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全文公開 『マーチング・ウィズ・ゾンビーズ ぼくたちの腐りきった青春に』第8回

友達なんていらない。彼氏も彼女もいらない。ぼくたちは居場所がほしい。
ゾンビがいたってかまわない。
どこか居場所を求めてゾンビのように彷徨う若者たちの、ポップでせつない青春小説。

第4回ジャンプホラー小説大賞、初の金賞受賞作『マーチング・ウィズ・ゾンビーズ ぼくたちの腐りきった青春に』全文公開第8回。

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それではお楽しみください。

マーチング・ウィズ・ゾンビーズ ぼくたちの腐りきった青春に 第8回


 安楽死は日本では原則として認められていない。場合によっては、自殺幇助罪や嘱託殺人罪、承諾殺人罪などが適用され、六か月以上七年以下の懲役または禁錮刑という、殺人罪よりは軽いものの、その死に手を貸した人物は法の下に裁かれてしまう。
 ただ、ゾンビ患者の数から考えてもらえばわかるように、もしゾンビの安楽死でいちいち裁判や被告人が生まれていれば、日本からIRZは手を引き、ゾンビ被害は拡大する。
 ああ、僕も最初、オランダやベルギーのように安楽死が合法の国に行けるかと思った。そのためにパスポートを申請する際の写真を考えていたくらいだ。でも、一度、TLCウイルスに感染し、白血球を変異させた者の国家間移動は禁止されているんだよね。たとえ抗体の接種により感染力を失っていても、時限爆弾を受け入れる国はない。アムステルダムなんかではドラッグ中毒とゾンビの区別がつかないからって、ゾンビ患者の立ち入りを禁止する条例も考案中だってさ。
 その通りだよ、先輩。ゾンビ患者は特別に安楽死が許されているんだ。これは国際法で定められた世界共通の制度でさ、その人権擁護の観点から、成立時には新時代の幕開けだとかなんとか騒がれていたらしい。
 じゃあ、なんでわざわざこんな長ったらしい前置きをしたんだと言いたいよね。
 理由は一つ──日本のゾンビ患者に対する安楽死の手続きは超絶面倒くさいんだ。
 まず、本当にゾンビ化してんの? ってところからスタートする。担当医に安楽死の意思を伝えた僕はさ、早速、入院させられ、入れ替わり立ち替わり様々な医師による様々な検査を受けさせられた。これだけで一週間はかかったね。
 次に、本当に当人の意思で死ぬの? っていう身辺調査が始まる。保険金目当てではないとか、怨恨によるものではないとか、洗脳されていないとか、刑事がやって来てあれこれ調べていくんだ。まあ、結構テキトーなんだけどさ、これも大体一週間はかかる。
 これでやっと書類が完成したわけだ。そして、ここからが長い。
 この書類は医療に関するものというより、法と密接に関わっているから法務省の管轄下にある。そして法務省にも様々な部門があって、僕の安楽死書類は法務省内をぐるぐると巡る。人権擁護局、刑事局、総務局と決裁されていき、最後に法務大臣の手によってサインされ、再び人権擁護局へと戻される。
 この安楽死書類の法務省遊歩は、一週間から一か月かかると言われている。ただ、法務大臣が書類にサインしてしまえば、原則的に、その日から五日以内に安楽死を執行しなければならない。長らく待たせておきながら、そこだけはスピーディに行われるんだ。役所仕事って、なんだかよくわかんないよね。
 法務省に書類が提出された後、僕は自分の死が許可されるまで、あの品川にある国立病院での入院生活を余儀なくされていた。ちょっとした軟禁生活と言っても過言ではない。法務省での決裁を止めないために、僕や僕の置かれた環境を保存しておかなければならなかったからさ。
 ちなみに、この死の許可が下りるのを待っている期間のことを、業界用語で〈湯楽の刻〉と呼ぶらしい。特に意味はないけどさ、〈ゾンビの会〉の参加者たちが、「藤堂(とうどう)くんもやっと〈湯楽の刻〉に入ったか」と鬱陶しいくらいに祝いの言葉を投げかけてきたんだ。僕は笑って誤魔化していたけどさ、気分のいいものではなかったよね。

