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【試し読み】『夏の窓』|郁島青典

第5回ジャンプ恋愛小説大賞で「銀賞」を受賞した『夏の窓』。
電子書籍にて配信を開始しました!

こちらを記念して、本編冒頭の試し読みを公開させていただきます。

あらすじ

第5回ジャンプ恋愛小説大賞銀賞受賞作品。 中学二年生の鈴江風香は、自分の描いた絵がコンクールへの出品作に選ばれずショックを受ける。代わりに選ばれた作品『夏の窓』を描いたのは隣のクラスの朝井大和だった。大和と話すうちに、彼の才能を実感する風香。しかし、ほどなく大和は転校してしまう。二年が経ち、高校生の風香の前に再び大和が現れるが、彼は変わっていて......!?
絵画にかける二人の繊細な心理を描き抜く、俊英のデビュー作。

それでは物語をお楽しみください。

『夏の窓』

 十四歳の風香ふうかにとって、絵は未来そのものだった。
 将来は画家になるつもりでいた。
 日曜日に近所の美術館に行くのが好きだった。中学生は常設のコレクションなら無料で観覧できた。葛飾北斎かつしかほくさいもゴッホもないけれど、風香はそれでよかった。有名な画家の、有名な作品が見たいわけじゃなかった。
 絵は、画家の見る世界そのものだ。
 風香はただ、額縁の中に世界を美しく切り取る技術に憧れていた。

 今、風香には、大切な目標があった。
 市の絵画コンクールに出す絵の代表権を勝ち取ることだ。
 美術の授業で生徒に絵を描かせて、クラスで一番を決める。次に四クラスの中で一番の絵を決めて、学校代表に選ぶ。そして市内の中学から集めたそれらの絵で展覧会を開いて、一番を決める――年に一度のコンクール。
 ありふれた恒例行事だと言ってしまえばそれまでだ。中学生の絵なんてたかが知れていると言ってしまっても、それまでだと思う。ただし、風香の中学校には神童がいた。
 伊藤いとう博貴ひろき。彼の作品は、当時中学一年生とは思えない圧倒的な写実力で満場一致の金賞に選ばれた。
 その絵は入学してすぐの頃、入る部活を探していた風香の目の前に飛び込んできた。
 美術室の前に飾られていた、まるで写真のような林檎りんごの絵。それにも驚いたが、自分たちのひとつ上の先輩が、自分と同い年のときに描いたものであると知ってさらに驚いた。
 一緒に来ていた幼馴染おさななじみ帆乃ほのと、呆然ぼうぜんと顔を見合わせたのを風香はよく覚えている。
「風ちゃん。あれ、描ける?」
「無理。帆乃ちゃんは?」
「ぜったい無理」
 ついこの間まで、小学生だったのだ。図工の時間に絵の具とクレヨンでお絵描きし、休み時間に自由帳のページを色鉛筆で彩った。そのレベルだ。風香たちにとって写真のように精密な木炭画や色鮮やかな油彩画は大人の世界のもので、自分たちに手の届くものとは少しも思っていなかった。
「でも、同い年だって。同い年で描いたんだって」
 帆乃はそう言ってうっとりと絵を見つめ、題の横に記された作者の名前を指さした。
「伊藤先輩って言うんだ。かっこいいなあ。美術部にいるのかな。ね、風ちゃん」
「……同い年でも、これが描けるんだ。それって私たちにもできるってことだよね」
「さあ。わかんないけど、でも、美術部はすぐそこだよ。見学していく?」
「する。しよう。どうやったら描けるのか、教えてもらおう」
 口に出してから、風香は自分の内にある情熱に気がついた。夢らしい夢なんてそれまで抱いたことがなかったのに、突然むくむくと自分がまだ得ていない能力への憧れが湧き出してきたのである。不思議な感覚だった。
 あれから一年と少し。猛練習の末、風香はあのとき見た林檎の絵に勝るとも劣らない立派な絵が描けるようになった。自信もついた。だからこそ、全てのはじまりになったコンクールに応募することは、他のどの課題よりも意味のあることだった。
 二年生の部のテーマは「思い出の風景」。風香は小学校のハイキングで撮った山の写真を題材にして、まずクラス代表にはなることができた。あとは七月の期末試験の最終日にある学校代表の発表、それを残すのみだった。

