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民謡をめぐるグローバリズムとローカリズム 〜クラシックから民謡クルセイダーズまで〜

民謡というのは、じいさんばあさんが歌う音楽で、地域によって違う、ウネウネした歌い方というか、謎のリズムというか、そんなイメージありますね。まあ、だいたいあってると思います。僕は坂本龍一さんのスコラという番組を担当していた時に民謡の手ほどきを受けているので、結構楽しめますが、いきなり多くの人たちが民謡を聞いてひゃっほいってなるかって言われると、そうではないかもなとも思います。ちなみに僕の好きな民謡の曲はこれです。青森津軽の民謡ホーハイ節。押し付けるわけじゃないけど少しだけ聞いてみてください。歌い初めまでしばらくあるけど。


ホーハイホーハイの裏声がヨーデルみたいですね。この曲、この時点で最高って思えなくてもOKです。文章読み終わる頃には最高だと思わせてみせますから。

民謡というのは、その場所で作られた楽器とその場所の歌い手が独特の間合いと音階で歌う音楽。つまりローカルサウンドともいえるかもしれません。

ローカルサウンドってのは要は土着的なもんですから癖があります。例えるならば、初めて食った友達の家の味噌汁みたいな感じというか。「うわ!なんで味噌汁に椎茸こんなにいっぱい入ってるん!」みたいな。癖の強さにひるんでしまうみたいなことが起こりやすいと思います。でも、その味噌汁は世界でそのお家にしかないものなのです。民謡ってのもそう。その土地だから生まれることができた音楽、サウンドということです。

もう一方でグローバルサウンドという考え方があります。ローカルに対してグローバルですから、その場所じゃなくても生まれることができた音楽、言語が違くても通じ合えるサウンドというかそういう感じかもしれません。

グローバルサウンドということでまず考えたくなるのが、18世紀から20世紀初頭くらいまでのオーケストラのサウンドです。オーケストラというのは、ある意味欧米列強が辺境を支配してきた象徴ともいえます。オーケストラはありとあらゆる周辺の音楽をブラックホールのように吸い込んで拡大して行きました。「トルコ行進曲」はもちろんトルコと関係があるわけですし、「アラベスク」というのはアラビア風ってことです。楽器を見ても曲によっては中国のドラがおいてあったりとかしますね。

いかにオーケストラが周辺を吸収して拡大していったかを体感するために、2曲聞いて見たいと思います。

一つ目はベートーベンのピアノ協奏曲5番皇帝。1811年初演。日本では江戸末期ですね。この演奏は、内田光子さんピアノと小澤征爾さん指揮。

最高ですね。最高。ところでみなさん気づきましたか?序盤のオーケストラ全体を映している場面。空席が多いでしょ?多分このコンサートのプログラムではベートーベン以降の、もっと大規模な編成が求められる楽曲が一緒に演奏されていたと考えられます。

そして次です。ラヴェルのピアノ協奏曲です。1932年初演。世界恐慌のちょっと後ですね。バーンスタインが自ら演奏しています。冒頭に登場する打楽器、ムチという楽器なのですが、かっこいいっすね。パチン!こういうのはベートーベンの頃は絶対に入ってこない楽器です。それにピアノのフレーズもスペイン風だったりジャズ風味みたいなものを超オシャレに取り込んでいます。いろんなものをオーケストラが吸収しまくったんですね。

かっこいい。

こうした、拡大が可能だったのは、オーケストラという形態やクラシックと言われる音楽が上手にフォーマット化されていたからだと思います。逆説的な言い方になりますが、厳格なルールがあったからこそ、ルールを逸脱する方法を見つけやすい形式だった、つまり拡大できた、ということなのだと思います。

しかし、ご存知の通り、こうしたオーケストラが象徴する中央集権的なグローバールサウンドというのは、20世紀を通じて衰退していくわけです。オーケストラは今でも愛されてますけど、老若男女、誰もが知る新曲というのはありませんよね。