「最近、誰かにつけられてる気がするんですよね」
 いつものように〈ゾンビの会〉の会合が終わると、僕は多目的ルームの片づけを始めるAさんに声をかけた。
 この時にはもう、ゾンビ先輩方は大体死んでいたからさ、僕は〈ゾンビの会〉では一目置かれる存在になっていた。わからないことがあれば藤堂くんに訊けば問題ないよ、というくらい、皆に頼られていた。まあ、後輩ゾンビの訊いてくることって、大体、腐り始めた身体が発する腐敗臭の処理方法なんだよね。
 ──クールルノワールがオススメですよ。ジフ&ジャネットのは、べたつくし、香りがすぐに消えちゃいますから。
 ジフ&ジャネットの香水なんて使ったことないけどさ、こう言っとけば信頼を勝ち取れるから、覚えておいて損はないかな。
 ちなみに、せっかく補助金を貰えるんだからと、僕は担当医オススメの車椅子を購入していた。美也(みや)ちゃんの使っていた型と同じものだ。フツーに歩くことはできたんだけど、担当医もAさんも僕の放浪癖に頭を悩ませていてね、車椅子に乗せておけば、勝手に病院を出ることはないだろうって、二人は考えていた。
 お世話になった担当医とAさんの意を汲んで、僕も車椅子生活を送ることにしていた。自分でも、この病院から一歩たりとも外には出ないと心に決めていたからね。
「つけられてる? 誰に?」
 紙コップを重ねていくAさんに、僕は肩をすくめてみせた。
「午後三時くらいに、いつも一時間ほど、駐車場に車が停まっているんです。白いセダン。ちょうど僕が屋上で潮風を浴びている時間帯に、決まってそこに停まっている」
「屋上は立ち入り禁止だけど?」
 美也ちゃんを咎めてください。もう死んじゃったけど。
「誰かのご家族じゃないかな。三時って、まだ面会時間内でしょ?」
「ずっと前から僕につきまとっているんです。大学の傍でも見かけたし、家の前に停まっていたこともあった」
「珍しい車種?」
 僕は首を横に振り、ポケットからメモを取り出してAさんに手渡した。
 ほら、僕が白石(しらいし)と遊歩道で話していた時にさ、小川を挟んで向かいに停まったセダンを覚えておいてって言ったじゃん? あれのナンバープレートをメモしたものだ。
 Aさんはメモを見下ろし、ハッ、と息を飲んで目を丸くした。
「なーんてね。びっくりした? ……そんな顔しないで、藤堂くん。私がスベったみたいじゃない。残念ながら、私の頭は警視庁のデータベースに繋がってなかったかなー」
 返されたメモを僕がポケットにしまうと、Aさんは僅かに声を落とす。
「あまり関わらないほうがいいかもね。ほら、〈ゾンビ狩り〉かもしれないから」
「僕を殺そうとしているってことですか?」
「その可能性もあるってこと」
「まだ僕の大脳皮質は二十パーセント以上残ってますよ? 時々意識が飛んじゃうけど、医学的には人間です。僕を殺せば、殺人罪に問われる」
「けど、今も刻一刻と、藤堂くんの身体は腐っているじゃない?」
「……ステージ5に移行するのを待っている?」
「あるいは、藤堂くんを攫い、どこかに監禁して、完全なるゾンビになってから殺すってことも考えられるわね。藤堂くんが死んでしまえば、拉致監禁の証拠はいくらでも隠蔽できるでしょ? 藤堂くんの死体を解剖すれば、完全なるゾンビだったって検死報告も作られる。重要なのは、腐敗スピードは推定できないってこと。捕まえた時にはもうステージ5に移行していた、なんて犯人が主張すれば、そいつを罪に問うことはできない。ええ、そういった人たちは無罪を勝ち取っているの。判例を覆すのは難しいわ。弁護士費用にゾンビ関連の補助金は下りないから」
 開いた口がふさがらないままでいる僕の頭に、Aさんは、ぽんっ、と手を置いた。
「院内には警備員がいるから大丈夫。命が惜しかったら、外出しないこと」
「……安楽死するんですけど」
「訂正訂正。殺されたくなかったら、むやみやたらと外に出ないこと」
 Aさんはお茶目に舌を見せてきた。