 放課後、掃除当番も終わると、いつも風香は四階の美術室に向かう。
 美術部の活動場所だ。活動日は火曜以外毎日ということになっているが、実際は部員が好きなときに来ていいことになっている。顧問の教師が学校にいるときなら、常に美術室を開放してくれているのだ。放任主義とも言えるが、少なくとも風香は自由なこの雰囲気が気に入っていた。
 熱心な生徒ばかりが自主的に集まり、各々おのおの集中して好きな絵を描く。騒がしい教室からも校庭からも距離がある美術室は、いつも心地よい静けさで満ちている。けれども時折誰かが絵筆や鉛筆をキャンバスに走らせて音を立てるから、孤独を感じることはない。
 油絵の具を溶かすテレピン油がツンと香るあたりまでやってきたら、もう美術室はすぐそこだ。思う存分絵を描ける、描くことが許される空間。風香はその独特の匂いを嗅ぐと、わくわくしてくるのだった。
 引き戸を開け、室内をのぞきこむ。
 中ではもう二人の生徒が絵を描き始めていた。一人は尊敬する先輩である伊藤博貴、もう一人は幼馴染の渡邊わたなべ帆乃だ。
「あ、風ちゃん」
 くるりと帆乃が振り返る。
 同じ絵に影響を受けて美術部に入った者同士、風香と帆乃は良き友人であり続けていた。時にはライバルにもなる。例の絵画コンクールのためのクラス選抜、風香の最も手強てごわい相手は帆乃だった。
「掃除当番お疲れー。道具出しといたよ」
 帆乃は両手の人さし指で、くいくいと自分の隣のスペースを指した。風香の描きかけていた絵は既にイーゼルに立てかけられ、絵の具や筆の類いも全てその周りにセットしてある。風香が座ればすぐ作業ができる、そういう状況だった。
「えっ、やってくれたの? ありがとう」
「いいの、いいの。ついでだから。ロッカーもキャンバス置いてるところも、あたしたち同じじゃん? 風ちゃんのことだから、一刻も早く描きたいだろうなって思って」
 よくわかっている。風香は苦笑いしながら美術室の中に入ると、壁ぎわに荷物を置いて用意された椅子まで歩いていった。
 今描いているのは、定番の静物画だ。カゴに入れられたプラスチックの果物より、そのカゴが載っているテーブルクロスに落ちる影を描く方が地味に難しい。だが地道なデッサン修業が実を結んだのか、この頃はその苦手を着実に克服しつつあった。
 絵の具をパレットに出す風香を横目に、帆乃がぼやく。
「昔はあたしの方が絵上手うまかったのになあ。抜かれちゃった」
「投票のこと? でも結構やばかったよ、二票しか違わなかったんだから」
「それでも、勝ったのは風ちゃんだよ」
 帆乃は大げさなくらいのため息をついてうなだれた。
「あーあ、あたしももっと色々やってから出せばよかったかも。あたし、悩みすぎるとほんっとキリないから、授業終わったところで出しちゃって。風ちゃんが放課後直してるの見てあたしも直しとけばよかったかなぁって思ったけど、後の祭りだね」
 ぶつぶつ言いながらキャンバスに筆で赤色を塗る帆乃の絵は、風香よりも進んでいる。それこそ、コンクールの候補作を早く出したからだ。彼女は授業の範囲で候補作を終わらせ、部活では部活としての絵を描いている。対して風香は授業の時間をはみ出し、美術部の活動時間を使ってでも候補作に打ち込んでいた。そういう差だ。かけた時間がまったく同じだったなら、負けていたかもしれない。そう思うからこそ、風香にとって同学年一番のライバルは帆乃だった。
「いや、二人とも上手くなったよ」
 伊藤が手を止めて、そう言った。途端に帆乃の顔がぱっと明るくなる。
「本当ですか? 伊藤先輩にそう言ってもらえると、自信がつきます!」
