アンフィニッシュト6-2
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石川町駅南口前の喫茶店「ボナール」で本を見るでもなく広げていると、突然、前の席に女性が座った。
一瞬、驚いた琢磨だったが、女性の目配せで、すぐに連絡係だと気づいた。横山のファイルには写真が添付されていたが、一枚だけだったので、すぐにはピンと来なかったのだ。
通常、こうした連絡は人目に付かないアジトと呼ばれる場所で行われるが、まだアジトが作られていないことと、琢磨がマークされていないことから、トレーニングの意味で喫茶店が使われた。
――女警が先か。
女警とは婦人警官のことである。ファイルには「連絡係は男女二人」と書かれていたが、いつしか琢磨は、最初に男性が来るものと思い込んでいた。
それでも横山は精一杯、若い女警の中から学生っぽい美人を選んできたらしい。
――横山さんの好みなのだろうな。
その女警は、学生の間で流行り始めたロングヘヤのサイドを直角にカットして、短い髪が頰の辺りに掛かるようなヘヤスタイルをしていた。しかし、統学連のあの女性のような洗練されたワンレンにはほど遠く、どことなく泥臭い感じがする。
「久しぶり」
「ああ、久しぶりだな」
琢磨はコーヒーを飲んでいたが、女性はコーラをオーダーした。きっとコーヒーが苦手なのだ。
喫茶店の中には、半年ほど前からヒットしているピンキーとキラーズの『恋の季節』が流れていた。そのパンチの利いた歌と、女性ボーカルにもかかわらず男性っぽいバンドの印象は、これまでの歌謡曲とは違う雰囲気がある。
「どうしていた」
「うん、短大は楽しいよ」
女警も動揺しているのか、質問の意味をよく理解しないで答えている。
――俺も似たようなものなのだろうな。
誰か別の人間を装うなど、琢磨はこれまでの人生でやったことなどない。それは女警も同じだろう。だが横山によると、「訓練によって成りきれる」らしい。そのため、こうしたものは訓練が肝心だと、横山がこの機会を設定したのだ。
横山によると、安全な状態の時から、それぞれの役割を完璧に演じることが、後にどれほど効いてくるか分からないという。
その話を聞いた時、琢磨が「役者のような気持になるのですね」と言うと、横山は首を左右に振り、「役者という意識がある限り、必ずばれる。なぜなら、役者は仕事が終われば自分に戻れる。だがこの仕事は二十四時間、自分に戻ることはできない」と強い調子で言った。
つまり部屋に一人でいる時も、俺は三橋琢磨ではなく中野健作なのだ。
女警が咳払いをした。
沈黙が長かったので、何かしゃべれというのだろう。
――確か、ファイルによると狩野静香(かのう・しずか)という名前だったな。
横山が考えたのか、その古臭くて取って付けたような偽名が可笑しかったが、もうそれで通すしかない。
その時である。喫茶店の扉が開くと、何とあの薄青のワンピースの女性が入ってくるではないか。考えてみれば不思議でも何でもない。石川町駅前には喫茶店が少ないのだ。
今日の連絡係を男性にしなかった横山を、琢磨は恨んだ。
顔を伏せつつ琢磨が問う。
「し、静香ちゃん、東京の生活はどうだい」
コーヒーカップを持つ手が震える。
「ええ、楽しいわ。健ちゃんは」
「えっ、ああ楽しいよ」
突然、偽名で呼ばれた琢磨はどぎまぎした。
――これではいかん。三橋琢磨はここにはいない。ここにいるのは中野健作だ。
琢磨は、中野健作という偽名を名乗らされている。
上目遣いに前を見ると、静香は、ストローでレモンスライスの添えられたコーラを飲んでいた。その動作には田舎臭さが溢れているが、それが地なのか演技なのかは分からない。健作と静香は、それぞれの経歴書に書かれたこと以外、互いのことを一切、知らされていないからだ。
それから天気や芸能界のことなど、とりとめのない話をした後、琢磨は古びた本を静香に渡した。その中には、口の中でも溶かすことのできる水溶紙が挟まっており、「Everything well」とだけ書かれている。そんなことを伝えるまでもないのだが、何事も差し迫った時のための訓練だと、横山から言われている。
アジト以外で連絡を取り合う場合、これに類似した方法が取られる。公衆電話での会話は、それぞれの役割を演じることになっており、会う日時を決めるだけである。というのも学生活動家には、警察以上に通信機器に強い者がおり、公衆電話ほど盗聴されやすいものはないからだ。
「この本はキェルケゴールだ。最近、読んで面白かったんで貸してあげる」
琢磨が唐突に本を差し出す。不愛想でぶっきらぼうというのが中野健作の性格なので、連絡係が相手でも、これで通さねばならない。
「キルケ――、ああ、キルケンコールね」
――次にこうした機会がある時は、本の種類を日本文学に変えよう。
琢磨は、そのことを胸に刻んだ。
植木の間から統学連の女性の方をちらりと見たが、どうやら新入生への説明に熱中しているらしく、琢磨には気づいていないようだ。
「じゃ、またな」
唐突に席を立った琢磨は、レジで会計を済ませると急いで外に出た。その後、狩野静香がどうしていたかは分からない。おそらく残ったコーラを最後まで飲んでから席を立ったのだろう。
元町方面に向かう人々の装いは、すでに初夏を意識した涼しげなものになっていた。
外の日差しはまぶしく、めまいがするほどだ。
――そう言えば、ここは横浜だったな。そして俺は雄志院大学文学部の学生、中野健作だ。
琢磨は一瞬、自分が誰で、どこで何をしているのか分からなくなっていた。
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