 翌日の三時頃。当たり前だけど午後の三時頃。つまりは十五時頃。
 僕は屋上へ向かい、鳥類研究会の遺品である双眼鏡で駐車場を覗いた。
「また来てる……」
 その白いセダンには誰かが乗っていた。窓ガラスが陽光を反射しているから車内を見ることはできなかったけど、運転席から明らかな視線が僕へと伸びていた。
 しばらく目が合った後、白いセダンはエンジンを吹かして病院を出ていった。まるで僕に、その存在を見せつけるかのようにね。
 焦燥感に心臓がバクついた。
 いや、べつに〈ゾンビ狩り〉の標的になったって、どうせ死ぬんだからいいやって思っていたよ。
 でも、あの車はずっと僕をつけまわしているんだ。この病院には僕以外にもゾンビ患者がたくさんいるのに、僕の日常を追うようにいたるところに現れる。それって、つまり、標的はゾンビではなく藤堂翔(かける)ってわけじゃん? すなわち、私怨じゃん?
 でも、僕には全く思い当たる節がなかった。もちろん、白石や水口(みずくち)、エナさんは例外だけどさ、三人とも車を持っていないし、あの白い乗用車はレンタカーではなかった。
 気付かぬうちに、誰かに恨まれるような人生を送っていたなんて、それはまるで僕の今までを否定するような出来事だった。エナさんじゃないけどさ、そんなこと知りたくもなかったんだ。過去に出会った様々な人の顔が走馬灯のように浮かび上がっては、彼ら彼女らの姿が嘘だったと知り、僕はさっさと死んでしまいたいと思った。

 先輩は、もしかしたらって思ってるよね。
 だってさ、僕は今、行方不明になっている最中なんだから。
 まあ、あの車に乗っていた人物については、おいおい書いていくことにするね。
 もちろん、父さんではないよ。あの人は、結局、僕の前に現れることがなかったからね。母さんは連絡していたみたいだけど、父さんは僕に会う勇気がなかったんだ。父さんについて僕が知っていることは、静岡県で新しい家庭を築いているってことだけ。
 ともかく、先を続けよう。

 その日、僕の安楽死申請書類が無事に決裁され、法務省から戻ってきた。
 診察室で担当医から安楽死の手順を教えられた僕と母さんは、外出許可を取り、焼き肉を食べに行った。もう僕は点滴しか受けつけない身体になっていたけどさ、母さんになにかしてやりたかったんだ。でも、母さんも中年じゃん? いや、熟年じゃん? 僕、死ぬじゃん? 一人前も食べられないだろうからって、Aさんもご一緒することになったんだ。
「やっぱり、お酒は昼間に飲むに限りますね。この優越感こそ、最高の肴です。あ、お母さん、なに頼みます?」
「いえ、私はもうお腹いっぱいだから……」
「トイレはあの角を曲がったところですよ。あ、すみませーん。生二つ追加でーっ」
 Aさんはもう僕とは話すことがないようで、母さんの心のケアに励んでいるようだった。
 彼女曰く、家族を安楽死させた人たちの中には、深い罪悪感にかられて後追い自殺してしまう人も多いらしい。そのため、僕が安楽死を遂げた後も、母さんとはしばらくカウンセリングで顔を合わせるのだそうだ。ゾンビ利権を貪るIRZの特別課税って感じかな。
 ただ、第三者の力にも限度がある。
 だから、母さんには常に笑顔を浮かべてやりなさい、と僕は言われていた。
 僕はできるだけ明るく振舞ってみせた。スキンヘッドに深いくま、こけた頬などが作り出すもの凄い形相を隠すため、Aさんに少し化粧を施してもらい、「僕を忘れないでね」と生焼けゾンビ肉を母さんの取り皿に置いてみせたりして、母さんに笑ってもらおうと努力した。成功したかどうかは、僕にはわからない。母さんは笑ってくれていたけどね。
 焼肉屋の後は、葛西臨海公園にある水族園へ足を運んだ。
 どこか行きたいとこないの、ってAさんに言われ、それくらいしか思いつかなかったんだ。できるだけ静かな時間を過ごしたかったしね。
 水族園を満喫し、最後はあの砂浜へ向かった。ほら、なんとか条約で保護されるようになったとかいう、あの湾曲した人工の砂浜。
 夕焼けを眺めながら、観覧車を背景に、Aさんは僕と母さんの写真を撮ってくれた。
 これが僕の、母さんとの最後の思い出だね。
 タクシーで病院まで戻り、母さんを見送ったその夜、僕は発作を起こした。