「はは。あー、俺は……まあ幼稚園から絵画教室通ってたからコツを知ってるわけで、見れる絵が描けるのはある意味当然なんだよ」
 照れ臭そうにしながら、伊藤は絵の具を練った。筆で下描き通り塗るばかりでなく、大胆にパレットナイフを使って絵を仕上げるような芸当ができるのはこの美術部でも彼だけだ。入部以来ずっと風香たちの世話をしてくれた伊藤の言葉は、ときに顧問の言葉よりも響く。
「二人はすごい、成長が早いよ。今回の渡邊さんの絵だって、俺は他のコンクールに出してもいい出来だと思う。ただ、うちの学校、そういうとこしっかりしてないんだよなあ。絵続けるつもりなら、鈴江すずえさんも渡邊さんもそのへん積極的な高校受けた方がいいよ」
「伊藤先輩はそうするんですか?」
 風香はいた。伊藤は手を動かしながら答えた。
勿論もちろん。親は俺が美大行くものだと思ってるし、俺もその気だから、対策に強い先生がいるところを志望校にしてる」
 美大、と風香は声には出さずにつぶやいた。美術を本格的に学べる場所。画家になるためにはおそらく行くことになるだろう場所だ。まだずっと先の話とはいえ、風香も無関係ではない。
 と、そこで、「あ!」と伊藤が声を上げた。
 一瞬どきりとしたが、手元は狂わずに済んだ。帆乃も驚いた顔で手を止めていた。
 伊藤が突然、ガタガタ音を立てながら椅子を引いて立ち上がり、画材を端にまとめ始める。
「やべっ、時間だ。俺、先生に進路の相談行ってくるけど、戻ってくるのいつになるかわかんないからそのままにしといて。あとで自分で片す」
 時間ギリギリまで絵を描いていようとして、本当にギリギリになってしまったようだ。
 伊藤は絵の具のついた筆やパレットナイフを洗いおけにつけ、あっという間に走って行ってしまった。風香たちは、わかりましたとその背に向けて叫ぶのが精一杯だった。
 慌ただしい足音が遠ざかって行く。二人はしばしぽかんとして、どちらからともなくまたキャンバスに向き直った。
「……受験かあ、伊藤先輩もう来年はいないんだよね」
 残念そうに帆乃が言った。風香が思うに、この幼馴染ははじめから絵というよりも作者の伊藤個人を目当てに美術部に入ったような気がする。それでも風香と同じくこの一年でめきめきうでを上げたのだから、情熱の力はすさまじいというべきか。風香からすると伊藤はひたすらに「師匠」というイメージなのだが、帆乃にとっては違うらしい。
 風香は少しばかりあきれ混じりに、意地悪を言った。
「私たちも成績次第じゃ来年部活してる余裕ないんじゃない?」
「うっ。それはそうかも。でも今年伊藤先輩とおんなじ賞を取るっていう夢は砕けちゃったから、来年再チャレンジしたいなぁ」
「…………」
 風香は黙り込んだ。帆乃の情熱は、やっぱり凄まじい。その夢を砕いた側である風香には何かを言う資格がない気がして絵に集中するふりをしていると、帆乃が大きく伸びをした。
「はーぁ、負けちゃった。もうこのまま金賞取ってよ、風ちゃん」
 風香はそれを、無茶振りだとは思わなかった。自分が負けていたら、帆乃に同じことを言っていたような気がする。彼女も同じような気持ちで選抜に臨んでいた、そういうことなのだろう。たとえ動機は違っていても。
「……取れたらいいけど、他の学校も美術部の人が強いからね。どうだろ」
「自信のほどは?」
「できることは全部やったつもり」
「なら間違いないね。ふふふ」
 帆乃は楽しそうに笑っていた。それで風香もつられて、ふっと笑った。
 最大のライバルが彼女でよかった。あとは他の三クラスの結果次第とは言っても、風香と帆乃ほどこのコンクールに賭けていた生徒も他にいないだろう。
 風香は市民館で行われる展覧会のことを想像し始めていた。できるなら、金賞を貰いたい。