じゃあ今の時代にグローバールサウンドはなくなったのかっていうと、あるんです。それはパソコンを使った打ち込みの音楽です。今や世界中の個人が同じ機械を使っていくつかの作曲ソフトを使って音楽を生み出しています。オーケストラの頃のような楽譜や楽器の編成の仕組みの代わりに、四つ打ちという形式であったり、極めてブーストされたベースラインだったりを世界中の人たちが共有していて、民謡を取り込んでグローバールサウンド化するということが起こっています。

インドの歌手、ダレルメヘンディが90年代に発表した楽曲を聴いてみましょう。

やばいっすね。なんで分身した人、ニヤニヤ笑ってんだろうとか思うけど、この曲についてひとつひとつ解決してたら終わらないんで、先に行きます。

この曲、インドで超絶ヒットした曲です。一億再生以上されてます。日本でもゼロ年代にニコ動で流行っていたようです。それは僕は知らなかったけど。

歌っているダレルメヘンディはもともと民謡の歌手。ドールという両面太鼓の音が特徴的なインドのバングラ地方の音楽をダンスミュージック化している音楽のようです。

ドールの両面太鼓の演奏動画はこちら。

ものすごい狂騒の渦。これ数時間やったりするって聞いたことあります。このドールという太鼓ですが、片面が高い音、もう片面が低い音を出す両面太鼓です。

この音を知った後に、もう一度ダレルメヘンディのトゥナックトゥナックトゥンを聞くと高い方の太鼓の音、カラカラした音が聞こえてきませんか?あとこれは僕の解釈ですが、低い方の太鼓の音をブーストしたということをシンセベースのライン表現してるのかもなとも思ってます。

メヘンディの演奏から僕らは十分な民族性のようなものを感じるわけですけど現地の民謡保守派の人たちからは批判もあったかもしれません。

たしかに、後で紹介したドールだけで演奏されている動画と比べると、味わいというか、土着感が少なくなってるかもしれないですけど、フォーマット化やルール化を経たからからこそ、多くの人に届くものになったというのも事実かなと思います。


その土地ならではの深い味わいを取るか、それともルール化して展開可能なフォーマットにのせるのか。これは、もしかしたら僕らが多くの人々を海外から受け入れて、多様化していく際に起こる問題と相似形なのかもしれないです。


菊地成孔さんが何かの本で触れていました。うる覚えで大変、大変恐縮ですが次のような内容だったと思います。「人類は、深い味わいのする音と展開可能性の高いフォーマット化との比較になったとき、味わいを捨てて、フォーマット化の道を選んできた。平均律を採用し転調が可能になり、MIDIの打ち込みによって人が演奏できないようなフレーズも演奏できるようになった。」(超大意すいません)

ということは、民謡の大事な味わいが保存されず全部四つ打ちの音楽に変えられれてしまうのか!!!との恐怖が襲ってきます。冷たいこと言うようですが、ある程度の淘汰は避けられないと思います。でも民謡のおもしろさは、グローバル化したからこそ残っていくという側面もあるはずです。

最後に一曲紹介します。この曲を紹介するために書いてたようなものです。

民謡クルセイダーズという最高のバンドが、最初に紹介したホーハイ節を演奏したバージョンです。

青森津軽の民謡と、民謡中南米の音楽(?)とのミクスチャーです。
めっちゃかっこいいですね。 最初っからそうだったみたいな気がする。
これはグローバルサウンドではまったくないけど、ローカル×ローカルによって新しい価値を生み出したっていうパターンです。民謡クルセイダーズは、イギリス盤が発売されたり、BBCでオンエアされたりと、世界的にも話題になりつつあるようです。

民謡クルセイダーズの音楽を聴いていると、世界の民謡はあらゆる地点で同時多発だったのかと錯覚させてくれます。そんな空想、最高なんですけど。

と、ここで、もう一度最初のホーハイ節を聴いてみてください。じっちゃんばっちゃんの歌、いい感じに聴こえてきたでしょ?

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