 あの夜は最高にクレイジーな時間だったね。
 理性が吹っ飛んで暴れていたらまだよかったんだけどさ、僕がベッドの上で過呼吸を起こす中、大脳皮質はあり得ないほど冴えわたっていた。冷や汗でシーツはぐっしょり濡れていて、鼓動を速める心臓に全身の毛細血管がぎゅぅっと引っ張られる感覚がした。押し出された眼球に目蓋が引っかかっていたから、真っ暗な病室で、僕は孤独な自分に目を瞑ることができなかった。自分ではどうしようもできないほど、僕は僕を抑えられなかった。
 絶対に使わないと誓っていたナースコールだったけど、僕はすがるように押したね。何度も何度も連打した。
 やって来た看護師は、全く慌てた素振りを見せないまま、シー、シー、と僕をなだめるように歯の隙間から息を吹き、僕の腕に注射器で精神安定剤を打ち込んだ。
 安楽死が決まった患者にはよくあることだった。

 翌日、担当医に言われ、僕は安楽死の予行演習を行うことになった。
 と言っても、僕は自分の病室でベッドに横になっていただけだ。
 僕の腕に針を刺した担当医は、そこから伸びるチューブを通し、赤と青に着色された二色の生理食塩水を僕の身体へ注入していった。本番では、赤いルコシーと青い麻酔薬の二つが苦痛を伴わずにそっと僕の生体反応を停止してくれるらしい。
 赤い液体と青い液体がチューブの中で混合し、紫色の液体となって僕の身体に流れ込んでくる。それを見ていると、なんだか急に眠くなっていって、僕の目蓋は自然と下りていった。なるほど、紫色はゾンビ患者にとって特別な意味のある色だったんだってね。
 ……後から聞いた話によるとさ、生理食塩水だと言っておきながら、青いほうの液体には睡眠薬が混入されていたらしい。僕にはなんの説明もなかったけど、睡眠薬の投与は母さんが同意していたんだ。その日、母さんは仕事を休んで廊下から見守ってくれていた。
 目を覚ました僕の手を握っていてくれたのも、母さんだった。
「おはよう、翔。……よく眠れた?」
「今度は投与前に一緒にいてね。たぶん、次は目を開けられないから」
 母さんは軽く頷いてくれた。死の淵に落ちていく、たった一人の息子が怖がらないよう、手を握ってあげることが自分の責務だと信じていたんだと思う。
 そうだ、先輩。僕の代わりに、母さんに謝っておいてほしい。約束を守れなくてごめんね、ってさ。

 そんなこんなで、安楽死が執行される日の前々日まで、僕は平穏な日々を過ごすことができた。多少、解脱していた感はあったね。僕の心の海は凪ぎ、時間が止まったように静止していた。
 山中湖で言ってくれた先輩の言葉は正しかったんだって、僕は一人頷いた。
 ……でも、やっぱり世界は僕を中心に回ってはいなかった。