 ところが、期末試験最終日。発表された選抜結果に載っていたのは、風香の作品と名前ではなかった。
なつまど』。
 選ばれた作品は、そんな題名だった。

 期末試験最終日の終礼で、配られた学校便りを風香は緊張半分楽しみ半分で開いた。
 校長先生からのメッセージや行事の報告に用はない。そのあとに、絵画コンクールに出す学校代表の決定を知らせる欄があるはずだった。三学年分それぞれの決定した絵と、代表者の名前が載っているはずだった。
 そこに書かれているのは自分か、はたまた別のクラスのライバルか。美術部の同級生や絵の上手い同級生の名前は覚えている。
 しかし、いざ開いたその紙に記されていた名前はまったく覚えのないものだった。
「……朝井あさい大和やまとって、誰……?」
 呆然と呟く。
 担任が解散を呼びかけ、周りのクラスメイトが続々下校していってもなお、風香は学校便りを見下ろしたまま固まっていた。
 誰か、近づいてくる影を感じた。
「たぶんそれ、二組の転校生だと思う」
 ようやく風香が顔を上げると、帆乃が立っていた。
「先月来たっていう男の子。あたしも二組の子にちらっと聞いただけだから、どういう人かは知らないけど」
「じゃあ、この絵、滑り込みじゃん。だからこんなに荒いの?」
 風香は顔をゆがめて、紙面に印刷された朝井大和の作品を指さした。
 この絵を見るのは初めてではない。期末試験の期間中、クラス代表の四つの絵は最終投票のためにずっと廊下に張り出されていた。だが、この絵は風香が真っ先に「ない」と思ったものだった。
 お世辞にも上手い絵とは言えない。塗りつぶしただけの空に、ぐりぐりと筆で塗ったような雲。その下に、がたがたの輪郭のひまわりがずらりと整列している。ひまわり畑を描いた絵なのだろうことはわかる、が、はっきり言って下手へただ。
 風香なら、空を青一色で塗りつぶしただけにはしない。雲には影をつける。色を乗せる前にきちんとマスキングをして、他の部分の色と混ざらないように工夫する。ひまわりも、もっとランダムな形や大きさにする。遠くのものは小さく、手前のものは大きく。花びらだって、もっと……。
「……こんなので、いいの?」
 震える声で、風香はこぼした。泣きたかった。
 自分が選ばれないとしたら、それは自分以上の実力を持った人がいたときだと思っていた。これは違う。違うのだ。
 さらに風香の心をき乱したのは、これがいわゆる「変化球」だったことだった。
 画面をいっぱいに使わなかった。規定の画用紙よりひとまわり以上小さな四角い枠を作って中に風景を描けば、普通に描くよりもずっと作業量は少ない。それを、『夏の窓』なんて気取った名前をつけて正当化しているのだ。
 風香はそれが気に食わなかった。
「あの……風ちゃん……」
 気まずそうに帆乃が言った。
「正直、あたしも風ちゃんが一番だと思う。風ちゃんが一番じゃないなら、せめて四組の萩野はぎのさんだと思ってた」
「ああ……私、萩野さんに去年負けたもんね」
「今年は風ちゃんの方が上手いよ」
 まだ絵を勉強し始めたばかりだった去年は、自分より上手い相手に負けた。悔しかったけれど、次の年こそは超えてやろうと奮起するバネにできた。自分より上手いとわかる相手だったからだ。
「慰めてくれてありがと。でも納得いかない。みんなこの絵のどこ見て決めたのかな」
 詳しい票数までは書かれていないものの、一位になったからには風香を上回る票数を獲得したのだ。つまり、より多くの人間が風香の絵よりも『夏の窓』の方が良いと思った。そういうことだ。
 理解に苦しむ。風香はまだ、学校便りを畳めなかった。
「あのさ。先生に聞きに行ってみる? どうしてこの絵なのか」
 帆乃が提案した。
 風香が動かずにいるのではなく動けずにいるのだと彼女は察したようだった。
「聞いてわかる? 投票の結果なのに」
「美術の先生ならわかるんじゃないかな。芸術の価値、っていうの? ね、行くだけ行ってみようよ」
 帆乃は風香から、学校便りを取り上げた。それから、視線で廊下を示した。

