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アンフィニッシュト 44-2

サンデー毎日(毎日新聞出版)にて2017年秋まで連載していたミステリー小説を毎週火・木にnoteにて復刻連載中。
1960年代後半の学生運動が活発だった日本を舞台に伊東潤が描くミステリー小説。

「何事にも手順というものがあります。まずわれわれのやるべきことは、同志を増やすことです」
「同志を増やすといっても、どうやって――」
「このカリキュラムが終わった後、あなたたちの仕事はヨーロッパに行き、そこで男女を問わず、日本人の同胞を連れてくることです」
 ――どういうことだ。
 琢磨は愕然としたが、それは田丸も同じらしい。
「何のために、そんなことをするのですか」
「君たちは九人しかいません。これでは、日本で革命を起こすには人数が少なすぎます。だから同志を増やし、組織を拡大するのです」
「つまりヨーロッパを旅している若者を拉致してこいと――」
「そうです。それが首領様のご要望です。むろん暴力的に連れてくるわけではありません。誘拐でもありません。組織の要となり得る有為な人材を見極め、領導芸術によって連れてくるのです」
「領導芸術によってということは、われわれの狙いを隠して、ということですね」
 田丸の直截な質問に、ユーチョルが眉をひそめながら答える。
「それは、その時の状況によります」
 ユーチョルの額には汗が浮かんでいた。おそらく、彼にとっても気の進まない話なのだ。
 ――たいへんなことになった。
 琢磨は背筋がぞっとした。そんな誘拐まがいのことに加担するなど、日本の警察官として絶対にできないことだ。
 だが琢磨の口から、その思いとは別の言葉が飛び出した。
「やりましょう」
 それに応じるように、皆からも声が上がる。
「そうだ。やろう!」
「多くの革命戦士を養成するんだ!」
 その言葉を聞いたユーチョルは、ほっとしたような笑みを浮かべた。
「あなたたちは、首領様からKim’s Eggsと呼ばれています。日本では貴重な人材を『金の卵』と言うのでしょう。それに首領様の姓を掛けたのです」
 ――金の卵だと。冗談じゃない!
 琢磨は一刻も早く日本に戻り、北朝鮮による拉致工作が始まることを伝えねばならないと思った。

 翌日から軍事訓練が始まった。
 午前中はこれまで同様、机に向かって領導芸術などを学習するのだが、午後は実習となり、皆、水を得た魚のように張り切った。
 琢磨も皆に先んじるようにやる気を見せた。琢磨は格闘の時間になると、自在に柔道技を繰り出し、教官を投げ飛ばしてしまうこともあった。
 そんな時、休憩時間に中田が言った一言に、琢磨は衝撃を受ける。
「君は少年時代から柔道を習っていたというけど、道場主は警察官だったんじゃないか」
「えっ、ああ、そんな話を聞いたことはあるけど、子供だったからな。確かなことは分からない」
「そうだろうな。警察官は関節技、締め技、双手刈(もろてがり)が多い。実用性が高いからだろう。あんたも同じだ」
 琢磨の背筋に冷や汗が走る。
「子供の頃の癖は、なかなか抜けんものさ」
 中田の話は、そこで終わった。
 だが琢磨は、前向きになりすぎることで、こうしたボロが無意識裏に出てきてしまうことを知った。
 それから琢磨は、さらに神経をすり減らすようにして暮らした。
 季節は冬から春に向かい、北朝鮮にも穏やかな陽光が降り注ぐようになってきた。
 北朝鮮で最も大きな行事は、四月十五日の太陽節である。太陽節は金日成の誕生日を祝って行われる北朝鮮でも最大の行事で、その前の半月は、国中が準備で大わらわになる。
 さど号メンバーたちも例外ではなく、皆で首領様へのお祝いの言葉と現状報告の手紙を書き、宿泊所内での祝賀会の準備を始めた。
 琢磨も、それらの作業を積極的に手伝った。
 ある日、宿舎に帰ると、柴本が一緒に散歩したいと言ってきた。夕飯までの一時間は自由時間だが、こんなことはこれまでなかったので、琢磨は胸騒ぎがした。
 二人は運動場に出ると、ジョギングしながら話し始めた。
「珍しいじゃないか。何の用だ」
「中野さんは、いったい誰なんですか」
 背筋に衝撃が走る。
「誰も何も、俺は俺だよ」
「そうですかね。最初はぼくもそう思いましたよ。桜井さんのことを言っていましたからね」
「桜井だと。どういうことだ。俺は何も言っていないぞ」
 突然出てきた名前に、琢磨は動揺を隠しきれない。
 琢磨は、桜井のことを自分から話題にしたことはない。皆、統学連の美人闘士のことを知ってはいても、赤城の恋人だと思い込んでいたので、そのままにしていたからだ。
「桜井さんというのは、中野さんの彼女だったのですか」
 琢磨は、どう答えていいか分からない。
「横山さんというのは警察の方ですね」
 その名前を聞いた時、心臓が飛び出すかと思うほどの衝撃を受けた。
 思わず立ち止まりそうになったが、誰が見ているか分からないことに気づき、琢磨は走り続けた。
 確かに、離れた場所からメンバーの何人かが煙草を吸いながら、二人が走るのを眺めている。
 琢磨は笑みを浮かべて柴本に追いつくと、ふざけるように柴本の肩に手を置いた。
「どうやら中野さんは、横山さんに裏切られたのですね」
「――」
「つまり、中野さんも横山さんも公安というわけだ」
 胸底から恐怖がせり上がってくる。
「中野さんは見事に潜入していた。こちらに来てからも誰一人として、そんな疑念を持つ人はいなかった。だが、寝言だけはどうにもならない」
 ――寝言か。迂闊だった。
 細心の注意を払っているつもりでも、寝言だけは盲点だった。
「中野さん、そうなのですね」
「ああ、そうだ」
 琢磨は覚悟を決めた。警察官であることがばれれば、ほかのメンバーから隔離されて、どこかの政治犯収容所に送られるのは間違いない。しかも柴本は主体思想に忠実で、半ば洗脳されかけているといってもいいほどだ。
 ――これで終わりだな。
 一人になりたかったので、琢磨は加速した。柴本との距離がみるみる離れていく。
 ――俺の残りの人生は苦痛しかないのだ。
 大同江に沈む夕日を見ながら、琢磨は自分の人生が終幕に近づいていることを覚った。
「待って下さい」と言いながら、柴本が追い付いてきた。
「ぼくは、命の恩人を売るほど落ちぶれちゃいないですよ」
「命の恩人だと」
「そうです。あの川のあの辺りまで来てくれましたよね」
 柴本が大同江を指差す。
 あの時と違って、大同江は満々と水をたたえ、悠然と流れていた。

著者:伊東潤(Twitter公式サイト
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。日本アイビーエム株式会社を経た後、外資系企業のマネジメントを歴任。2003年にコンサルタントに転じて2006年に株式会社クエーサー・マネジメントを設立。2007年、『武田家滅亡』(角川書店)でメジャー・デビュー。2010年に専業作家となって今に至る。

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