 安楽死前日──。
 その日は一日中、中庭で車椅子に座りながら陽の光を浴びていた。ちょっと日差しが強すぎたけどさ、この陽が沈めば、それが僕と太陽のお別れだった。明日は一日中、余計なものを感じないよう、病室にいることに決めていたからね。
 だけど、品川だよ? 大都会の中心だ。いくら潮風が届いているからって、空気中には微量の光化学スモッグが含まれているわけじゃん? 注意報もなにも出ていなかったけどさ、僕は昔からこの光化学スモッグには弱いんだ。
 肺が膨らまず胸につっかえる感じに辟易して、病室でソシャゲでもやろうかと考えていた。補助金でガチャ回し放題だったし、SNSで知らないやつに自慢するのがちょっとした気晴らしになっていたんだ。
 ぴたっ、と頬に缶ジュースを押し当てられたのは、その時だった。
 僕が顔を上げると、いつの間にか隣に立っていたエナさんが悪戯な笑みを浮かべていた。
 フツーに無視しようと思った僕に、エナさんは「ムッ」と鼻を鳴らした。
「どうしてビックリしないの?」
「もう神経が腐ってるんで」
「キモ。はい」
 突きつけられる缶ジュースを見た僕は、炭酸飲料という文字に顔をしかめた。こんなものを飲んだら腹部の腐敗部分が泡立って、スポンジから水が染み出すみたいに溢れてしまう。
「さっき、包帯、取り換えてもらったばかりなんです」
「意味わかんない。はい」
 エナさんは僕に缶ジュースを押しつけ、すぐ隣のベンチに腰かけると、自分の分の缶ジュースをプシュッと開けてから一口飲んだ。「うぷっ」と小さくえずいた彼女は、さばさばとした口調で言った。
「大学辞めることにした。とりあえず、実家帰る。なんていうか、色々吹っ切れたって感じ? ……いや、逃げるだけだろ。この敗北者」
 僕が目を細めると、彼女は肩をすくめてみせた。
「今日はお見舞いに来たんだって。ほら、これ」
 手渡されたのは、エナさん愛用の薬容器だった。振ってみると、彼女の親友たちがからからと音を立てた。
「とりあえず、全部飲めば逝ける。色々入ってるから、ちょっとずつ試してみるのもいいかも。オススメは一番小っちゃいやつ。水色のね」
「……紫色は?」
「返さないでよ。カウンセリング代バカにならないんだから。私はもう、薬断ちして一からやり直すの。……なんか、色々、ごめんね」
 僕がぼんやりとした顔で見ていると、エナさんは促すように顎を突き出した。
「ほら、一緒に死ぬって約束してたでしょ?」
 ……え、一緒に死ぬってこういうこと?
 私は生きることにしたから、あんたは死んでいいよってこの顔、先輩に見せてあげたかった。しかも、私が見届けてあげるからねって、エナさんはこれ以上ないくらいすがすがしい表情を浮かべているんだ。
 僕は薬容器を開け、中身を一気に口の中へ流し込んだ。いくつもの固い塊をハムスターもビックリするくらい頬に溜め、生き残っている歯でゴリゴリと咀嚼してみせる。
 エナさんみたいな人間は社会に害悪しかもたらさない。僕ができることは、自殺幇助罪や嘱託殺人罪、承諾殺人罪などを使って、彼女に実刑を食らわすことだけだ。
 ……でもさ、錠剤にしてはなんか甘いし、スースーするんだ。
「……のど飴だ」
「メンヘラって呼べばいいよ!! 大学生活奪ったっていい!!」
 突然、泣きだしたエナさんは、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、うっすらと乗せた化粧をめきめきと剥がして睨んできた。