 美術の教員室は美術室のすぐ隣にある。
 四階を目指して階段を上る二人は、偶然にも上から下りてきた人物に声をかけられた。
「お……渡邊さん、鈴江さん」
「あっ、伊藤先輩」
 またも進路指導を受けていたのだろうか。紙がいっぱい挟まったクリアファイルと高校のパンフレットを抱いた伊藤はちょうど帰るところのようだった。
 風香はぎこちなく頭を下げた。
「あの……えっと、代表、おめでとうございます」
「そうだ。おめでとうございます!」
 帆乃もそれに続く。朝井大和の『夏の窓』の上、三年生の部の代表に選ばれていたのはやはり今年も伊藤だった。「自画像」という難しいお題を、見事にクリアしてみせていた。
「ありがとう。鈴江さんは……残念だったな。この前渡邊さんにも言ったけど、鈴江さんの絵だって別のコンクールに出してもいい出来だと思う。ネットで出せそうな賞を調べて、顧問に募集要項突きつけたら駄目とは言わないだろうからさ」
 すかさず、帆乃が身を乗り出す。
「ですよね。風ちゃんの絵、悪くないですよね!」
「悪くないよ。候補の四つの中だと一番上手かった」
 風香は愕然がくぜんとした。
 伊藤は今に至っても、風香のことを評価してくれている。美術部で褒めてくれていたのも、お世辞や気休めじゃなかったということだろう。ありがたいことなのに、風香は一切喜べなかった。
 ――なら、どうして選ばれなかったの?
 喉元のどもとまでせり上がってきた疑問を、結局風香は飲み込んだ。
 伊藤はずり落ちて来た荷物を抱え直しながら、何気なく付け加えた。
「ただ、あの窓の絵。あれは……俺にはきっと描けないな」
 風香にはその意味が、よくわからなかった。

 美術部の顧問の答えも、伊藤とおおむね同じだった。『四人の中では風香が一番上手だった』と言うのである。
 だとしたら何故なぜ風香は選ばれなかったというのだろう。何が朝井大和に劣っていたのだろう。風香にも、帆乃にも、まったくぴんと来なかった。
「『投票だとこういうこともあるから』って、逃げだよね。美術の先生なんだから、ちゃんとアドバイスしてほしいよ」
 階段を下りながら帆乃がぶつぶつ文句を言う。風香が心の内にめたモヤモヤを代わりに吐き出してくれるかのようだった。
 自分でわざわざ言うことがなくなった風香は、相槌あいづちだけ打つ。
「……うん、全然わからなかったね」
「これじゃあ来年までにどういう練習したらいいのかわかんないよ。あたしも最近行き詰まってるから、参考にさせてもらおうと思ったのに」
 帆乃はもう来年を見据えているようだった。クラス投票の時点で出品されないことが決まっていたから、風香よりも気持ちの切り替えができているらしい。
 風香も、できることなら切り替えたかった。そのためには今に踏ん切りをつける必要がある。こんな煮え切らない感想しか貰えないままではなく、もっとはっきりした形で。
「やっぱり、本人に聞くしかないのかな」
 先輩も駄目。顧問も駄目。投票した生徒たちを探して聞いて回るのは大変だし、現実的じゃない。となれば残る手段は、直接対決だ。
「風ちゃん、本気!?」
「本気。朝井大和を呼び出す。来週の答案返却日なら学校にいるだろうし、二組の子に伝言頼んで放課後美術室の前に来てもらうの」
「呼び出し!?」
 帆乃は驚いてから、口の前にわざとらしく手をって茶化した。
「……それってなんかちょっと、告白するみたいな感じじゃない?」
 風香は呆れた目で帆乃を見た。
「あのさあ。私は本人から直接どういう作品なのか聞いて白黒つけたいの。そういうんじゃないよ」
「えー。だって、そんなことする子なかなかいないよ」
「クラスの子に伝言頼んで待ち合わせするぐらいはあるでしょ」
 もしかして、もしかしたら、僅かな可能性、『夏の窓』はわざと下手に描いた作品なのかもしれない。何かの表現の一環として。そうでなくとも、時間が足りなかったせいで本来の力を出し切れなかっただけかもしれない。そして隠しきれない能力が一部の人に伝わって、評価につながった――もうそんなストーリーがあるぐらいでないと、納得いかない。
「風ちゃん、でもさ、なんで選ばれたのか朝井くんもわかってないかもしれなくない? だったらどうするの?」
「そうしたら諦めるよ。……しょうがないし」
 なるべくならそうなって欲しくないけど、と風香は心の中で付け足した。
 本人に聞いてわからなければ、正真正銘の行き止まりだった。

