、やっぱり僕のせいだと思うんだ。ほら、僕はもうすぐ死ぬじゃん? そんな僕が身近にいたから、見つめなくてもいい自分をおまえは見つめ直し、この無情な世の中に希望を失ってしまったんだ」
「……自惚れんな。俺はむしろ、おまえに感謝したい」
 白石は乾いた笑みをこぼす。
「見ろよ。空がこんなに色褪せてるだろ──これがフィッツジェラルドの法則な」
 池に突き落としてやろうと思ったね。
 だって、考えてもみてよ。ただの陽光を浴びながら、まだ高い位置にある太陽に眩しそうに目を細める白石の姿はさ、フィッツジェラルドに囚われた僕がずっとそうしたかったと思い続けてきたものだったんだから。この儚い、どこか夢を見るような瞳の色も、僕が鏡の中で何度も練習したって辿りつけなかったフィッツジェラルドのものだった。
 世界って不公平だよね。イケメン白石は僕が手を伸ばしても決して触れられないものをいとも簡単に掴んでみせて、気軽にポイッと捨ててしまえる人間なんだ。それを今にも死にそうな僕に見せつけてくるんだから終わってる。
 ちょうどその時、ダンス部に混じって春奈ちゃんが僕らの前を歩いていった。
 春奈ちゃんは白石を見て、そして僕と目を合わせた。
 春奈ちゃんはすぐに視線を離し、そのまま歩き去っていった。
 白石は相変わらず空を見上げていたから気付いてなかったけどさ、僕は息が止まったね。
 これ、絶対、春奈ちゃん、僕のせいで白石に振られたと思ってるじゃん。
 もちろん、春奈ちゃんのことはどうとも思っていないよ。白石と一度付き合っちゃってるわけだしさ、僕はそういうところにすっごいうるさいからね。
 でも、誰にでも優しい春奈ちゃんに恨まれながら死ぬのは、さすがの僕も受け入れられるわけがない。



読んでいただきありがとうございました。
第7回はこちら


『マーチング・ウィズ・ゾンビーズ ぼくたちの腐りきった青春に』
製品版も発売中です。