「でも、薬は誰にも渡さない!! 親にも、藤堂にも、絶対!!」
 さすがに頭を抱えたね。
 呆れたわけじゃない。
 不幸だと思ったんだ。
 ほら、〈マーチング・ウィズ・ゾンビーズ〉でさ、あの知識人も言ってたじゃん。
 ──現代人は、なにかを求めて彷徨い続けている。
 ──我々はみな、生まれながらにしてゾンビであると言えるだろう。
 TLCウイルスに感染し、白血球を変異させゾンビ患者となった僕は、明日死ぬ。結局、なにもない日々だったけど、少なくともそれを終わらせることはできる。
 でも、エナさんはこれからも彷徨い続けていく。
 なにもない日常を、空っぽな時間の中を、ダラダラと歩き続けていく。
 足を止めることができないまま、ただ漠然としたなにかを求めて……。
 それって、僕が過ごした死に支度の日々に永遠に囚われているってことじゃん。
「……ジャズエイジって知ってますか?」
 僕の口から自然と言葉がこぼれていった。
「フィッツジェラルドが『グレート・ギャツビー』を書いた時代。ニューヨークが狂乱の渦に呑み込まれた一九二〇年代。皆が華やかに着飾って、夜通しパーティーに我を忘れていた、そんな幸福な時代。僕はそのジャズエイジに憧れていました。そこに幸せがあると思って、そんな風に人生を楽しみたいと思って、今までずっと生きてきた。──でも、作りかけのエンパイア・ステート・ビルからフィッツジェラルドが見たのは、暗闇の中に光る小さな箱庭だった。……結局、僕は真っ暗な荒野を一人彷徨っていただけでした。泥に足を取られ、疲労に倒れながらも、華やかなニューヨークの光を目指して歩いていただけでした。もし辿り着けていたとしても、その時にはきっと大恐慌で光も消えている。待っているのは、フィッツジェラルドが別れを告げた街──だからもう、いいんです。失うものなんて、最初からなにもなかったし」
「なに言ってるかわかんないよ」
「死んだほうが幸せな時もあるってことです。べつにエナさんに死ねって言ってるわけじゃないですよ。ただ、その選択を持ち歩いていることは、賢明な判断だと思います」
 パンッ、と乾いた音がした。
 僕は頬を押さえながら、エナさんを見つめた。
 彼女はつけまつげを涙袋に引っかけながら、唇を震わせていた。
「飄々と知ったふうな口ばっかきかないでよ。私にフィッツジェラルドなんて知り合いはいない。そんなやつ、どうでもいい。あんた、もうすぐ死ぬんだよ?」
「……知ってる」
「だったら泣きなよ!! 不幸だって喚きなよ!! つまらない見栄張ってないで、私みたいに主張しなよ!!」
 僕はエナさんから視線を外した。
 本当に自分勝手な人だ。
 こっちは死ぬためにメンタル整えてきたんだ。それを受け入れるために、一人で心の準備をしてきた。明日、無事に安楽死を迎えられるよう、生きることに目を瞑って、なにもかもを諦めてきたんだ。
「やり残したこととか、やりたいこととかあるんでしょ? さっさと言いなよ。それを聞きに来てあげてるんだから」
「……もう、なにもないです」
「キスしてほしいの? 息臭いからほっぺでいい?」
 僕は足下を見つめたまま、なにも答えなかった。
「あっそう」
 エナさんは立ち上がり、しばらく僕を見下ろしてから、
「心配して損した」
 歩き去っていった。
 かつかつ、という足音が遠ざかっていくのを、僕は自分を必死に抑えながら聞いていた。