 かくして、風香は帆乃に話した計画を実行した。
 放課後話がしたいから美術室に来て欲しいという伝言と、念のために同じ内容をしたためたルーズリーフを二組の生徒に託したのだ。用事があって誘いを断られることも予想はしていたが、結局放課後になるまで何も言いに来なかったので約束は成立したとみなすことにした。
 終礼が終わってすぐに、待ち合わせ場所の美術室に急ぐ。今日は掃除もない。
 絵を描こうという美術部員もいないのか、四階の廊下は静かだった。
 荷物を適当に廊下に置いて、待つ。
 待つ。
 待つ……。
「……しまった、すっぽかされることは考えてなかった」
 腕組みをして、風香は顔をしかめた。
 考えてみれば知らない相手からの突然の呼び出しなんて、警戒されて当然である。告白みたいじゃない? なんてお気楽なことを言うのは帆乃だからだ。
 かと言って、早々に諦めて帰ってしまっては単なる遅刻だったときに困る。それじゃあ風香がたちの悪いイタズラを仕掛けたような格好になってしまう。
 とりあえず、座る椅子でも持ってこようか。そんなことを風香が考え始めたとき、階段の方から足音が反響して聞こえてきた。
 来た。
 風香はぱっと腕を解いた。なんとなく姿勢を正して、足音の主を待つ。
 やがて、階段を上って一人の少年が姿を現した。
「あっ、遅くなってごめんなさい。日直で。えっと……」
 大人おとなしそうな、というか、気の弱そうな少年だった。プラスチックでできた太い眼鏡めがねのフレームに、少年本体の印象が負けている。
 風香は持ってきていた例の学校便りをすかさず出して、ひまわり畑の絵にびっと指を突きつけた。
「あなたがこれ描いた人?」
「う、うん。……で、君がこれを書いた人?」
 おどおどと、少年が風香の様子をうかがいながら一枚の紙を出す。風香が朝井大和に渡すようクラスの人に頼んだルーズリーフだった。
「そう」
 風香がうなずくと、少年――朝井大和は、先にしゃべり出した。
「鈴江さん、だよね。候補になってた絵、見たよ。すごく上手かった。どこかで習ってるの?」
「美術部なの」
 それだけ答える。どんな顔をして話そうか、まだ決められていなかった。
 大和はぽんと手をたたいて、さらに続けた。
「ああ! 美術部だからあんなに上手なんだ。木から本当に葉っぱが生えてるみたいで、僕もあのぐらい上手かったらな、って思っ」
「選ばれたのは朝井くんでしょ!」
 思わず、風香は大和を遮って叫んだ。強い言葉は悲鳴のようだった。
 よく知らないくせに代表権を奪い取った、よく知らない転校生をキッとにらみつける。
「はっきり言って、下手だよ。葉っぱは何色か重ねた方が立体的になるのに一色だし、遠くの物も同じ濃さだからちっとも遠く見えないし、マスキング甘いし、そもそもあれ、『窓』って題名なのに全然窓っぽくない。ただの『枠』でしょ。窓のつもりならガラスの反射を描かないと」
 口をくままにあれもこれも吐き出してから、風香ははっとした。大和本人に『夏の窓』の制作意図を聞くとか、本当の能力を測るだとか、帆乃に言った理由はただの言い訳だったのだ。そうなのだと、気づいてしまった。
「……あ……ごめん、つい……納得いかなくて……」
 風香は、しどろもどろに謝った。
 急に大和を呼び出して文句を言った自分が、恥ずかしく思えてきた。不満を言葉にして冷静になったからだろうか、怒りをぶつけたのにちっともすっきりしなかった。
 これじゃ、ただの負け惜しみの理不尽だ。
 大和には怒る権利があった。あったが、彼は使わなかった。
「……ありがとう」
「え?」
 風香は一瞬何を言われたかわからなくて、ぽかんと口を開けた。
「あ、早口で最初の方忘れちゃったから、もう一回言って! 今度はメモ取るから!」
「ええ、えっ?」
 意味を飲み込めていないところに、さらにわからないお願いが追加された。
 それどころか、大和はいそいそとかばんから筆記用具を取り出し始める。
「絶対下手なのはわかってたんだけど、どこ直したらいいかわからなかったんだ。えっと、葉っぱはなんだっけ」
 途中まで何事かメモを取ってから、窺うように風香を見る。
