続かないお話 キムチ⑥

翌年3月、久林は貯金の半分をニュースタークリエーション大阪校という老舗のお笑い養成所の口座に振り込んだ。
久林なりにお笑いという仕事や養成所を出たその後の活動を考え、本当は東京にある人力舎という事務所の養成所に入りたかったのだが、入学金と引越し費用を考えると、先立つものがかなり心細かったこともあり、あまり良いイメージは無いが結局は自分次第だろうという事で割り切った。

お笑いは、まだ養成所でのネタ見せやお客さんが身内メインのライブとはいえ、前職では感じることのできなかったやりがいを感じることが出来た。こうなりたいというような人や目標も与えてくれた。
ある程度の手応えや自分の中で設定していた足を洗うデッドラインをギリギリでくぐり抜けながら、なんとか辞めずに半年ほど経過した。
9月の終わりにただただ恥ずかしいだけのカンフーの授業を欠席する文面を考えてケータイと格闘していたら、安保先輩からのお誘いのLINEが届いた。

久林は、今年は参加します!と連絡した。
しかし、祭りの2日目に当たる日曜日にお笑いのライブが入ってしまい、車もなかったのでやっぱりお断りすることになってしまった。

久林はこの時のことをたまに振り返る。
もしたった1日、早起きして往復7時間の電車賃7000円を無理してでも捻出し、次の日の体力のことなど無視して弾丸であの祭りに参加していたら結果は違ったのかなと思ったりする。
しかし、実際に久林が参加したのはその次の年の祭りだった。

2014.10.11 土曜

久林は大学時代の先輩の森さんと、同じく同期だった繁岡と一緒に、森さんのラクティスを運転して竹田へ向かっていた。
森さんは大学時代にもお世話になったが、久林が自動車会社に勤めて研修でディーラー営業業務をしている時に、久林からこの青いラクティスを購入してくれた大変恩義ある先輩で、今でも連絡を取っている。
あの時は大きな顔をさせてもらったのに、森さんがローンを完済する前に辞めてしまってすみません、
と謝る久林を、森さんはこの旅行の往復ドライバーの刑だけで許してくれた。だいぶ減刑されたのは、社会に傷心中のフリーターと思っていてくれているからだろう。
かなり恥ずかしいが、1年目の売れそうな手応えも無い芸人である事は夜に飲みながら打ち明けよう。
みんなで昔を懐かしみながら楽しく恩車を転がしていたのだが、旅行気分は急に終わりを告げた。

途中立ち寄ったSAを出た瞬間に、後部座席の繁岡がシートベールトを付け忘れたのを、張っていたネズミ捕りパトカーに取り締まられ、久林のゴールド免許が失墜したのだ。
久林はそのままUターンしてもう大阪まで引き返そうと思ったが、森さんから刑罰執行中の身だということを思い出し、なんとか半泣きでそれを思いとどまった。
かなり早めに冬の空気が流れた車内のミラーからパトカーを恨めしくながめると、車体に兵庫警察という文字をみとめて、もうすぐ安保さんの家に着くことがわかった。

30分ほどで安保さんの家に到着し、ひと通り慰めてもらってから、みんなで紫の法被に着替えて集会所へ向かった。

高井元会長に挨拶したり、相変わらずすでにもう顔の赤いおじさんたちと言葉を交わし、3年前仲良くなった一個上のヒトシくんの赤ちゃんの小さなお手手と握手させてもらった。
今では自衛隊にいるという、当時は小やっさの太鼓を叩いてる中学生だった男の子の面構えの変わりようなどに驚きながら、時間の流れを感じた。
久林は痩せたやつれた老けたと言われたり心配されたりで、意中の女性に会う前に外見に対する自信を失ってしまった。
そんな小心を鼓舞するかのように、若い衆が集まって来て、大きく太鼓を鳴らし始めた。相変わらず皮膚を通り越して身体の芯まで重く響く。

子どもたちが小やっさの準備をして一足先に街を回り始めた頃に、さくらちゃんらしき人影はやって来た。
友だち3.4人と楽しそうにしゃべっているのが気配でわかる。一瞬そちらに顔を向けると別の子と目があってしまいすぐにそらした。おそらくエルフの荒川だったあの子だ。今では髪を上に束ねて紅しょうがの稲田さんみたいに大人に仕上がっていた。

向こうはこちらを見たりしたのだろうか。一瞥したとして見覚えがあるなくらいには思ってくれているのか、それとも毎年この時期だけに現れる誰かが呼んだ助っ人のうちの1人くらいと思ったか。
独りでいるならまだしも友だちの輪を割ってこちらから話しかける勇気は久林には無い。
やっさが一度動き出すと、次の休憩がくるまでは、太鼓の打ち手や監視役以外のやっさを囲む紫の人間はスタートした配置からだいたい動かない。久林は、稲田さんたちがいる中腹とは逆サイドのやっさの先頭でもどかしく出発を待っていた。ここからでは顔も見えない。
突き出した2本の柱からそれぞれ2本ずつ前後に計8本引き綱が伸びていて、進行方向の先頭4人がその綱を引く。久林はその綱のポジションが好きだったのでよそ者関係なくその手綱を握っていた。
今回もそのつもりの顔をして先頭に来たが、心の中は違った。見たいけど見られたくない、もし目があっても全く話しかけられないような事になったらと臆病になっていた。

久林が自分の情けなさを嘆いているうちに、リーゼントの塊のような新会長がタイヤ止めを外し、前後の安全を確認しながら言った。
えらい人数多いなぁ、ノブとヒトシ、小やっさ人少なくてたぶんやっさ揚がらんやろからあっちまわったってくれやぁ!
はい、と返事して後方の1人と久林の隣で手綱を握っていたヒトシくんが駅の方へ走っていった。

久林の大脳のスクリーンには、ここからの出来事はスローモーションのように届いた。
新会長の、
綱あいたぞおら誰かあ。
の声と同時に、柱の下をくぐって艶のある茶髪をくくった女の子がかがんでこっちに向かってきた。
体を起こして、少しだけ乱れた前髪を耳にかけて、久林の隣で少し揺れながら垂れている綱を握り、

えへへ。ラッキー。

とさくらちゃんがこっちを向いて笑った。

久林は、自分の顔がお神酒に群がっていたおっさんたちのそれより紅く染まるのがわかった。
お茶を飲みたての口がからからに乾いていく。

新会長がいくぞぉ!と声を荒げた。


つづく

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