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全文公開 『マーチング・ウィズ・ゾンビーズ ぼくたちの腐りきった青春に』第4回

友達なんていらない。彼氏も彼女もいらない。ぼくたちは居場所がほしい。
ゾンビがいたってかまわない。
どこか居場所を求めてゾンビのように彷徨う若者たちの、ポップでせつない青春小説。

第4回ジャンプホラー小説大賞、初の金賞受賞作『マーチング・ウィズ・ゾンビーズ ぼくたちの腐りきった青春に』全文公開第4回。

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それではお楽しみください。

マーチング・ウィズ・ゾンビーズ ぼくたちの腐りきった青春に 第4回


 会合が終わり、ゾンビ患者の皆が多目的ルームから出ていく中、僕はAさんのもとに向かった。彼女の首から下がるIRZの職員証がさ、ちょっと眩しかったよね。
「すみません、Aさん」
 Aさんは紙コップを片づける手を止め、振り返って笑顔を浮かべた。
「あら、手伝ってくれるの? いい心掛けね」
 ぶっちゃけ、見返りのないお手伝いをするほど、僕はいい人間じゃない。ただ、じっとしていても不安が大きくなっていくだけだからね、Aさんから手渡された布巾でテキトーにテーブルを拭き始めた。
「まさか藤堂(とうどう)くんが私のことを好きになっちゃうとはね。恋とはこんなものなのかしら。でも、ごめんね。私、もうパートナーがいるから」
「明日にでも退院手続き始めときます。新しい恋を探さないと」
 Aさんが笑ったので、僕は愛想笑いを浮かべてから本題を切りだした。
「星宮(ほしみや)さんって、死んだんですか?」
「え、美也(みや)ちゃん、死んだの?」
 Aさんは驚いてみせてから、
「ハハハ、冗談。そんな話は聞いてないから、大丈夫」
「でも、前回に引き続き、今日も来てませんよね?」
「先生との約束忘れちゃったのかも……」
 担当医がしてきた二つの約束は、僕だけではなく、そういうマニュアルとしてゾンビ患者全員に守らせるようになっている。
 Aさんは余ったチーズスナックを一つ口に入れ、
「でも、重要なのはもう一つのほう。それを忘れていなければ、ここに参加しなくても構わない」
「えっ、美也ちゃん、安楽死するんですか?」
 思わず振り返った僕に、Aさんはうーんと考えるようにして、
「一度、取りやめたとは聞いてる。たぶん、もう一度、考えているんじゃないかしら」
 えっ、そんな!! あの美也ちゃんが自分から死を選ぶだって!!
 ……いや、べつに驚くことでもないよね。
 僕もなんとなくそんな予感がしたんだ。美也ちゃんが病院に戻ってこないのは、死に支度に忙しいからだってさ。Aさんに美也ちゃんの近況を聞き出そうとしたのも、ゾンビ先輩として美也ちゃんが参考になると思ったからだった。
 Aさんは僕の頭に手を置き、わしゃわしゃと髪を掻き乱してくる。
「藤堂くんも、そろそろ自分と向き合わないとね。最近、どこかぼーっとしてるから」
「……手、拭きました?」
「クールルノワールの香水つけてるんだから、気にしない、気にならない」
 彼女の言う通り、僕のミント臭の前では、チーズの臭いなんて無力だった。

 美也ちゃんから電話がかかってきたのは、次の日の夜だったと思う。
 本当は、連絡を入れようと思っていた。友達とのBBQは楽しかった? なんてメールすればさ、さりげなく近況を知れるでしょ? それをヒントに、僕は死に支度を始めようと思っていたんだ。でも、彼女の最後の思い出づくりを邪魔したくはなかったからね、僕から連絡を入れることはできなかった。
 病院の消灯は早くてさ、夜型の僕は、その一日のサイクルに慣れることができなくて、空腹を紛らわせるために男子トイレで某掲示板のまとめサイトを巡回していた。人生で全く必要のない知識や経験談、そんなものを読みながら名前も知らない誰かにツッコミを入れ、社会との繋がりを感じていた。