 どうやらからかっているわけではなく、真剣にメモを取り始めるつもりらしい。
 風香はしばらく硬直していたが、答えはまだかと言いたげに大和がじっと見つめてくるので、とうとう答えてしまった。
「……何色か重ねた方が立体的になる」
「それ、何色でもいいの?」
「太陽の下なら、黄色系の色を選んで重ねると光が当たってる感じが出るよ。あと、遠くのものはくすんで見えるから、薄い色を使うと奥行きが出る」
「くすんで見えるって、どういう色?」
 答えれば間髪入れずに次の質問が飛んでくる。風香は返事に困った。
「それは……たとえば……」
 言葉が見つからない。
 頭の中に使うべき色は浮かんでも、それを上手に表す言葉を風香は知らなかった。
「……見せた方が早いと思うから、来て」
 悩み抜いて、風香は大和を美術室の中へ招いた。
 上手く伝える方法があるとすれば、それは間違いなく絵だった。
「どこでもいいから座ってて。私の道具貸してあげるから」
「あ、うん」
 美術室の後ろのロッカーを開けて、風香は水彩絵の具のセットを取り出した。少しずつ必要なものを買い足してそろえたせいで、不格好にケースに詰め込まれた絵の具と筆たち。あと何枚かしか入っていない水彩紙。それらを適当につかんで、風香は大和が座る席に歩いていった。
 机の上をセッティングしてから、風香は適当な緑の絵の具を筆に取った。葉に見立てて、しずく型の形を横向きに紙に描く。
「まず一番手前の色がこうだとすると、少し後ろの色はこう。その後ろならこう」
 絵ならすらすらと説明ができる。パレットに次々絵の具を出して混色しながら、風香は重なった葉の描き方を実演してみせた。
 まるで手品でも見せられているような顔で、大和はその手元を凝視している。
「……本当だ」
「で、光が当たってるところに色を加えるなら……こう」
「本当だ!」
 小さく拍手までして、大和は無邪気に喜んだ。
 風香にとっては当たり前のことをやってみせただけだ。風香自身絵を本格的に勉強し始めたのは中学に上がってからだが、それでもここまで着彩のテクニック一つで大喜びした覚えはない。
「ねえ、見本の写真でもそういう風に見えてると思うんだけど、ちゃんと観察して描かなかったの? 見たままを描けばいいのに」
 怪訝けげんに思って、風香は訊いた。大和はぱちくりとしばたたいた。
「写真?」
「見本。横に置いておいていいって先生言ってたでしょ」
「そうだっけ」
「何も見ずに描いたの? この絵? まさか、想像で?」
 見本なしで絵を描けと言われたら、風香だって困る。実物を忠実に再現するのと、何も見ないで描くのはまた別の技術だ。記憶力と素で持った知識がものを言う。神話や聖書の世界を描いた昔の画家たちでさえ、元にするモデルは用意していた。
「あっ、違う違う違う!」
 大和は慌てて訂正した。
「行ったことはある場所だよ。おばあちゃんの妹が住んでる田舎いなか。何回か行ったんだ。電車の中から見るひまわり畑がすごく綺麗きれいで……」
「じゃあ、窓って、電車の窓?」
「うん」
 風香は学校便りに印刷された大和の作品をもう一度見た。題名とこの絵だけでは、どこの窓なのかわからない。風香はてっきり、部屋の窓なのかと思っていた。
 大和は目を閉じて、その風景を思い描くようにしながら言った。
「電車とか飛行機でぼーっとしてると、窓がだんだん壁にかかった絵みたいに見えてくるんだ。ビルの絵、山の絵、青い空の絵」
「よく旅行に行くの?」
「引っ越し」
 へえ、ともそうなんだ、とも言えず風香は口を閉じた。
 大和が机に置かれた絵の具と筆を見た。手を伸ばしかけて、風香の顔色を窺う。
「僕も何か描いてみていい?」
「どうぞ」
 風香は自分の絵筆を水にけながら答えた。特に拒む理由もない。
 そこでふと思い出して、美術室の窓際に並べられた教科書を取りに行く。
「せっかくだから、あの絵を描き直すつもりで描いてみたら。ひまわりなら、確か教科書に写真があったはず……ほら」
 ぱらぱらと教科書をめくり、季節の花々の写真が印刷されたページを開く。太陽に向けて咲くひまわりの写真が、そこにはあった。
「これ見ながら描いたらいいよ」
