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アンフィニッシュト 51-2

サンデー毎日(毎日新聞出版)にて2017年秋まで連載していたミステリー小説を毎週火・木にnoteにて復刻連載中。
1960年代後半の学生運動が活発だった日本を舞台に伊東潤が描くミステリー小説。

 そのことがあってから琢磨は出歩くこともなくなり、ホテルを転々と変えて姿をくらますことにした。むろん行き先は横山には告げなかった。そのため生活の中心は東京の雑踏へと移っていく。
 誰が琢磨を狙ったのか、琢磨には見当もつかない。琢磨が日本に帰ってきたことを知るのは米軍と日本政府、そして警察だけである。
 ——警察が俺の命を狙うはずがない。
 いかに公安でも、それだけは考え難い。
 ——待てよ。もし横山さんが、笠原警視正に俺のことを報告していなかったらどうなる。
 琢磨が帰国したことを知っているのは、琢磨が知る限り、横山とその部下の近藤だけだ。横須賀に迎えに来た二人には、何も知らされていない可能性がある。
 ——俺が帰国したという情報が、笠原さんたち警察の上層部には伝わらず、横山さんだけが握っているとしたらどうなる。
 琢磨はその可能性を考えてみた。
 ——まさか横山さんと近藤は、警察以外の誰かの指示を受けて動いているのか。
 警察上層部をパスして、どこかからの指示が直接、横山に出ていることも考えられる。
 琢磨は横山の跡をつけてみることにした。
 翌日の夕方、琢磨は桜田門駅の雑踏の中にいた。待ち合わせの振りをして柱の陰に佇み、さりげなく警視庁から出てくる人々を見ていると、横山が現れた。
 雑踏に紛れるようにして駅に向かう横山の跡をつけると、横山は改札の前を素通りし、別の出口から外に出るとタクシーに乗った。慌てて別のタクシーを捕まえた琢磨が、横山の乗ったタクシーを追わせると、横山は銀座でタクシーを降りて高級クラブに入っていった。とても警察官の給料で入れるとは思えない店である。
 それから数日間、横山の動向を探ってみると、毎日のようにクラブ通い、また自宅とは別に女を囲っていることも分かった。
 ——横山には、どこかから金が出ているのか。
 横山の背後にいる何者かの影を感じたが、金の出所を探る術はない。
 しかも横山が琢磨の命を狙っているとしても、その理由を突き止めることは不可能に近い。だが、一つだけか細い線が残っていることに気づいた。

 神保町には古本屋がひしめいている。これだけの古本屋があり、ほとんどが繁盛しているのは不思議だが、それだけ日本人は、本が好きということなのだろう。
 古本屋に負けじとあるのが飲食店で、小さな喫茶店では、買ったばかりの古本を貪るように読む若者が何人もいた。
 ——これだけ本好きがいれば、日本は安泰だ。
 だが今日の琢磨の目当ては、古本屋ではなく新刊を扱う大手書店である。
 書店に入った琢磨は、仕事に慣れていそうな中年の女性店員に声を掛けた。
「すいません。随分前に、この本を買った方を探しているのですが」
 ナップザックの中から、琢磨がぼろぼろになった一冊の本を取り出す。
「これは『リルケの詩集』ですね。どうかなさったのですか」
「これを借りたまま返せなくなっているんです。あまり親しい人じゃなかったので、連絡先を知らなくて、この本だけが頼りなんです」
 その店員は、「うちで買ったのですか」「いつ頃のこと」などと聞きながら、台帳を調べてくれた。
「きっと、この方だわ」
 店員の指し示す先には、「榎本咲江(えのもと・さきえ)」という名があった。住所も記されている。それが警察の官舎ではないので、琢磨はほっとした。
 礼を言って住所をメモに書き写すと、琢磨はそこに向かった。

 そこは高島平の公営アパートで、すでに榎本咲江は引っ越していた。管理人の中年女性に古い友人だと言って連絡先を問うと、容易に教えてくれた。だが、「榎本さんは結婚するので仕事をやめて、ここを引き払ったんだよ。だから、あんたも追っかけるのはやめておきなよ」と付け加えた。
 琢磨は「そんなんじゃないんです」と笑って礼を言うと、メモした転居先に向かった。
 榎本咲江は市川の公団住宅に住んでいた。
 棟番号を確かめると、琢磨は、その棟の近くで張り込むことにした。
 夕方になり、遊んでいた子供の数も減り始めた頃、榎本咲江が階段から下りてきた。どこから見ても若奥さん然としているその姿からは、かつて公安の警察官だったことなど微塵も感じさせない。
 咲江はブランコに腰掛ける琢磨に気づかず、その前を通り過ぎようとした。
 琢磨が『リルケの詩集』の一節を口ずさむと、咲江の足が止まった。その後ろ姿には、明らかな動揺が見られる。
「久しぶりだね」
 榎本咲江、すなわち狩野静香の頭がゆっくりと回り、琢磨を見据えた。
 琢磨はサングラスを外すと、「本を返しに来たぜ」と言って、『リルケの詩集』を差し出した。

 二人は駅前の純喫茶で向き合っていた。
「生きていたんですね」
「まあね。いろいろあったけどな」
「どうやって帰ってきたんですか」
「それも、いろいろあったさ。それよりも、ご結婚おめでとう」
「ありがとうございます」と答えつつ、咲江が一口も飲んでいないコーヒーカップに視線を落とす。
「君のプライベートを聞くつもりはない。君はもう退官した。迷惑は掛けたくない」
「じゃあ、なぜ会いに来たんですか」
 咲江の直截な問い掛けに、琢磨が答える。
「命を狙われているからさ」
 その言葉に、咲江の顔色が変わる。
「どうやら、いろいろご存じのようだね」
「ええ、知らないと言えば嘘になります」
「すべて教えてもらおう」
「私もすべて知っているわけじゃないんです。推測も交えてですけど——」と前置きしつつ、咲江はここに至るまでの経緯を語った。
「つまり、ハイジャックの少し前から、横山さんの様子がおかしくなったというのか」
「ええ、何かに思い悩んでいる様子で、精神の均衡を保てないようでした。それからしばらくして、近藤君の態度も急によそよそしくなり——」
「それで君は飛ばされたというのだな」
「はい。ハイジャックの直後に所轄に戻されました」
 咲江が、ようやくコーヒーカップを口に運んだ。
「つまり指揮系統が変わったということか」
「ええ。その少し前から、笠原警視正から横山さんへ、電話がかかってくることもなくなりました」
「いったい、どういうことだ」
「それは」と言って口ごもった咲江だったが、勇を鼓すように続けた。

著者:伊東潤(Twitter公式サイト
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。日本アイビーエム株式会社を経た後、外資系企業のマネジメントを歴任。2003年にコンサルタントに転じて2006年に株式会社クエーサー・マネジメントを設立。2007年、『武田家滅亡』(角川書店)でメジャー・デビュー。2010年に専業作家となって今に至る。

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