 一通り見終わった後、僕は春奈(はるな)ちゃんのツイッターを覗いた。ほんのちょっとした好奇心からだ。僕のいなくなった大学はどうなっているんだろうってね。
 そして見つけた。〈人生で最高の瞬間〉ってツイートに、クリスマス後にフリマアプリに大量に出回るっていうネックレスをしているセルフィー画像が添えられているのを。
 まあ、春奈ちゃんに彼氏がいないなんてあり得ないと思っていたけどさ、ちゃんとした証拠を見つけられて、正直、気が楽になったよね。金輪際、彼女のことは考えなくていいとわかったんだから。死に支度の選択肢はなるべくシンプルにしておかないと。
 スマホが震動したのはその時だった。
 僕の中の春奈ちゃんがいた場所に、〈星宮美也〉って名前が割り込んできた。
 僕はすぐに電話に出た。
「もしもし?」
〈…………〉
「大丈夫。ここには誰もいないから──」
 ダンッ、という破壊音を最後に、電話は途切れた。
 プー、プー、という無機質な音を聞きながら、僕はしばらくスマホを耳に当てたまま動けなかった。
 電話口の向こうで、美也ちゃんは泣いていた。小さな嗚咽が混ざった、湿った吐息だけを漏らして……。
 僕はすぐに病院を抜け出した。

 病院から一番近い駅は京急本線の新馬場駅だ。でも、山手線に乗り換えることを考えれば品川駅まで走ったほうが早い。新宿駅で中央線に乗り換え、吉祥寺駅に降りる。
 居酒屋地帯から溢れる喧騒を無視し、駅前の商店街を抜けながら、僕は美也ちゃんから託された鍵を握りしめていた。
 閑静な住宅街にある二階建ての一軒家が星宮家だ。敷地を仕切るように塀が走り、庭にはクスノキが植えられている。全体的に大正時代をイメージさせる洋風な造り。
 まだ日の変わらない時間帯。辺りはひっそりと静まりかえっている。
 星と街の灯りにぼんやりとした三日月が、夜空に浮かんでいる。
 柵状の門を抜けたら、防犯用に設置されていた玄関前の灯りがパチッと点いた。駐車場にあったのは黒のBMW。隣にはベンツかボルボがもう一台。
 家から溢れる灯りの中、気になったのは、二階の窓のカーテンの隙間から漏れるもの。
 不法侵入だと訴えられないよう、僕はインターホンを押した。……返事はない。
「夜分遅くにすみません。藤堂という者ですが」
 ドアをノックしてみたけど、誰かが出てくる気配はなかった。
 ドアノブに手をかけた僕は、鍵がかかっていることを確認してから、美也ちゃんに渡された鍵で開錠した。先輩に言われてアガサ・クリスティー作品を読破していたからさ、なにか事件が起こっていた際、解決への手助けとなる事実はできるだけ拾っておかなければと思ったんだ。
 重いそのドアを開けると、中からあのミント臭が流れ出た。美也ちゃんが薦めてくれたクールルノワールのものだ。
「すみません。誰かいますか?」
 しばらく待ってみたけど、電気機器の奏でるジーという音が聞こえるだけで、空気は凍ったように動かない。
「……お邪魔しますよ」
 靴を脱いで玄関を上がった僕は、そのまま奥へと進んでいった。
 リビングには4Kの大きな薄型テレビが置かれていた。向かいには高級そうな革が張られたソファがあった。使いこまれたアンティークものみたい。
 棚には雑誌や旅行のお土産みたいな置物がいくつかあり、並ぶ写真立ての中には星宮家の大切なひとときが切り取られていた。
 写真の中の美也ちゃんは、ご両親と一緒に笑顔でピースしながら、二本の脚でしっかりと立っていた。中には大きなホールでピアノを演奏する美也ちゃんのものもあった。スカートから伸びた脚はペダルに置かれている。
 手入れが行き届いたそれらは、暖色の灯りに照らされて、柔かく輝いていた。
 喉が渇いていたからさ、キッチンに入った僕は、食器棚から曇りのないグラスを借りて、冷蔵庫の中のオレンジジュースを一杯だけ頂戴した。こうしていなければ、自分を保っていられなかった。
 玄関に戻った僕は、そこから続く二階へと上がっていった。
 二階の廊下は真っ赤に染まっていた。