 タクシーで東京スカイツリーにやって来た僕とエナさんは、当日券を購入し、エレベーターへと向かう列に続いた。もう日は暮れていて、夜景を期待するカップル客や外国人旅行者が多かった。車椅子に座る僕のミント臭に、皆、ちょっと、距離を取っていた。
 最後に、なにがしたい?
 その質問を、僕はゾンビ患者になってから、何度も自分に問いかけてきた。Aさんにゾンビ患者たちの体験談を聞いたり、病に倒れた有名人の人生を調べたり、闘病ものの小説や映画でなにか参考になるものはないかと探した。
 そして知った。その究極の質問の答えは、人それぞれなんだって。
 僕の答えは、東京スカイツリーに上ってみたい、だ。
 笑えるよね。おいおい、最後にしたいことがそれかよってさ。
 でも、僕はフィッツジェラルドのように、僕が過ごした街に別れを告げたかった。
 僕の隣には常に彼がいたからさ。F・スコット・フィッツジェラルドを真似れば、死の恐怖から目を背けることができると思ったんだ。
「お客様はゾンビ患者でいらっしゃいますか?」
 列が止まったかと思うと、やって来たスタッフの一人が声をかけてきた。
 なんとなく予感はしていたんだ。チケットカウンターのスタッフも、僕を見たらギョッと目を剥いて、インカムでやり取りしながらなかなかチケットを売ってくれなかったからね。
 僕はアームサポートを握りしめ、深く息を吸った。ゾンビはスカイツリーに上っちゃだめなのかよ。
「あっ、はい、ゾンビです――私は違いますけど」
 手押しハンドルを握っていたエナさんが言った。僕が手に込めた力を緩めると、彼女は首をすくめて続ける。
「もう、結構、頭があれで……他の人とは別々に乗ったほうがいいかも。お願いできますか?」
「大丈夫ですよ。では、こちらへ」
 スタッフに先導され、僕とエナさんは列を外れた。すでに他のスタッフたちが、「お客様ご案内です」「ご協力お願いします」と、僕らに道を作ってくれていた。
「ねっ。車椅子で来て正解だったでしょ」エナさんが車椅子を押しながら、僕に耳打ちしてくる。「私、相手に気を遣わせるのすっごい得意なんだ」
 鬱陶しいだけだと思ってたけど、メンヘラってそこまで悪くないみたい。
 スタッフに協力し、道を空けてくれるお客さんの姿を眺めていく。あっ、ゾンビだぞ、なんてスマホでパシャパシャやられるのかなと、正直、思っていた。ミント臭だけじゃなく、僕は見た目もかなり進んでいたからさ。
 でも、僕へスマホを向けてくる人はいなかった。それどころか、僕を気にしている人がいなかった。皆、自分たちのことに夢中で、僕のことなんか見えてもいないみたいだった。
 ひょっとしたら、僕から離れていた人って、僕がゾンビ患者だからとか関係なく、きつすぎるミント臭が純粋に嫌だっただけなのかもしれない。……そうだ。絶対にそうだよ。
 僕は自分がとてつもなくつまらない人間に思えてきた。
「……やっぱりやめます」
 片眉を吊り上げ「ん?」と訊き返すエナさんに、僕は言う。
「さっき、思い出したんです。テレビで見たことあった。ネットにもアップされてましたからね。天望デッキだけじゃなく、天望回廊も歩いて回ってた」
 前を行くスタッフに続いて、エナさんに車椅子を押してもらいながら、僕は肩をすくめる。
「小学生の時から、ずっとフィッツジェラルドについて考えてました。彼の書いた小説は全部読んだ。妻のゼルダの小説も、フィッツジェラルドに対する論評も。葬儀の時には、僕も母さんに、可哀そうなやつだった、と言ってもらうつもりです。もう、約束しました。……でも、思うんです。もし、フィッツジェラルドが笑っていたら? 自分の人生が悪いものじゃなかったと思っていたら?」
 僕は唇を舐め、
「なんだってそうだ。僕の目を惹き、憧れを感化するものは、脚色が過ぎている。テレビやネットで見た、ありのままのスカイツリーの夜景は、正直、そんなに綺麗じゃなかった。陳腐で些末だった。僕にはもっと、やるべきことがある。見るべきものがある。だって、明日、死ぬんだから」
