続かないお話 キムチ③


久世田と書かれた紫の法被、下は白いパンツと黒い地下足袋を履いて集会所へ向かった。揉めていた法被たちは水色や黒色や黄色で、紫はその中には無かったなと思って久林は少し安心した。

西を向くとすぐそこに今では日本のマチュピチュと呼ばれる天空の城こと竹田城跡がある小さい山が綺麗に見える。雲海も見れるし明日の朝散歩がてらに行ってきたら良いと安保さんにすすめられた。この頃はまだ雑誌やテレビで取り上げられる前で、地元の人しか知らない散歩スポットだった。

思ったより似合っていた法被姿や、気持ちいい空気と景色に疲れを忘れていられたのもつかの間、集会所までの何もない直線が長い。新潟競馬場の直線くらいはあるように思える。すぐに慣れない地下足袋に足が疲れてしまい、この先の体力の消耗が思いやられた。

集会所の公園にはすでに紫の人影がちらほらあった。
まず地域の会長の高井さんから、そして集まってお神酒を片手に談笑していた5人ほどの同じ法被を着たおじさんたちに紹介されて、一緒に収納庫からやっさと呼ばれる巨大な神輿の封印を解いた。

年長者たちの軽い点検が終わる頃には夕方になっており、おじさんたちの顔色と竹田城をのぞむ田舎の空は綺麗な茜色に染まっていた。
法被姿に着替えた久世田地域の家族や若者たちが集まってきた。

8つある地域それぞれが持つ自慢の神輿は大人用と子ども用に大小2台ずつあり、真ん中にはそれぞれ太鼓が備え付けられ、打ち子が2人乗れるようになっている。
大きい方は全長約10m重さ約2トンくらいあり、縄で編んだ大きな龍の顔の周りには美しい伝統の彫刻の欄間や装飾、その周りに法被と同じ色の灯がともる提灯が下がっていてとても壮観だった。

4本の太い四角い家を支えることのできるくらいの柱が前後方向に貫通しており、その先に付いた縄を引いて神輿を引っ張り街を歩いて巡る。縄を持たないその他大勢はヤッサの左右や柱の間を歩き、電柱などの障害物が来ればヤッサに登ったり後ろに回ったり器用に避けて進む。坂道ではみんなで押したり、カーブでは柱に体重をかけてやっさをきしませながら曲がり、
上(かみ)じゃあ、そおりゃあ、下(しも)じゃあ、そおりゃあ
と行く方向の掛け声とともに自分の地域を一周し、家族たちに手を振られながら陽が落ちる頃には歩いて30分ほどの竹田駅前へ向かう。

駅前には地域の住人や観光客が集まってカメラを構えており、8つの神輿はそのメインの一帯を取り合うように、さらに大きな声を張り上げ、太鼓の音も大きくしリズムを早めて往き来する。

土曜の祭りの見せ所は神輿を掲げる瞬間で、リーダーの
上げるぞぉ!
の声とともに人数が揃っている地域は神輿を持ち上げ空に掲げる。これが本当にキツかった。
よいさぁ、よいさぁ、よいさっさっ
の掛け声でまず肩に乗せる。肩に柱がめり込み、その重みは腰と膝へ移動して足首を折ろうとする。

さらに次の掛け声で肩から浮かせて全員で腕を伸ばしきる。やっさの下では血管が浮いた顔をみんなで見合わせる。そしてある程度の拍手をもらったら肩に戻す。
息が合わなかったり、人数が少ないと崩れてしまうのでなかなか難しい。
その分成功した時は一体感が高まり、この頃には久林はすっかりよそ者から久世田の仲間としてみんなに受け入れられていた。

歓声やフラッシュを満足のいくまで横顔に浴びきったら神輿を下ろして、早くどけやコラと次に控えている別の地域のぎらぎらしたやっさにそのスポットライトを譲る。
その一連の流れをなぜか、少なくとも久林には理由は全く理解できなかったのだが、何度も何度も繰り返しす。しかもやっさ揚げの調子が良いと、興奮した会長から無理な檄が飛び、一度肩に落としてからさらにもう一度かかげなおしたりもしないといけなかった。
すっかり暗くなって、久林の身体がダイヤモンドステークスを走った後のような疲れのピークを2周ほど超えた21時頃に、やっと駅から遠い地域の神輿から順番にそれぞれの収納庫へと帰っていった。

初日が終わる頃、慣れない地下足袋で走り回った足の裏は悲鳴をあげ、腕は垂れ脚は重く、休憩中に配られるチューハイに回復力は奪われ、降り出した秋の冷たい小雨が久林の心と身体を冷やしていた。

最初こそ目新しさや祭りの雰囲気に高揚していた頭も、法被に着替えてから5時間ほどたった頃には、さっさと終わって欲しい以外の感情は消えていた。
学生時代に登山で鍛えた心を無にする精神をなんとか駆使して、後半の3時間をやり過ごした。帰り道は、もう後悔しかなく、明日はどうやって観る側に回ろうかという作戦を練るのにも疲れて、ただ足下に注意だけして歩いた。

のろのろとやっさから少し離れた後ろを歩き、やっとの思いで収納庫のある集会所へ着く直前に、1人の大学生っぽい女の子が

なおやくんお疲れさま!

と隣を歩いていた安保先輩に笑顔で声をかけた。

気になったので久林も少しだけ首をあげてその子を見た。長い黒髪で目鼻立ちがはっきりしていて化粧いらずの、綺麗な瞳の女の子だった。

おう、さくらちゃんは明日は出るんか?

うん。

ほな頼むで。
と安保先輩はそのこと仲よさそうに話していた。

提灯に照らされた綺麗な横顔が気になったが、今は疲労のみが神経を巡っていたし、当時の久林は美人だったりタイプの女性に気軽に話しかけたりする勇気も持っていなかったので、ただただうつむいて隣を歩いた。
その子が去ってから、安保さんにどういう知り合いか尋ねると、隣の高井家に住む三姉妹の末っ子のさくらちゃんだと教えてくれた。

高井会長の娘さんやから間違っても手え出すなよ
と、冗談で言われた。

出しませんよ。
とつっこんだが、ヘトヘトでうまく笑えなかったので、怒っているみたいになってしまった。
一瞬よぎった恋の予感があっという間に霧散したつらさも滲んでしまったのかもしれない。

集会所の公園には焚き火がたかれて、先に帰っていた小やっさの子どもたちが身体を温めていた。天幕の下にはテーブルと椅子、テーブルの上にはおにぎりやカップラーメンなどの夜食が少々と、用水路を流れているかのように尽きない大量のお神酒にビールやチューハイが山のように並んでおり、参加したおじさんたちの本当の目的の準備が整っていた。

声変わりさえ済んでいれば誰かれ構わず一緒に飲みたがる無法者の責任者たちや安保先輩に謝って、お酒の飲めない久林は小学生やそのお母さんらと一緒に集会所を出た。
途中からは独りで安保さんの家まで歩く。ただでさえ長いその道は今日来た時よりもさらに長く、ケータイしか明かりの無い暗さと明日への不安でとても心細く、家はとても遠く感じた。
先に安保家に帰ってお風呂をいただき、竹田城跡には目もくれることのできない時間にアラームをセットして布団に入らせてもらった。


つづく。

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