 壁から天井まで、人一人破裂したように、鮮血の花が咲いている。こびりついた肉片や臓物の破片は、肥え太った寄生虫を連想させる。サンゴ砂みたいに床に散らばっているのはたぶん骨だ。
 それでもさ、生臭さなんてないんだよね。
 あるのは、クールルノワールの無機質なミント臭だけ。天井に連なるLEDライトも点きっぱなし。
 まるで理解不能の現代アートに踏み込んだみたいだった。視界がぐにゃりと歪んでいき、僕もその場で破裂しちゃうんじゃないかって思ったね。
 歩を進めると、骨片が靴下を貫いて足の裏に刺さった。痛みはなかった。
 僅かに開いていたドアには、〈美也〉と書かれたクッキーみたいな看板がかかっている。
 僕はそっと中を覗き込んだ。
 女子中学生の部屋だ。ベッドと、小学生から使っているのだろう勉強机、本棚、タンスなどが置かれている。雑多に詰められた教科書やノートとは別に、綺麗に整頓されている小説たち。ライトノベルから難解なものに至るまで、そのジャンルは多岐にわたっている。
 部屋には一人の男性がうつぶせのまま倒れていた。横向きになっていた顔はリビングの家族写真に写っていた男性のもの。美也ちゃんの退院祝いに参加していた彼は、美也ちゃんのお父さんだ。
 美也パパの背中はえぐれていて、食い荒らされたように太いミミズみたいな小腸が飛び出していた。まだ、ぬめぬめと光っている。クールルノワールの香水には防腐作用も備わっているからはっきりはわからないけど、死後数時間も経っていないはずだ。
 彼は右手に包丁を握っていた。使われた形跡はなく、刃の部分が照明の灯りを静かに反射している。
 壁には手すりがつけられていた。最初は車椅子を使う美也ちゃんのために設置されたものだと思ったよ。でも、どう見ても、ベッドからは手の届かない位置にあったんだ。
 手すりには手錠がかけられていた。その先には、肘辺りから切り取られた美也ちゃんの右腕がぶら下がっていた。切断面からはねっとりとした緑色の粘液が垂れていて、その皮膚はゴム製品みたいな鈍い光沢を放っていた。
 床に落ちていたスマホを、僕は拾い上げた。ピンク色のスマホケースに収められたそれは、画面が蜘蛛の巣みたいに割れていた。電源を入れようとしても、充電切れなのか壊れているのか、画面は真っ黒なままだった。
 ずずー。
 廊下からなにかを引きずる音が聞こえてくる。
 僕はゆっくりと振り返った。
 最初に現れたのは腕だった。廊下の床に貼りつくように現れた華奢な左腕は、尺取虫みたいにうねりながら、ずずー、ずずー、と身体を引きずっていた。
 美也ちゃんの目は、もう、白く濁っていた。傷だらけのガラス玉を入れられたみたいに、瞳の色さえ霞んでしまうほど真っ白だった。
 うがぁ、と口を開けた彼女の歯茎も黒く腐っていて、小ぶりな黄色い歯もがたがたにずれていた。もう何本か抜けちゃっている。紫色の舌には変色した毛細血管が黒い菌糸のように浮き上がっていて、そこから垂れるよだれも緑色に腐っていた。
「……美也ちゃん?」
 いつもそうしていたように、僕は彼女の名を呼んだ。僕に連絡してくれた時みたいに、二十パーセントほど残った大脳皮質が〈彼女〉を取り戻してくれると思って。
 一体、どうなったのかわからないんだけど──。
 次の瞬間、美也ちゃんは跳んだ。右腕も両脚もないのに、左腕だけで跳躍した。
 しゃがみこんだ僕の頭上を、美也ちゃんは勢い余って通り過ぎ、そのまま壁に頭をぶつけ床に転がった。
 バタバタと左腕だけを振り回しながら、ソレはぐるりと回転して仰向けになる。
 僕は彼女に馬乗りになった。両ひざで肩を押さえつけ、彼女の左腕をすねと床で挟み込むようにしながら、その小さな身体の動きを封じる。
 美也ちゃんの細い首には、紫色に変色した血管が浮き出ている。
 ──では、私は扼殺で。
 僕は両手で彼女の首を絞めた。全身の体重を一点にかけて、美也ちゃんの気道を押し潰した。
 ぐぇ、とソレは呻いた。がたがたに乱れた歯がぽろりと取れて、ソレの喉へと消えていった。
