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アンフィニッシュト 50-1

サンデー毎日(毎日新聞出版)にて2017年秋まで連載していたミステリー小説を毎週火・木にnoteにて復刻連載中。
1960年代後半の学生運動が活発だった日本を舞台に伊東潤が描くミステリー小説。

 寺島はノートを置いて立ち上がった。
 ——過去に押収した乱数表だ!
 北朝鮮に渡ったさど号ハイジャック犯たちは、日本に戻ると裁判を受けさせられ、懲役刑に処される。そのため、「さど号の妻たち」と呼ばれる自ら北朝鮮に渡ってハイジャック犯たちの妻になった女たちが来日し、様々な工作活動に従事していた。
 その中の一人が逮捕された際、いくつかの乱数表が押収されていた。
 寺島は捜査本部を通して公安に依頼し、過去の乱数表とノートに書かれた数字をコンピューターで処理してもらった。
すると、あっさりと答が出た。
それを見た寺島は啞然とした。

「これを読んでいるあなたは警察官だろう。後輩よ、よくぞここにたどり着いた。私の名は中野健作ではなく三橋琢磨。ご推察の通り、公安に所属していた。過去形なのは、今はもう警察官ではないからだ。詳細は証拠物件と共に、以下の場所にある」
 そこには、川崎の某墓地の無縁墓の名前と位置が記されていた。
 早速、そこに駆け付けた寺島は、半日がかりでその墓を探し出すと、墓の石扉を開けて中を探った。
 ——あった。
 それは防水の小型アタッシュケースだった。その隣には、「岡田金太郎」と書かれた小さな骨壺もある。
 その場で、アタッシュケースの中身を確かめた寺島は、その内容に驚愕した。
 いったん自宅に骨壺を置いてから、寺島はアタッシュケースだけ持って署に戻った。
 興奮を抑えきれず刑事課のある部屋に入ると、野崎が机に座って茫然としていた。
「野崎さん、聞いて下さい」
意気込んで野崎に報告しようとすると、野崎が不貞腐れたように言った。
「捜査本部は解散となった。あれは放火ではなく失火だったとさ」
 それを聞いた寺島は言葉もなかった。
「どっかから、警察のお偉いさんに圧力が掛かったのかもしれない」
「圧力って——、どういうことです」
「俺にも分からん」と答えつつ、野崎は寺島が持つアタッシュケースに目を向けた。
「それは何だ」
「えっ、ああ、これは私物です」
 それだけ言うと、野崎の刺すような視線を背に感じながら、寺島は警察署を後にした。

 ——ようやく帰ってきたんだな。
 琢磨の乗った米軍の輸送船は、白波を蹴立てて横須賀軍港に近づいていった。
 ラジオからドアーズの歌声が聞こえてくる。水兵の誰かが甲板仕事をしながら、かけているのだ。

Come on baby light my fire
Come on baby light my fire
Try to set the night on fire

 ——こっちに来て俺を燃やしてくれ。この夜を炎の中に置いてくれ。
 かつて琢磨は、洋楽にさほど興味はなかった。だが韓国の米軍基地に長く拘留されたことで耳に入る機会も多くなり、いつしか好むようになっていた。
 日本の柔な歌謡曲と違って、アメリカのロックには真情を吐露するようなものが多く、強く共感できるからだ。とくに己の情念を叩きつけるような曲を書くドアーズは好きだ。
 ——俺にとっては、まさに炎の中にいるような日々だった。
 いまだ琢磨は、故国日本に帰ってきたという実感がわかなかった。

 米軍の巡視艇に助けられた琢磨は、密入国者として米軍や韓国政府の厳しい取り調べを受けた。さど号ハイジャック犯の一人だと言っても、なかなか信じてはもらえなかった。
だからといって日本の公安だとは口が裂けても言えない。そのため、あらゆる角度からスパイの可能性をチェックされた末の一九七三年一月、ようやく放免となった。
 だが、それから日本へ帰国するまでにも、多くの難題が待っていた。学生の間に公安を紛れ込ませていたことが公になれば、警察は国民から激しく非難される。政府も同様である。浅間山荘やテルアビブ空港での過激な行動により、世論は学生たちへの同情的な態度から厳しいものへと変わってきており、政府としては、その流れを変えることは何としても避けたい。
しかし琢磨をハイジャック実行犯の一人として扱うのなら、裁判を受けさせた上、少なくとも十年から十五年の懲役刑を課すことになる。琢磨は職務として潜入していたわけであり、そんな酷いことはできない。
そこで日本政府は米軍に頼み込み、琢磨を密かに入国させることにしたらしい。むろん、この一件は第一級の国家機密として扱われているはずだ。
 ——俺は、誰にも歓迎されていない人間なのだ。
 おそらく警視庁は当面、家族や友人にも連絡することを禁じ、監視の目を光らせてくるはずだ。
 ——笠原警視正に顚末(てんまつ)を話し、判断を委ねよう。
 ある意味、笠原は中野健作の生みの親である。頼れるとしたら笠原しかいない。 
 琢磨の乗った米軍の輸送船が、ゆっくりと横須賀軍港に入っていく。岡田金太郎の遺骨に日本の光景を見せるべく、琢磨は骨壺を胸に抱えた。
 ——帰ってきたぜ、相棒。あんたが誰かは永遠の謎だが、ここが故国であることは間違いないだろう。
 岡田独特の皺枯れた笑い声が、耳の奥で聞こえた気がする。
 やがて船が接岸され、米軍の係官から船を降りるよう指示された。
 タラップを降りて桟橋に最初の一歩をしるした時、万感の思いが込み上げてきた。
 ——これからこの国で、俺はどうやって生きればいいんだ。
 突然、不安が波濤のように押し寄せてきた。
 当面は、過去を断ち切って生きることになるだろう。それでも数年も経てば、故郷の両親に会うことぐらいは許してくれるかもしれない。だが潜入捜査官としてかかわった過去とは、一切のかかわりを断たねばならないはずだ。
 ——もう桜井紹子と会うことはできないのだ。
 もしもその禁を破れば、どうなるか分からない。もちろん死の危険さえある。
 警察という組織は、実際は国家のためなら何を仕出かすか分からない機関なのだ。琢磨はここ数年の経験によって、それを骨身に染みるほど知った。
 何カ所かのゲイトを通り、基地の正門を出ると、一台の車が停まっていた。
 それにもたれ掛かり煙草をふかしているのは、近藤信也だった。
「あんたが、お出迎えとはな」
「出迎えがいないよりましだろう」
 近藤は二人の私服と一緒に来ていた。琢磨が逃げ出すことを警戒してのことだろう。
 琢磨は半ば強制的に車に押し込められた。
「これからどこへ行く」
「あんたが行きたいところさ」
 近藤が皮肉な笑みを浮かべた。

著者:伊東潤(Twitter公式サイト
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。日本アイビーエム株式会社を経た後、外資系企業のマネジメントを歴任。2003年にコンサルタントに転じて2006年に株式会社クエーサー・マネジメントを設立。2007年、『武田家滅亡』(角川書店)でメジャー・デビュー。2010年に専業作家となって今に至る。

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