 他にやるべきことってなに? 見るべきものってなに?
 僕にはそんなのわかんない。わかんないけど……なにかが、胸に、引っかかっているんだ。
 そんな僕に、エナさんはどうでもよさそうに言った。
「まだ、死んでないじゃん」
 スタッフに案内され、エナさんは僕の乗った車椅子をエレベーターへと押していった。「いってらっしゃいませ」とスタッフに見送られ、エレベーターのドアが閉まる。
 動きだすエレベーターの中、僕は車椅子に座ったまま、ドアの上に設けられた液晶画面を見上げていた。
 エレベーターはすぐに分速六〇〇メートルに達し、みるみるうちに上昇していく。
 僕もエナさんも、一言も言葉を交わさなかった。液晶画面の中でどんどん大きくなっていく数字に、二人とも夢中だった。
 エレベーターがゆっくりと減速していき、やがて停止する。
 ドアが開き、スタッフが出迎える天望デッキで、エナさんは車椅子を押しながら僕を窓際へと連れていく。
 ぶわっ、と世界が広がった。
 数えきれないほどの灯りが、広大な夜空の下、どこまでも続いていた。
「……ちょっと、飲み物買ってくるね」
 エナさんがそっと離れていき、僕を一人にしてくれる。
「…………」
 なにもなかったはずの僕の中で、ぽつ、ぽつ、と灯りが灯っていく。なんでもない思い出たちが、眼下に広がる地上の星々のように、一つ、また一つと、美しく輝いていく。
 部室棟の空き部屋で春奈ちゃんのハンカチを取り合ったことも。
 埼玉の廃病院にゾンビを見に行ったことも。
 病院の屋上で美也ちゃんと血の契約をしたことも。
 食堂で白石、水口、エナさんと話していたことも。
 三人と公園でダンス練習したことも。
 水口と殴り合ったことも。
 白石に春奈(はるな)ちゃんと付き合っていることを知らされたことも。
 山中湖の湖畔で先輩と座禅を組んだことも。
 本当にクソみたいな思い出が、僕の中でキラキラと輝きだした。
 自然と溢れ出す涙を、僕は止めることができなかった。
 死にたくない。
 生きたい。
 あと数秒でいいから、もう一度、先輩たちと一緒に無駄な時間を過ごしたい。
 あの〈マーチング・ウィズ・ゾンビーズ〉のエンドロールに流れる、ファンシーなゾンビと人間が手を取り合って歩いていくシーンのように、もう少しだけ、先輩たちと一緒にいたい。
 でも、もう無理だ。僕は先輩を突き放してしまったし、水口とはまだ正式に仲直りしてない。白石が春奈ちゃんを振ったのも僕のせい。皆で集まっていた場所もなくなったし、集まる理由もない。僕は死に、そして先輩、白石、水口、エナさんは、顔を合わせることなくバラバラな人生を辿っていくことになる。
 きっとこの景色──僕が皆と過ごした思い出は、先輩たちにとって陳腐で些末なままなんだろう。
 そして僕も、いつしか先輩たちの思い出から色褪せて消えていく……。

 ……待った。

 そういえば、先輩、白石、水口、エナさんの接点って僕だ。
 僕がいなきゃ、皆が集まることもなければ出会うこともなかった……。
 たった一つだけ、この無数の思い出たちを、永遠に輝かせ続ける方法がある。
 もちろん、安楽死の決定を覆すことはできない。法務大臣が書類にサインしてから五日以内に処置しなければ、担当医や母さんが法の下に裁かれてしまうから。
 だから、僕は、最後に皆を呼ぼうと思った。
 皆の顔に囲まれながら死んでいこうと思った。
 そしてこれ以上ないってほどに弱々しく、されど皆が聞こえるように呟くんだ。
 ──これからも、四人、ずっと仲良くね。
 死にゆく者の言葉はさ、先輩たちがいくら腐っていようと断ることはできないでしょ。



読んでいただきありがとうございました。
第9回はこちら


『マーチング・ウィズ・ゾンビーズ ぼくたちの腐りきった青春に』
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