 切断された両脚で暴れながら、ソレは必死に逃れようとする。僕は人差し指と中指の腹を使って、ソレの頸動脈を押しつけた。行き場を失ったソレの頭部の血液が、眼球を徐々に眼孔から押し出していく。
 でもさ、死なないんだ。
 ソレはちっとも苦しそうじゃなかった。顎が外れそうなほど大きく口を開いてはいるけどさ、空気が欲しいんじゃなくて、僕に噛みつこうとしているだけなんだ。
 そうだよね。わかっていたよ。だって、腕の切断面からぐじゅぐじゅと緑色の膿が吹き出しているのに、ソレは失血死することなく動き続けているわけじゃん? ゾンビって、もはや生きているとか死んでいるとか、そういう尺度では測れないんだ。
 僕は立ち上がり、ソレの左腕を両手で掴んで、その身体を思いっきり壁にぶつけた。飛び散った緑色の体液が、頰についた。でも、まだソレの左腕はピクピクと動いていた。
 何度も、ソレを壁に叩きつける。その身体が完全に停止するまで、何度も、何度も……。
 気付いた時には、ソレは動かなくなっていた。ソレの割れた頭蓋骨の隙間から脳漿がだらだらとこぼれ、ナメクジみたいに床に落ちていった。
 僕はソレを投げ捨て、ベッドに腰を落とした。どこかで時を刻む時計の秒針が、心を引っ掻くようにうるさかった。
 どれくらい放心していたかはわからない。
 僕はずっと、ソレを見下ろしていた。
 ああ、死んだんだなって、思えるまで……僕が美也ちゃんを殺したという実感を得られるまで、ずっと……。

 電話を入れると、Aさんはすぐに軽自動車でやって来た。ライムグリーンの可愛らしいやつ。プロフェッショナルな彼女は玄関で待っていた僕を抱きしめ、警察とIRZに連絡を入れた。
 IRZの特殊衛生処理班に持ち出される遺体袋を眺めながら、僕は星宮家の前で警察の聞き取りに応じた。凶器や犯行方法、アリバイや動機など、もっと色々聞かれるものだと思っていたけどさ、僕が言ったのは名前と美也ちゃんとの関係性だけ。Aさんが答えたのもそのくらいだったと思う。消毒液R4の散布が始まる前に、僕はAさんの軽自動車で病院まで送ってもらうことになった。
 夢を見ているような気分だった。起きたら忘れてしまう夢をね。
 今、こうやってその時のことを思い出している間もさ、美也ちゃんの顔がハッキリしないんだ。三つ編みのおさげ、丸縁のメガネ、切断された両脚、車椅子、そんなぼんやりした彼女のイメージを組み合わせているだけで、瞳の色や声の質なんかはテキトーにこんな感じかなって当てはめているだけ。
 ひょっとして、美也ちゃんっていう人間は実在しないんじゃないか。全部、僕の空想が作り上げたものなんじゃないか。病気に対する僕の恐怖心が無意識に作り上げた虚像なんじゃないか……。
 先輩は今、〈吉祥寺+星宮美也〉とネット検索してるよね。先輩が読んでいるであろう記事に書かれた発見者の〈知り合い男性〉っていうのが僕だよ。
 ああ。完全なるゾンビになった美也ちゃんに、僕の中の美也ちゃんは全部壊されてしまったんだ。だって、その時の僕はまだ正常だったからね。
 虚ろな意識を抱えていたからかな。
 気付いた時には、軽自動車が環八通りを走っていた。
 新大宮バイパスに乗ると、Aさんは笹目橋を使って荒川を渡り、そのまま埼玉県へと入っていった。
「……病院とは逆方向ですけど」
「消灯時間過ぎちゃってるし、今日は私の家に泊まらせてあげる」

 お腹減ってるでしょ、と言い、Aさんは深夜の牛丼屋の駐車場に軽自動車を入れた。
 空腹は感じていなかったけど、満腹も感じられなかった僕は、Aさんに言われるがまま特盛を二杯ぺろりと平らげた。胃袋の位置がわかれば少しは気を落ち着かせられるだろうっていう、Aさんの配慮だね。
 僕がデザートのアイスを食べていると、Aさんはとつとつと話しだした。
「美也ちゃんのご両親みたいな人は意外と多いの。ステージ5のゾンビって言っても、ほんの一瞬だけ自分を取り戻す瞬間があるでしょ?」
「美也ちゃんが僕に電話をかけてきた時みたいに、ですか」
「その自我がなくならない限り、その人もまたいなくならない。医学的には、大脳皮質の八割を失ってしまうと完全なるゾンビって判定されるんだけどね」
