「毛利輝元と関ケ原の戦い」後編 【歴史奉行通信】第九十八号

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こんばんは。伊東潤です。
今夜も歴史奉行通信をお届けします。


〓〓今週の歴史奉行通信目次〓〓〓〓〓〓〓


1.はじめに

2. 毛利輝元と関ケ原の戦い(後編)
ー関ケ原合戦までの毛利勢の動向

3. 毛利輝元と関ケ原の戦い(後編)
ー関ヶ原合戦の実際

4. 毛利輝元と関ケ原の戦い(後編)
ー毛利家の関ケ原合戦とは何だったか

5. おわりに / 感想のお願い

6. お知らせ奉行通信
新刊情報 / イベント情報 / Voicy・ラジオ出演情報


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1.はじめに

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いよいよ秋ですね。
私は相変わらず家に籠もって仕事三昧の日々ですが、コロナ禍で大半の打ち合わせがオンラインになったので、
東京に行く時間が節約でき、効率は大幅にアップしました。
ただし編集さんと飲みながら会話をしている時に、ふと浮かんでくるアイデアがオンラインだと出てこないのも事実です。
やはり人は、対面でのコミュニケーションが大切ですね。

9月に入ってから、執筆以外の仕事も増えてきました。
自主的にやっている読書会やオンライン講演とは別に、インタビューや対談、
はたまた講演会やパネルディスカッションといったイベントの予定も徐々に入ってきました。

かくして私もかつての日常を徐々取り戻しつつありますが、町の風景が変わったのは否めない事実です。
私の住む町の周辺でも、多くの飲食店が閉店しました。
「閉店しました」という張り紙を見るたびに、オーナーの無念がひしひしと伝わってきます。

とくに閉店した店舗が解体されていくのを見るのは寂しいですね。
入ったことのない店でも、路面店だと賑わっている様子は外から分かるので、それが壊されていくのは見るに忍びないです。

まさに「夏草や兵どもが夢の跡」(芭蕉)ですが、この句で思い出すのが関ヶ原古戦場です。
ということで、ようやく本題です。

このメルマガが発行される9/15は、関ヶ原の戦いがあった日です。
というわけで今回は「毛利輝元と関ケ原の戦い」の(後編)をお送りします。

なお当原稿は、自衛隊の隊内誌「修親」向けに書いたものの短縮版になります。
これまでも何話か掲載してきましたが、これらをまとめたものを2022年後半に新書として発売する予定です。
タイトルは今のところ『合戦で読む戦国史 野戦十二番勝負』ないしは『戦国合戦十二番勝負』となります。

タイトル通り、城郭攻防戦を除いた野戦を取り上げ、戦略や戦術面から合戦のファクト(実像)を掘り起こしていくという試みです。乞うご期待!

では、後編をお楽しみ下さい。


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2. 毛利輝元と関ケ原の戦い(後編)
ー関ケ原合戦までの毛利勢の動向

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■関ケ原合戦までの毛利勢の動向

慶長五年(一六〇〇)七月十七日、四万の精兵を率いた毛利輝元が大坂城に入城した。
これに勇を得た奉行衆は「内府ちかひ(違い)の条々」という弾劾書を全国の大名に送った。
内府とは家康のことで、これは実質的な宣戦布告状になる。

この時、輝元は秀頼という玉を握ることで、家康と共に上杉征伐に出向いている豊臣恩顧の大名たちが、
味方するないしは「秀頼様に弓を引けない」と踏んでいたのではないだろうか。
それだけ武家社会では、「御恩と奉公」の関係が強かった。だが輝元の読みが希望的観測にすぎなかったのは周知の通りだ。

その理由としては、家康は大老筆頭として秀頼の命を奉じて会津征伐に赴いたわけで、
公儀がどちらかというのは解釈次第、つまり諸将の判断に委ねられていたからだ。

十九日、大坂方は徳川方の伏見城への攻撃を開始する。ほぼ同時に細川幽斎(藤孝)の田辺城へも攻略部隊を差し向けた。
奉行方としては、家康が西上してくる前に、美濃・尾張以西の徳川方勢力を一掃しておかないと安心できなかったのだろう。

この一報を受けた家康は上杉征伐を中止し、随行する諸大名に西上を命じる。
家康自身は江戸城に入り、当面は情勢を観望することにした。

同じ頃、秀元・恵瓊・広家の毛利家別働隊は瀬田の陣所を完成させた後、伏見城攻撃に向かわされた。
だが毛利家中が戦闘に加わる前の八月一日、伏見城は落城した。

一方、家康が江戸から出陣しないことに業を煮やしていた福島正則、黒田長政、細川忠興ら三万五千の東軍(徳川方)先手衆は、
彼らだけで西軍の織田秀信の岐阜城攻撃を決定する。

秀信は信長の嫡孫で、この頃は美濃十三万石の一大名の地位に甘んじていた。
従来説では三成の口車に乗せられたとか、勝った時には尾張・美濃二国を拝領できるという餌につられたから西軍に付いたなどと言われてきた秀信だが、
秀信には秀信なりに勝算があったはずだ。それが秀頼の出馬だった可能性は高い。
秀信が織田家旧臣の情報ネットワークか何かによって、秀頼出馬を確信していた可能性は高い。

またこの時、秀信が岐阜城に籠城せず木曽川河畔での野戦を挑んだことを、「愚か」と批判されてきた。
確かに六千の兵で四万にも及ぶ福島らに野戦を挑んでも勝ち目はない。
だが岐阜城は標高三百二十九メートルの金華山山頂にあり、常の城と違って城を打って出ることは難しい。
つまり数千の兵に囲ませておいて放置すれば、福島らはそのまま進軍を続けられるのだ。

それゆえ三成としては木曽川を最前線と規定し、自らが後詰に駆けつけるまで、そこを死守するよう命じたのではないだろうか。
秀信としても江戸から家康が出てくるまで、福島らが渡河作戦を敢行するとは思ってもいなかったのだろう。
こうしたことを考慮していくと、木曽川布陣は決して悪手ではない。
それよりも東軍の黒田長政の「内府(家康)が江戸から出てこないのは、自分たちの本心を測りかねているのではないか」という一言によって、
福島正則や池田輝政が猪突猛進してきたことが予想外の出来事で、その勢いに押された織田勢が瞬く間に瓦解したというのが、岐阜城合戦の真相ではないだろうか。

二十二日、二手に分かれて攻め寄せた福島らは織田勢を鎧袖一触で蹴散らし、翌日には岐阜城を落城に追い込んだ。
福島らはこの勢いで三成らの籠もる大垣城に迫る。大垣城は岐阜城から西に五里半ほどの距離にある。

自らが後詰に駆けつける前に岐阜城が失陥したのは、三成にとって痛手だった。
それでも三成は敵を大垣の線で押しとどめるべく、小西行長、島津義弘、宇喜多秀家ら西軍の主力勢を大垣城に集結させた。

この頃、毛利家別働隊は、長宗我部盛親・長束正家両勢と共に伊勢国の安濃津城攻撃に投入されていた。
安濃津城に籠もるのは、小大名の寄り合い所帯の総勢千七百で、一方の西軍は、毛利・長宗我部・長束らを中心にした三万の大軍だ。

戦いは八月二十四日に始まったが、翌日には落城が決定的となり、城方は広家の降伏勧告に従って開城を決定した。

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