「わかった」
「あっ、いきなり絵の具じゃなくて!」
 筆を手に取った大和を、急いで止める。
「自信ないなら、余計にちゃんと下描きした方がいいよ」
 代わりに鉛筆を持たせると、大和は素直に受け取ってひまわりの花を描き始めた。
 見本として横に置いてあげた教科書の写真を観察して、丁寧に模写していく。
 ――なんだ、ちゃんと見本を意識すれば、悪くないじゃん。
 写真に沿った大和の絵は、風香には『夏の窓』のひまわりの何倍も良いものに見えた。ちゃんと種のつく方向を意識しているし、花びらも雑に見えない。
 あらかた形が仕上がってきたのを見てとって、風香は着彩の用意をしておくことにした。
「次は色ね。ええと、黄色と、緑系と」
「爽やかな緑ってある?」
「爽やかな緑?」
 思わず風香は訊き返した。すると、大和は困り顔で答える。
「僕、色の名前詳しくないから。これとこれの間で、もうちょっと濃い、爽やかな緑。夏の昼間っぽい色」
 大和は絵の具の中から「ビリジアン」と「きみどり」を手に取って見せた。
 風香の買い足した絵の具の中には「コバルトグリーン」や「エメラルドグリーン」もあるが、大和が言うのはそれでもなさそうだ。そもそも、この世の全ての色が絵の具として用意されているわけではない。
「……そういうのって人それぞれだから、混ぜて作るのがいいと思う」
「上手くいかなかったんだ」
 ばつが悪そうに、大和は学校便りに載った自分の作品を見た。一色しか使わず、べたっと塗っただけのひまわりの葉。風香をいらいらさせたあの葉も、あれこれ色を混ぜて大和なりに試行錯誤した結果だったらしい。
 風香はさっき自分がパレットの上で適当に混ぜた絵の具を指した。
「じゃあ、ちょっとずつ重ねて試してみたらいいと思う。たぶん、自分の狙った色を一回で出すのって、上手い人でも難しいから」
「鈴江さんは?」
「私は……見本と比べながら描くから……」
 言いながら、風香は奇妙な恥ずかしさを感じた。大和は自分の出したい色を出す方法を探している。写真のひまわりに近づけようとしているわけではない。それは風香とは違う描き方で、どちらがどうというわけではないはずなのに、風香は引け目を感じてしまった。
 なんだか、ずるをしているようで。
 大和は絵筆の先を見つめて、「なるほどなあ」とうなった。
「そっか、鈴江さんも何度かやって描きたいものに近づけてるんだ。やってみる」
 風香がやっていたように少しずつ絵の具を出して、様子を見ながら色をつけていく。飲み込みが早いのか、大和の筆づかいに迷いはなかった。
 いつだか成長が早いことを褒めてくれた伊藤を、風香は思い出した。風香と帆乃に絵を教えてくれたときの彼は、どんな気持ちでいたのだろう。
「……あのさ。他にも僕が描いたもの見せたら、どこ直せばいいか教えてくれる?」
 ひまわりの全体に色が入ったとき、大和は「次」の話を持ち出した。
「今から?」
「今は持ってないから、今度」
「これから夏休みだから……別にいいけど」
「ありがとう! あっ、道具も貸してくれてありがとう。片付けは僕がやるよ」
 大和は椅子を引いて立ち上がって、後始末を始める。気は済んだらしい。
 机に残されたひまわりの絵を見た風香は、小さく感嘆のため息を漏らした。ものすごく上手いわけではないが、下手でもない。今軽くテクニックを教えただけでこれだ。『夏の窓』は、時間と知識がないゆえにああなったのだ。
「風ちゃん、いる?」
 美術室の引き戸を開ける音がして、帆乃が入って来た。
「まだ靴あるみたいだったから、ここかと思って……えっ、何してるの?」
「……絵教えてた」
 そう返すほかなかった。
 帆乃は不思議そうに首をかしげたが、風香だって不思議だ。どうしてこうなったのか。『夏の窓』が代表に選ばれた真相を問いただすため――という言い訳で文句をぶつけるため――大和を呼び出したはずなのに、いつの間にやら絵を教える約束をさせられている。
 そういうわけで、風香はうっかり転校生の絵の先生をする羽目になったのだった。


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