 僕は河合(かわい)さんを思い出したよ。ほら、あの廃病院にいたゾンビ。
 僕に襲いかかってきた彼女は、あの時、僅かに残った大脳皮質で自我を取り戻していた。
 ……なに言っていたかはわからなかったけどさ。
「美也ちゃんのご両親は、美也ちゃんがああなってしまった後も、美也ちゃんを美也ちゃんだと思い続けていた。信じていた、と言ったほうがいいかもしれないわ。……美也ちゃん、あの部屋に監禁されていたでしょ?」
 美也ちゃんの部屋の手すりは、彼女をそこに留めておくためのものだった。……って、聡明な先輩には説明する必要もないか。
「でも、父親のほうは美也ちゃんを殺そうとしていましたよ」
「両腕を切り落とそうとしていただけ、とは考えられない?」
「まさか」
 笑って誤魔化そうとしたけど、Aさんは真面目な顔を崩さなかった。
「手錠にかかっていた腕の断面……あれ、なにかに食いちぎられたようだった。たぶん、美也ちゃん本人ね。拘束を解いた彼女は、自分の母親を殺し、そしてやって来た父親を殺した。死体の状況から、この順序に間違いはないと思う。でも、父親の握っていた包丁は使われていなかった。仮に背後から襲われたとしても、反撃する気があったのなら、その包丁は使われていたはずでしょ?」
 美也ちゃんの父親の死因は失血死。即死ではない。包丁を握りしめたまま、彼は娘に背中を食い荒らされていた。あの包丁が強く握りしめられたままだったのも、その激痛に耐えるためのものだった。
「実際、イギリスのノーフォークでは、四肢を切り落としたゾンビを首輪で繋いで地下室に閉じ込めていた家族がいたわ。患者である藤堂くんには伝えていないけど、これはゾンビ患者を抱える家族には必ず説明する事件なの」
「母さんにも?」
 Aさんはグラスの縁を人差し指でなぞった。溶けた氷が底に溜まっている。
「……美也ちゃんにはしたんですか、その話」
「ううん。ただ、彼女は知っていたと思う。調べればすぐに出てくるから」
 僕は失笑したね。言葉を探すのに苦労したよ。
「そんな形で生かされるなんて、そんなの拷問です。生きている者の傲慢だ。美也ちゃんにとっては不幸でしかない」
「でも、美也ちゃんは生きようとしていたでしょ?」
「美也ちゃんは殺してもらうことを望んでいた。もしステージ5に移行したら、IRZの手によらない死を──」
「藤堂くんと、約束していた……でしょ?」
「……あんな姿になってまで、誰が生きたいと思うんですか?」
「美也ちゃんのご両親にとっては、たとえ美也ちゃんがどんな姿になろうとも、彼女を生かすことこそが彼女の望みだと思っていた。ううん、これも信じていたと言ったほうがいいかな。だって、美也ちゃんは、いつでも安楽死できたんだから」
 反論しようと思った。あなたがゾンビだったら、そこまでして生かされることが本望なんですか、ってさ。
 フツーに考えてみてよ。完全なるゾンビとして、恐ろしい腐敗臭とおぞましい外見で醜態を晒し続けるなんて、考えられない。
 でも、ステージ5に移行した人には、それを伝える術がない。
 だから僕らが聞いてやらないといけない。
 ゾンビに残された、たった二割未満の大脳皮質の叫びを──死にたい、殺してくれ、という彼らの叫びを、僕らは聞き取らなければならない。
 ああ、狂ってると思ったね。美也ちゃんのご両親も。彼らの心理をさも当然のように話すAさんも。いつか自我を取り戻すかも、という自分勝手な願望をさ、一途に信じて止まず、それが正義だと言わんばかりに押しつけてくるこの人たちを。
 でも、本当に狂っているのは、僕らゾンビのほうだった。

 それを知ることになったのは、埼玉県本庄市にあるAさんちでのことだった。
 平屋建ての古い家屋は、Aさんが三年前に購入した中古物件で、そこには彼女一人で住んでいる。それまでは赤羽駅近くのアパートを借りていたらしいけど、上の階の住人の生活音がうるさくて、どうせ引っ越すなら自分の家を買っちゃおうかなということで購入したらしい。土地代含め、購入価格は千四百万円。
 もちろん、リフォームを済ませてある。IH完備のキッチンに、浴室には自動湯沸かし装置。外観からは想像できない、いわゆる北欧風インテリア。「内装費の返済に苦労しているのよね」という無駄話を口にしながら、Aさんは僕を地下室へと案内していった。
 階段を下りたところにある重い鉄扉を開けると、あのミント臭が僕の身体に吹きつけた。
 白いタイルが敷き詰められたそこは、ちょっとした浴場みたいだった。隅っこには排水溝があり、洋画で見るような、猫足のついた陶器製のバスタブも置かれていた。
 ガァーと音を立てる空調に僕は身震いした。
「室温を常に十四度にキープしてるの。ちょっと我慢してね」
 Aさんは肩をすくめてから、
「この前、藤堂くん、一乃(いちの)さんのこと訊いてきたよね」
「美也ちゃんが話していたので、どういう人なのかなって」
「じゃあ、初めましてしないと──今日は新しい仲間が加わりました。藤堂翔(かける)くんです」
 Aさんはバスタブを示した。
 僕はゆっくりと歩み寄り、なにも考えることなく覗き込んだ。
「────っ」
 絶句したね。頭の中が真っ白に塗り潰された瞬間だった。
 おいおい、なにがあったんだよって先輩は気になっていると思う。でも、詳しい描写は避けておく。べつに筆力のなさを誤魔化しているわけじゃないよ。ホント、ホント。たださ、先輩には未来があるじゃん? そんな先輩に、僕みたいにグリーンカレーを食べられなくなってほしくはないんだ。あと、ずんだ餅も。
「……これ……生きているんですか……?」
「これ、じゃないよ、藤堂くん。彼女が一乃さん。一之瀬(いちのせ)一乃さん」
 Aさんはバスタブの縁に腰かけ、愛おしそうに中身を見下ろした。
「本当はいけないことなんだけど、私たち、恋しちゃったの。一緒に棲もうって約束してた。この家でね、ずっと、一緒だよって……初めて身体を重ねた夜、一乃は泣いてた。死にたくないって」
「でも……」
「顕微鏡で見てみればわかるかな。彼女の変異型白血球はね、今もまだ動いてる。体細胞分裂を行って、徐々にその数を増やしている。ブドウ糖よりもタンパク質が好みみたい」
「ブドウ糖よりもタンパク質が……」
 いや、ふざけてるわけじゃないんだ、先輩。だって、一之瀬さん、こんなんなってるんだよ? 骨どこいったのさ。狂ってるよ。
「べつに国家機密ってわけじゃないかな。変異型白血球に関する論文はネットにいくつも上がっているから」
「…………美也ちゃんちにR4が撒かれていたのは、それが理由……」
「白血球を変異させるTLCウイルスは抗体で破壊できる。問題は、ゾンビの身体を徐々に腐らせていく変異型白血球。ゾンビという宿主を失った後も、この変異型白血球は、条件さえ整えてあげれば半永久的に増殖し続けるの。感染力はないのよ。変異型白血球って言っても、そのDNAは宿主の持っているDNAにリンクしているからね。もし他人の身体に注入しても、ちょっと炎症を引き起こすくらい。でも、感覚的に変異型白血球がいるっていうのは嫌でしょ? だからゾンビの関わった現場には、必ずIRZの特殊衛生処理班が出向いて消毒液であるR4を散布するの。そこに残る変異型白血球を殺すためにね」
 担当医も言っていたよね。このID細胞は寄生虫みたいなものだってさ。ゾンビ患者は宿主であって、ID細胞は独立して増殖していくって。
 僕もこの後、ちょっと調べてみたんだ。そしたら、Aさんの言う通り、ID細胞に関する論文はいくつも見つかった。もし、ID細胞を治すことができれば、それはゾンビ患者を救うことに繋がるからね。ノーベル生理学・医学賞も受賞できるし、研究は盛ん。
 ただ、ID細胞を管理すること、その半永久的増殖性を維持することって、滅茶苦茶難しいらしい。宿主の中では元気なのに、基本、外に出たら死ぬからね。飼育のコツは、活性がギリギリまで落ちる、摂氏十四度を保つこと。生命活動の暴走が命取り。
 ……ん? だったらゾンビ現場でのR4散布って意味なくね?
 おそらく先輩が抱いているであろうこの疑問、最近になって世界中で上がり始めている。だって、アルコール消毒でもいいわけだからね。このR4の散布はIRZの利権絡みだし、フランスなんかでは、他の消毒液の使用許可を求めて、規制を緩和しようっていう論議が議会に持ち込まれている。
 ……ん? だったら、R4自体、意味なくね?
 僕も最初はそう思った。でも、違うんだ。R4の一番の存在意義って、ルコシーが生まれたことなんだよ。ほら、ゾンビ患者の安楽死に使われるやつ。
 さっきも言ったけど、ID細胞って宿主の中では元気なんだ。いや、もう無敵って言ったほうがいいね。宿主が死んだ後も、神経系に作用して宿主を動かしちゃうからさ。これが、つまりゾンビ状態。そして、ゾンビは脳みそを破壊されない限り動き続ける。アルコールをかけたって、漂白剤を体内に注入したって、物理的に脳みそを破壊されない限り動き続ける。
 そうなんだ。ゾンビ患者を安楽死させる場合、患者の体内にあるID細胞も駆逐しなければならないんだ。宿主が死んでも、その身体がなくならない限り、ID細胞の暴力的な増殖は止まらないからね。せっかく安楽死したのに、葬儀の途中で棺桶からゾンビ出てきちゃったら大変でしょ?
 ルコシーがあるからこそ、僕らゾンビ患者は安心して余生を過ごせるんだ。ゾンビになる前に〈ヒト〉として死ぬっていう選択肢を、ルコシーによって手に入れたから。
 話がちょっと逸れたよね。というか、なんの話してた? ……ああ、そうそう、Aさんちの地下室だ。ごめん。これを書いている僕の脳みそ、かなりぐじゅぐじゅしてるから。
 ともかく、この地下室は、一之瀬さんのID細胞を管理するために作られたみたい。
 ……わかってるよ。先輩の言いたいことは。Aさんと一之瀬さんが前に進めるよう、一之瀬さんが美也ちゃんと交わした約束を教えてやれって言いたいんでしょ?
 でも、無理だ。そんなの無理なんだよ。
 Aさんの目はさ、もう自分の目に映る一之瀬さんしか見えていなかったんだ。たとえ僕がなにを言ったところで、Aさんの頭には一之瀬さんの「死にたくない」って言葉だけが響いているんだ。彼女はその言葉だけを信じ、彼女の中の一之瀬さんを守り続けているんだ。それが一之瀬さんのためだと思って……。
「担当医との約束、覚えてる?」
「……〈ゾンビの会〉への参加は怠らないこと。いつでも安楽死できるということを忘れないこと」
「藤堂くんの最期を決められるのは、藤堂くんだけ。その決断が簡単じゃないことはわかってる。でも、いつまでも中途半端なままでいたら、一番不幸になるのは藤堂くんだよ。もし、一乃が死にたかったのなら、私のやっていることは彼女に対しての拷問だもん」
 翌日、Aさんに病院まで送ってもらった僕は、その日のうちに母さんに退院手続きをしてもらった。

 一応、念を押しておく。
 今もAさんちの地下室には一之瀬さんがいる。
 待って。Aさんの正体をネットで調べるのはまだやめて。彼女の名前を伏せている理由を聞いてないでしょ?
 まあ、僕も最初はさ、警察に報せて一之瀬さんを解放してあげようと思ったよ。
 でも、他人の心配をしていられるほどの余裕がなかった。
 だって、考えてもみてよ。必死に生きようとした美也ちゃんもさ、気付いたら自分の両親を殺していて、僕に自分を殺してもらおうと連絡してきたんだ。泣きながら。なにも言わずにね。一之瀬さんに至っては、もはやゾンビと言っていいのかもわからない物体になっている。一番身近なゾンビ先輩が二人とも、笑っちゃうほど不幸な最期を送っている。
 もはや安楽死以外、幸せな終わり方ってあり得ないじゃん。
 ああ、この時の僕はさ、もう胃袋の二割がたが腐っていて、Aさんに奢ってもらった牛丼もAさんちのトイレで吐き出していたんだ。あの短い入院生活だけで、たぶん、五キロは体重が落ちたんじゃないかな。もう、自分の死は他人事ではなかった。
 だから、僕は死に支度を始めることにした。安楽死を選択できるようにね。ゾンビ患者の九十八パーセントが送る最期だし、僕も簡単にそこへ辿り着けると思っていたよ。
 少なくとも、その時は。


読んでいただきありがとうございました。
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